第11話 雨上がりは彼女と③
「急に倒れるからびっくりしたわ」
ぼくを本当に気遣ってくれていたんだな。そう分かる優しい口調で彼女が話しかけてくれていた。
ずっと長くまだ湿り気がとれない地面に座っていたせいか彼女の白いワンピースには染みがすこし広がっていた。
「すみません」
謝ってばかりだな。情けない。
地面についた手からじんわりとした冷たさが広がってきた。
寝転がっていたせいか頬に桜のはなびらがついていて急に恥ずかしくなる。
「倒れる前に言っていたのはどういうこと? 急に頭を抱えだしたことと関係あるの?」
横に座る彼女の頭が五度くらい傾く。髪の毛は夕日に照らされて赤く縁どられている。
きれいな三日月の形をした目が心配そうに歪んでいる。眉も真ん中の方に寄っていて、眉間にしわができている。
本当に申し訳ないなと思う。
笑顔になってほしくてここまで連れてきたのに結局また彼女の顔は青色だ。
だからこそ、せめてぼくはしっかりと話さないといけないのだろう。
何から話そうかと悩んで、口を一文字に結ぶ。
心の中でひとつ大きく深呼吸してから、ゆっくりと、そして確かめるように言葉を風に乗せる。
「ぼくは昔からよく夢を見ていたんです」
誰かにこの話をするのは初めてかもしれない。
誰にも信じてもらえないと思っていたから。
なんと話せばいいか分からなかったから。
彼女にも煙にまいたとか思われてしまうかなと不安になる。
けれど話始めた以上止める訳にはいかない。
だからぼくは言葉を一つ一つ懸命に選ぶ。
彼女に届くように。
「初めて見たのはいつだったかな。まだ物心もつかないころから見ていたような気がするんです」
さわさわと桜のはなびらが風に揺られた。あのアネモネも今頃茜に染まって揺れているのだろう。
「いつも知らない場所にいる夢を見るんです。そこは知らないものにあふれてて、見たことない奇妙なものがいっぱいあるんです」
目を閉じるとぼんやりとあの景色が浮かんでくる。
「街を走る車輪のついた四角い箱。地面を覆い隠すように敷き詰められた灰色の硬いもの。天まで届きそうなガラス張りの建物」
ゆっくりと目を開けるとそこはやはり見慣れたレムカの景色だ。
「そういう見たこともないものにあふれたところにいる夢を見るんです」
けど、と短く言葉をきる。
吸い込んだ空気が肺に届いて流れていく。
「そこはなんだか見たことがある気がするんです。ずっと昔から知っているような気がする景色なんです」
まだ目が覚めてからそれほど経っていないからか夢の残り香が纏わりついて離れない。
「そこでぼくは誰かと話しているんです。それは短い髪の毛の背の小さな友達の時もあれば、髪の長いきれいな、たぶん夢の中でぼくが憧れている人の時もあります」
「名前は思い出せないんです。けれど知っているんです」
「その人たちの名前も、あの藤棚が薫る中庭も、誰かを待っているあの桜も」
「きっとぼくは知ってるんです。あの夢の中のぼくは、ぼくじゃないぼくはそれを知っているんです」
走り出した言葉は止まらず、坂道を岩が転がっていくようにどんどん速さを増していく。
もう、自分では止められない。
「ずっとあの夢を探してるんです。あの場所を探してるんです。気づけばここじゃないどこかを想ってるんです」
「この村は好きです。けれどいつもここじゃないっていう違和感が拭えないんです。ぼくはなぜここにいるんだろうって思ってしまうんです」
「目を瞑ったときその瞼の裏に少し古びた白い教室を見てしまうんです。朝、初めて息を吸い込んだ時、藤の匂いを探してしまうんです。ドアを開けるその瞬間あの喧騒を聞きたいって思ってしまうんです」
「さっき、ミズノさんがこの景色を見たことがあるって言ったとき驚いたんです」
「だってこの景色はあの校門に立つ桜と同じだから。坂道に立ち並ぶソメイヨシノとおなじだから」
「なんでその景色を知っているんだろうって。あれは夢の中の出来事でしかないはずなのにって」
