第10話 雨上がりは彼女と②

 多分彼女はなんでもないことのように話したのだと思う。

 例えば昨日靴下を左右違うのはいてたとか、昨日読んだ本が面白かったとかそれくらいの気持ちで話したんだと思う。

 けれど、ぼくにとってはそうでなくて。

 夢という言葉だけでぼくはどきりとしてしまう。

 しかもそれが桜だというのなら尚更だ。


 いつも見る夢をぼくはよく覚えていない。

 いつもそれはたまたま掴めた雨粒がするりと指の間抜け落ちて地面に吸い込まれていくみたいにいつの間にか形をなくしてはっきり思い出せなくなっている。

 そして残るのは湿った目元といつまでも乾いてはくれないここじゃないという気持ち。

 けれど温かい雨粒は無くなってはいない。それはわかる。

 地面にしみ込んだ水がぼくらの足元をずっと流れているように、あの夢がぼくの中で息づいているのがわかる。


 だからふとした時にひょっこりそいつは顔を出す。

 あまり食べないはずの焼き魚を食べたとき。

 秋、金木犀の匂いを嗅ぐとき。

 きらりと窓のガラスが光ったとき。

 そして桜が舞うこの道を見たとき。


 それらはどうしようもないほどにぼくに迫ってくる。

 知っているだろうと。

 忘れていないだろうと。

 あの夢を覚えているだろうと。


 だからぼくは彼女の言葉にその匂いを感じた。

 感じてしまった。


「なんで」

 声が震える。


「なんで、その夢を知っているんですか」

 さっきからずっと頭が痛む。

 痛い。がつんという感じではない。

 思い出せ。思い出せ。

 そういわれてるような、そんな痛さがずっとある。


「どうして、知ってるんですか」

 痛みが記憶を連れてくる。

 桜の儚さを。

 春の日の不安と期待を混ぜ込んだあの気持ちを。

 桜の花びらが一枚、そっと舞い込んだあの教室を。

 頭が痛む。頭が痛む。


 彼女は怪訝な顔をしてぼくを見つめてる。

 急に頭を押さえだしたぼくを心配しているのか、それとも答えを願うように絞り出した声に驚いているのか。

 なにを言おうか迷ったように何度か口を開いては閉じ、そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。


「ごめん、分からないの」


「どうして」

 今度は彼女がそう口にする。

「どうしてそんなに私が見た夢が気になるの?」


 痛んだ頭でぼくは必死に考える。

 どう言おう。

 どう言えば伝わるのだろう。


 決めて、言う。

 ほんとのことを言う。


「ぼくもその夢を見たことがある気がするんです」


 多分これだけならふうん、そうなんだで終わる言葉。

 けれどもこれ以上になにかを説明する言葉をぼくは持ち合わせていなかった。

 ぼくは世の中の真理を流暢でわかりやすい言葉で書き記す学者ではなかったし、見たこともないものをただ音に乗せ歌い上げるだけでまるで今ここで起きたかのように人に見せる力を持つ吟遊詩人でもなかった。

 それでも自分の何十分の一でもいいから彼女に届けばいいと思ってできる限りをその言葉に込めた。


 頭が痛む。

 視界が揺らぐ。

 ああ、倒れたのか。

 そう感じたのはまだしっとりとした桜の花びらがぼくの頬に当たっていたからで、でもその次の瞬間にはぼくは気を失ってしまった。

 重くなっていく瞼の裏で彼女が駆け寄ってくる姿が見えた。



 ◇ ◇ ◇


 この高校に入って二度目の桜だ。

 校門を入ってすぐ右手。自転車置き場のすぐ前にその桜は咲いている。

 いつも入学式のころにはすでに散ってしまってなんだか拍子抜けした入学写真をとることになるらしいのだけど、去年の入学式、ぼくらがこの学校に初めて足を踏み入れた時は珍しくまだその枝に黄緑が混じってはいなかった。

