第17話 玉ねぎのス-プ

 数年前に父が亡くなってから、母親は一人暮らしをしている。震源地から遠く離れた場所に住んでいるので、母親や親戚は皆無事であった。家にも被害はなかったようだ。しかし母は、今回起きた地震に衝撃を受けたようすであった。


 「私に何か出来る事はないかしら」


 と、母は余震が続く被災地の人々に深い同情を寄せていた。

 

 バルセロナでもその地震の事は大きく報道されていた。新聞は被災地の様子を一面に載せ、テレビはビルが倒壊した都市で配給品に列を作る市民の様子を映していた。市場でも日本で起きた地震の事を聞かれ、「お前の家族は大丈夫だったか?」と皆が心配してくれた。ただ一人の魚屋を除いて。

 仕入れを済ませてカフェテリアで朝食を取っていると、その魚屋のボスが「ちょっと良いか?」と隣に座った。そして、「実は、お前の元奥さん、俺たちの店から魚を買っているんだが、少し前から支払いが滞り始めているんだ」と言った。カルメンが新しい恋人と日本食レストランを始める、と言ってからまだわずかしか経っていない。それなのに支払いも出来ないほど上手く行っていないのだろうか?


 「お前達、まだ正式に離婚したわけじゃない、って言ってただろう?」


 魚屋は、私にその代金を支払うよう圧力をかける気でいる。とりあえず「カルメンと話してみる」と言っておいたが、もう朝食を味わう気分ではなってしまった。

 

 カフェテリアで飲んだカフェコンレチェのミルクが古かったのか、カルメンの支払いが滞っている事を聞かされたためか、お腹が痛くなった。市場にあるトイレは好きではいが、急を要する事態ではやむを得ない。市場のトイレは、こちらの人がトルコ式と呼んでいる和式便所のようにしゃがみ込む形式のトイレである。しかし、和式便器のように丸い囲いは付いておらず、両足を乗せるステップがあるだけだ。そのため前後どちらを向いてしゃがんでも良いようになっているが、穴の真上にしゃがんで用を足すと、おつりが跳ね飛んでくる確率が大である。それでは反対側に向って座れば良いかというと、それはそれで危険が伴うのだった。紐を引くと水が流れてくる仕掛けになっているのだが、その水圧たるや侮りがたい勢いなのである。そのため、水の流れを妨げる障害物があったり、排水口が詰まっていたりすると、靴やズボンが汚れてしまう事がある。そんなトイレから早く脱出しよう、と慌ててズボンを上げようとしたためだろう。私は携帯電話をそのトイレに落としてしまった。予測していなかった事態が次々に起き始めた朝であった。


***


 セマナ・サンタ(聖週間)の休暇に、燐子と4日間の旅行に出かけた。行き先はピレネ-山脈の麓、セルダ-ニャ地方である。どうせどこかに行くなら温泉があるところが良い、というのが燐子の希望であった。

 

 ハジメがまだ小さいとき、私はこの地を訪れたことがあった。年末の休暇を利用して家族でバンガローを借りたのだった。幼いハジメが初めて雪というのを見たのもここである。今でも鮮明に覚えているが、産まれて初めて一面の銀世界に降り立ったハジメは大はしゃぎであった。道路わきに積もった新雪を「家に持って帰る」と言って、ヤッケのポケットに雪玉をパンパンに詰め込んでいた。そんな息子を見て、私とカルメンは微笑ましい気持ちになったものである。

 

 長い有料トンネルを抜けると、峻険な山々の岩肌が透き通った春の日差しを浴びて幾重にも重なっている。速度を落として窓を開けると、そんなピレネ-の山々から吹き降ろす風が冷たくて気持ちが良かった。山々は頂上に雪の冠を残しているが、麓の牧草地では薄茶色の牛達がうっすらと生え始め草を食んだり、泥の上にしゃがんだり、尻尾をゆらゆらと動かしたりしていた。淡いピンク色のア-モンドの花が所々で咲いていた。

 

 「のどかねぇ!素敵だわ!」

 