「そんなことを思っていたらなんだか頭の中がごちゃごちゃになってしまって。誰かにかき回されたみたいに痛んできてしまったんです」
「そして気が付いた時には地面に倒れこんでました」
頬を温かいものが流れて気づく。
いつの間にかぼくは泣いている。
言葉と一緒にあふれだした涙は止まることを知らず、一滴、また一滴と地面に向かって落ちていく。
なぜぼくは泣いているんだろう。
たぶんぼくはその答えを見つけることができない。
ただ流れる滴には逆らえず、水面越しに見る世界は光にあふれていた。
ただただきれいな景色だった。
胸の奥に溜まっていたなにかが涙と一緒に流れでていくように心が軽くなっていく。
ああ、そうか。
ぼくは誰かにこの話を聞いてほしかったんだ。
知らない場所のあの話を。
知らない誰かと話したことを。
夢を見るたび自分が自分じゃなくなるみたいで怖かったことを。
なにかを失っているというこの喪失感を誰かに埋めてもらいたかったんだ。
彼女の目元で光が弾ける。
彼女も、泣いていた。
ただ静かに涙を流していた。
「あれ、おかしいな。私、なんで泣いてるんだろう」
ワンピースの袖口をそっと目元にあてる。
こぼれる涙は止まらない。
「おかしいわね。涙が止まらないの」
彼女の中から泉があふれ出て、その一部が世界に飛び出していく。
その光景をぼくは美しいと思った。
それくらい彼女の流す涙は澄み切っていて、世界のきれいなものを閉じ込めたみたいだった。
「私もね」
溢れる涙を抑えながら彼女は言う。
「その夢を見たことがある気がするの。君ほどはっきりとは覚えてないけど、君の夢の話を懐かしいと思うくらいには知っている気がするの」
ようやく彼女の目から手が離れて彼女の顔がはっきりと見えるようになる。
長いまつげはしっとりと濡れていて、心なしか彼女の眼は赤くなっている。
それから彼女は風が吹き飛ばしてしまうくらい小さな声で、呟いた。
本当に独り言だったんだろう。それくらい小さな声だった。
だけどぼくはそれを聞いてしまった。
「私は君を知っていたような気がする」
それから涙が乾くまでぼくと彼女はぼんやりと沈んでいく太陽を見ていた。
遠くで鳶が鳴いているのが聞こえて少しした頃、夕日は見えなくなってしまった。
「そろそろ帰りましょうか」
辺りはすっかり暗くなってしまって、昼間とは違う種類の静けさが訪れる。
「今日はいろいろ情けないところを見せてしまってすみませんでした」
いきなり倒れたこと。
彼女の前で泣いてしまったこと。
彼女を泣かせてしまったこと。
彼女の気持ちを晴らせなかったこと。
数えだしたらきりがない。
「いいのよ。私だってみっともないとことを見せてしまったからお互い様よ」
暗闇の中でもはにかむ彼女の顔はやけにはっきりと見える。
いやそう思い描いているだけなのかもしれない。
ただそれがどうであれ彼女がいま笑っていることだけははっきりと分かった。
「また会ってくれますか」
初めて会った時もこんなことを聞いた気がする。
全くなにも変わらないなあ。
ぼくはこの人といる時間が好きになったのだと思う。
緊張して、いつもより上手く言葉が出てこなくても心地よいこの時間をまた味わいたいのだと思う。
彼女ともっといろんなことを話したいのだと思う。
彼女は特別だと身体中の全細胞が訴えている。
「ええ、もちろん」
だからそう彼女が答えてくれるだけで明日もいい日になる気がしてくる。
単純だなと僕は思うけどそれでいい気がする。
明日また彼女に会える保証なんてないけれど、また明日と言いたくなる。
その言葉はなんだか恥ずかしくて結局胸にしまったままだけれどもそれでもいい気がする。
そんなことをしなくてもきっとまた会える気がするから。
真っ暗な中、月明りだけを頼りにぼくらは歩いていく。
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