 四月の透き通るような青空を埋め尽くすように隙間なくびっしりと桜のはなびらは並べられていて、ほんの少しの隙間から覗く太陽はやけに温かかったのを今でも覚えている。

 もうそろそろ入学式の季節だなとこの桜を見て思う。

 けれど今年の入学者は残念だろうなと思う。

 まだ三月のこの時分から咲いているところを見ると、きっと入学式のころには例年通りに散り始め、またほんの少し寂しい写真をとることになるのだろう。

 そうそう二年も続いて奇跡は起きないということだ。


「あれ、君も帰り?」


 明後日の方向に飛び出していた意識を慌てて引き戻し、自分にある芯みたいなものをしゃんとする。

 彼女だ。声だけでそうわかる。


「はい。--先輩もですか」

 多分いつもの三割り増しくらいでぼくの背筋は伸びていて、いつもの二倍くらいはさわやかそうな声をだす。きっとそんな風に声を出せていないけど、どこかでそんな声を出したいと願ってる自分がいるらしく先輩に会うといつも自分じゃないみたいな声になる。


「そうよ。ようやく仕事が終わったからね」


 緑と紺色のスカートをふわりとなびかせた彼女をぼくは見ている。

 薄い藤紫のシャツとそれを包むグレーのブレザーは彼女によく似合っている。


 ふふ、と彼女が桜のはなびらを透かして降りてくる日差しみたいに笑う。

「君はいつも緊張してるね。私ってそんなにとっつきにくいかな?」

「い、いえ、そんなことはないです」


 自分の顔が急に熱を持ったのがわかる。心臓も早鐘を打つ。

 きっと今脈拍を図られたら病院送りだ。

 生徒会に入って彼女と過ごす時間は長くなったというのに一向に慣れることはない。

 眼鏡をかけ、資料と格闘しているときも。日々の仕事に追われ疲れて眠ってしまったその姿も。そして起こされて恥ずかしそうにはにかむその姿も。

 どうしたってぼくの目には特別に映ってしまう。

 今だって西日に照らされた彼女の長く美しい黒髪にできた光の環がとてもきれいでまるで天使のわっかをかぶっているみたいだ。


「じゃあ、あれかな? 私の姿に見とれちゃったとか?」

 言い当てられてどきりと胸が跳ね上がる。

 なかなか口を開くことができない。

 そうこうしているうちに彼女は恥ずかしそうに手で顔を覆ってしまった。


「なにか言ってよ。恥ずかしいじゃない」

「すみません」

 照れるなら言わなきゃいいのに、なんて思う。

 彼女は案外いたずらが好きだ。

 生徒会室においてあるポッドの中のお茶をコーヒーに変えて、コーヒーを飲めない人が困惑する姿を楽しんだり、すれ違いざまにぼそっとからかってきたりする。

 生徒会に入るまでは知らなかった彼女がいっぱいいる。

 それは少しづつぼくの中に入っては来ているのだろうけど、まだまだ見たことのない彼女はたくさんいるのだろう。毎回会うたびにぼくの知らない彼女がひょっこり顔をのぞかせる。

 だからぼくは彼女にいつまでたっても慣れることができないんだなんて言い訳みたいに思ってみる。

 彼女のそばに行くと毎回どぎまぎしてしまうこの気持ちをぼくは知っているのだろうけど、そんな言葉で覆い隠してごまかしてしまう。

 けれど最近はそれでもいい気がする。

 知らない彼女を毎回見れるだけで。知らない色が毎日そこかしこに現れるだけで。ぼくの心の容量はパンクしそうになる。


 いまはこれでいいやって思う。

 いまはとか言いつつ、いつまでもなんだろなんて自嘲してみたりもする。

 それさえも今は柔らかい四月の空気のように心地よいのだからまあいいのだろう。


「あーあ。まあとにかく入学式まではあと少しだから頑張ろうね」

「はい」

 耳たぶにまだ赤さを残した彼女は手を振って自転車置き場の方へ去っていく。

 枝から桜のはなびらが離れて、彼女の髪の毛に静かに舞い降りた。


 ◇ ◇ ◇



 目を瞑っていても分かる日の光の紅さに気が付く。

 目を開けると辺りはすっかり赤色に染まっていて、伸びる木の影も随分と長くなっている。


「大丈夫?」

 ずっと看病していてくれたのだろうか彼女の声がすぐ近くから聞こえる。

 横を向くとぼくが寝ている場所から身体一つ分くらい開けて彼女は座っていた。


「はい。すみません、ご迷惑をおかけして」

 頭はもうすっきりしていたけどなぜか涙がこぼれそうになる。

 その姿を彼女に見られないように反対側に顔を向けてぼくは起き上がる。

 太陽がゆっくりと西の山に隠れようとしていた。

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