 初めはそう言ってはしゃいでいた燐子も、私が何度も道に迷っているうちにだんだんと不機嫌になっていった。その上、フランスとの国境を越える山道は所々渋滞していて、昼食のテーブルを予約していたレストランに着いた頃にはとっくに閉店時間が過ぎていたのだった。(旅行に出る前、地図を見た燐子はセルダ-ニャ地方に行くのなら、どうしてもスペイン側ではなくフランス側のセルダ-ニャに行きたいと言い出した。そしてまずは、何よりも先にフランス料理のレストランで食事をしたいらしい。日本の女子はどういうわけかフランス料理が好きな子が多いのだ)。スペインではまだ昼食を取っている時間だが、フランス人はもっと早い時間に(日本と同じ正午や一時に)昼食をとるのである。スペインの遅い昼食時間に慣れていた私は、うっかりとその事を忘れてしまっていたのであった。

 

 「あなたはもう、スペイン以外の国では使い物にならない人間なのね」

 

 燐子は、親の仇でも見るような目で私をにらんだ。黙って運転する私の横顔に「文句があるなら言ってごらんなさいよ」、というような挑発的な視線を送ってくる。

 とにかく、せっかく雄大なピレネ-の景色を見に来たのだから、と私はつとめて冷静になるように努めた。ただ、燐子がフロントガラスを足蹴にして粉々にしてしまわないよう、これ以上刺激しないように、と自分に言い聞かせた。というのも、スペインでは助手席に乗った女性がフロントガラスを壊す事例があまりにも多いので、スペインの自動車保険会社の契約書には次のような免責条項が書かれている、と聞いていたからだ。『衝突事故でもないのにフロントガラスが内側から人為的な力が加えられて破損した場合、保険会社はその補修代を負担する義務を負わない』。もちろんそんな免責事項など、いくらスペインといえども存在するわけが無い、と後で知るのだが、ピハマさんはこんな嘘をつく時も真面目な表情を崩さないのだ。そのために単純な私はよく騙されてしまうのである。

 

 何とか遅い昼食を取った後に向った温泉は、ポプラの森に囲まれた静かな山の斜面にあった。私達は車を麓の村に停めた後、長い時間をかけて湿っぽい山道を登らなければならなかった。ぶつぶつと文句を言う燐子をなだめたりすかしたりしながら温泉に到着した時には既に空は暗くなっていて白い月が寒々と浮かんでいた。

 

 ここは、ロ-マ時代から続く由緒ある温泉ということであった。その割にはずいぶんと客が少なかった。薄暗い寂れた場所である。施設には室内と露天屋外の2つの風呂があったが、どちらも日本で見るような岩風呂ではなく、浅くて四角張ったプ-ルという味気ないものであった。日本の温泉街で見かける射的やお土産屋なども無く、有るのはアイスクリ-ムとポテトチップスを売っているカフェテリアくらいのものであった。

 

 我々は更衣室で水着に着替えて、ガラガラにすいている屋外のプ-ルに向かった。温泉と名のつくところに来たからには、露天の湯船に浸かりたかったからである。ところが屋外内外を仕切っているガラス扉を開けると、外気は肌を刺すほどに冷えきっていた。その上、木を敷いた床は霜が降りた地面のように冷たく、しかもぬるぬるとよく滑った。はやる気持ちを抑えて転ばないよう慎重に足を運びながらたどり着いた湯船を満たしていたのは、お湯とは呼べない冷めた水であった。プールの端っこには、ちょぼちょぼとしょぼい勢いながらも湯気の立つお湯が注ぐ口があるのだが、そこには老婦人が二人、でんと陣取っていてなかなかどきそうに無い。寒いから室内のプ-ルに行こうと誘ったが、燐子は頑として露天風呂から出ようとはしなかった。

 

 「私はどうしても露天風呂に浸かりながら夜空の星を眺めたいの」

 

 と言いながら、燐子は老婦人の隣に身を滑らせた。私は仕方なく一人で屋内の湯に戻ることにした。屋内のプ-ルのお湯は、外のそれとは比較にならないほど温かくて心地よかった。ところがまだ体が温まる前に、燐子がガラス窓を叩きだした。こちらに来いと手を振っている。老婦人達を親指で指差しながら、池の鯉のように口をパクパクさせている。何かを訴えているようであった。といっても不満を訴えている様子ではなく、何か楽しい発見があったのか欠けた歯を見せながら笑みを浮かべている。先ほどからあちこち走り回ったり、お湯の中をバシャバシャと泳いでうるさく騒いでいた少年達が、そんな燐子を無遠慮に指差しながらゲラゲラと笑っていた。

 

 「どうした?」

 

 燐子はお湯の出口にいた2人の老婦人達と意気投合して仲良くなった、と言った。私たちはあの御婦人たちから夕食に招待された、と上機嫌である。

 

 「でね、あなたが寿司職人をしているってことを言ったら、沼で取れた魚をお刺身にしてもらいたいんだって」

 

 「刺身!沼の魚を?」

 

 「そうよ」

 

 燐子はどうしてそんな当たり前のことを聞くのか不思議で仕方がない、という顔をしている。

 鮎はもとより、どじょうやナマズを生で食べる人がいる、という話は聞いた事はある。私はフナ寿司というなれ寿司なら試した事があるが、沼に住む魚の刺身なんてのは一度も調理した事がない。淡水魚にいる寄生虫は人間の体内に入った場合の危険度が高い。そんな安全かどうか自信の持てないこの沼の魚で刺身を作って食べた人の健康を害してしまったら取り返しがつかないことになってしまうだろう。それは止めたほうがいいと言うと、燐子は(予想していたことではあったが)むっつりとふてくされてしまった。

 

 「そんなに言うんだったら、あなたがあのお婆さん達にちゃんと説明してきてよ」

 

 「説明してって言われても、何語で話していたんだい?フランス語なんて分からないし、、、」

 

 「大丈夫よ。私だって話が通じたんだから」

 

 燐子は私の背中を乱暴に押した後、自分は温かいお湯がある屋内のプ-ルに行ってしまった。そして2,3歩歩いたところで振り返って早く行きなさいよ、と手を振っている。額に浮いた青筋が彼女の穏やかでない感情を物語っていた。

 仕方なくご婦人達に近づいていくと、彼女達の会話の中から聞き覚えのある単語がいくつか聞こえてきた。耳を済ませると、バルセロナの言葉とは若干違うがカタル-ニャ語である。そういえば、国境を越えてフランスに入っても村の名前が書かれた標識はフランス語とカタルーニャ語の二ヶ国語表記になっていることを思い出した。国境を越えて別の国に入っても、同じ言語を話して生活している人たちがいるなどという事は、ヨーロッパでは良くあることなのかもしれない。海に囲まれた日本では経験できないことである。

 

 「こんばんわ。ここはとても素敵な場所ですね」

 

 つたないカタル-ニャ語で話しかけたら、二人のご婦人達は迷惑そうな顔をして振り返った。

 

 「お話中すいません。実は、私の連れが先ほどお二人とお話させていただようなのですが、、あぁ、カタル-ニャ語、もしかしてスペイン語は分かりますか?私はフランス語が分からないもので、、」

 

 すると、若く見えるほうのご婦人が(実際に年齢が若かったかどうかは知らないが、口の周りに放射状に広がるしわがもう一方の婦人よりも少なく見えた)スペイン語で聞いてきた。

 

 「あなたの奥さんかしら?確かにさっき東洋人の女性から、”Do you like SUSHI? 、何ていきなり話しかけられたけど」

 

 「いえ、あの人は僕の奥さんではありません。まぁ、なんというか、友達です。その彼女から今聞いたのですが、なんでも見ず知らずの僕らをご親切に夕食に招待していただいたとかで、ともかくそのお礼をと思いまして」

 

 「え?!」とここで婦人の顔がいっそう険しくなった。

 

 「あの人は私達が食事に招待した、と言ったの?」

 

 「ええ、そして夕食には沼で釣れたという魚の刺身を作りたいから、手伝って欲しい、と言われたたのですが、違うのですか?」

 

 ご婦人は訳が分からいといった様子であった。

 

 「一体どうしてそんな風に受け取られてしまったのかしら。あなたたちを食事に招待します、なんて事は一言も言っていないのに。私はただ、「この屋外の温泉には、冬になるとどういうわけか金魚が湯船に紛れ込んで泳いでいることがある」なんて話している時にあなたのお連れさんと目が合って、「あなたもご存知?」と聞いただけよ。するとニコニコと笑いながら首を頷いていたわ。でも本当は全然通じていなかったのね」

 

 「私の連れがニコニコと笑いながらうなづいている時は、、、」

 

 内湯をちらりと見て燐子がいないことを確認した後、私は続けた。

 

 「実は相手が言ったことを全然理解していないんです。そのくせ早とちりで、相手が言っていることを自分の都合のいいように解釈する悪い癖があるんですから困ったものです」

 

 私の説明を聞いたご婦人は大笑いした。もう一度内湯を見ると、燐子はいつの間にかガラスにへばりついていて、私をじっと睨んでいた。

 

 「ねぇ、何を話していたの?」

 

 「いや、大したことじゃないよ。何だか君たちの会話の中には小さい取り違いがいくつかあったみたいだから、そのことについてさ」

 

 「他には?」

 

 「別に」

 

 「うそよ。私には分かるの。あなた達はそんなことで笑ってなどいなかった。どうせ私のことで笑っていたんでしょう?ねえ、私の顔をちゃんと見て話してよ。ごまかしたりなんかしないで」

 

 しかし、「君を笑いものにしたんだよ」、なんて正直に白状する勇気は到底湧いてきそうに無い。後に2人の間に起こるであろう気まずい空気を考えると、何とかこの場をごまかして早く話題を変えてしまいたかった。

 

 「だから別に大したことじゃないよ」

 

 「大したことじゃないか、そうでないかは私が判断するわ。あなたは私に何事も包み隠さずに言ってくれればそれでいいの」

 

 「もう、いいって!」

 

 「あなたは今までそうやってちょっとした困難からも逃げてきたのね。真実に真正面から向かうってことを避けながら、そんな年になるまで自分を騙して生きてきたんだわ。奥さんに愛想を尽かされるわけよ」

 

 燐子の指摘されるまでもなく、自分にいい加減なところや甘いところがあるのは自覚しているつもりである。しかし、他人からわざわざ面と向かって罵倒されるとさすがに頭に来る。舌打ちをして燐子の脇を通り過ぎようとすると、行く手に屈強な体つきの男が両手を広げて立ちふさがった。男はどうやらここのスタッフで、腕時計をゆび指しながら何か言っている。この施設の営業時間が終了した、と告げているようであった。室内の湯に少しだけ入りたい、と訴えても頑として入れさせてくれない。凍え切った体を一刻も早く暖めたかったが、それもかなわなくなってしまった。私と燐子は寒い外の通路を通って更衣室に戻って着替え、暗い山道を降りて行った。その間、私達は一言も口を聞かなかった。

 

 車のヒータ-で暖を取ろうと早足で車に戻ると、なんと後部のガラス窓が割られていた。車上荒らしにあったようであった。さっきまでは何台かの車が留まっていたこの場所は、いつの間にか人気も灯りもなくなっている。幸い貴重品は一切車内に置いて行かなかったために盗難の被害はなかったが、シ-トは大きな靴で踏みにじられ、おまけに犬の足跡までついて泥だらけになっていた。レンタカ-会社に電話をすると、最寄の警察署に行って被害届けを出してくれとのことであった。

 

 「あなたと一緒にいると災いばかりが起きるのね」

 

 「悪いけどねぇ、厄介事が頻発するようになったのは君と行動するようになってからなんだよ。今までは平穏無事に暮らしていたんだから」

 

 「なによ!私が悪いみたいじゃない」

 

 「じゃあ僕だけが悪いのか?」

 

 そんな口論をしながらフランスの警察署に寄ったり、指定されたスペインの修理工場まで国境を逆戻りしてガラスを直してもらっているうちに(驚いたことに1時間ほどでガラスを直してくれたが)宿にたどり着いた時は日付が替わってしまっていた。夜もまともな食事にありつけなかった、と燐子と罪のなすりあいをしていたら、宿の主人はまだ起きていて、しかもオニオンス-プでよかったらある、と暖炉で暖め直してくれた。  

 私達が泊まったのは、国境の山間にある小さなホテルであった。この食堂には少し変わった暖炉があった。暖炉が2階建てになっていて、上にオ-ブンがのっている。何でも主人の手製ということであった。薪の熱を利用したオーブンで蒸し焼きが出来るらしい合理的な暖炉である。冬は一度に2つの働きを同時にしてくれるからよいが、夏にピザが食べたくなったときは、部屋が蒸し風呂状態になるので困る、と宿の主人は笑っていた。

 主人は山に住む男らしく無骨に見えるが、手先は器用そうである。聞くところによると、修理や大工作業はもとより、酒やタバコなどの嗜好品も自分で作ってしまうとのことであった。

 

 「まぁ挨拶代わりだ。とっておきな」

 

 と主人は山の男らしく豪快に笑いながら、握手を求めてきた。その手のひらから怪しげな乾燥葉っぱを握らされた。暖炉の熱のせいかワインのせいか、はたまたその乾燥葉っぱのせいか、主人のほっぺたはりんごのように真っ赤であった。

 凍えた身に熱々のオニオンス-プはとてもおいしかった。暖炉ととろけたチ-ズののったスープで体が温まり、ワインですっかり気持ちも良くなっていいった。寒さにこわばっていた手足に勢い良く血が巡りだしたのか、指先がじーんとしびれてゆく。体中の筋肉がチーズのようにとろけて弛緩していくようであった。体を動かすのも億劫なくらいに満たされた気分である。私達があまりにも感激するので、気を良くした主人は自家製のパテや強い食後酒なども持ってきてくれた。

 

 「それにしても君達の国は災難続きだね。地震に加えて、今度は台風の被害があったらしいよ。今日ニュ-スでそう言っていたけど、君たちのご家族は無事かい?」

 

 「はい、ありがとうございます」

 

 主人はうん、と大きくうなづいてから真顔で日本人のモラルの高さを褒め出した。彼の褒め口上には、まるで誰か日本人と話す機会があった時のためにあらかじめ台本が用意されていたかのように、一般のスペイン人が普段は決して使わないようなムヅカシイ単語がたくさん入っていた。

 

 「日本人が、この惨事に直面しながら少しも取り乱すことなく、冷静に秩序を保ち、なおかつ人間としての尊厳を忘れずに思いやりと責任を持った行動を続けていることに私は大変心を打たれた。彼らに対する賞賛は、私が思いつく限り最大級の賛辞を送っても決して表現しきれるものではない」

 

 とか何とか、大体そんな事を言ったのではないかと思う。日本の政治家なんかが話すようなニホンゴさえ分からない私のような人間がこんな難しいスペイン語を和訳できるはずも無いので適当に口語訳に直して燐子に伝えた。

 

 「まぁ」

 

 燐子はまるで自分が褒められたかのように頬を染めた。

 食後、我々は暖炉の火に当たりながら世間話をした、というよりも話し好きの主人から質問攻めにあった。日本の自然に興味があるらしく、是非一度日本の山を歩きたいらしい。植物や動物の図鑑を持ってきて「この山にはこんなキノコはあるか?」とか「この川にはどんな魚がいる?」などと私達の知らない専門的なことを聞いてくる。適当に話を切り上げて部屋で休みたかったが真夜中過ぎに暖炉をつけてもらったり食事を振舞ってもらった手前、邪険にはできないでしょう、とひじを突いてくる燐子は何時に無く上機嫌でいつまでたっても腰を上げそうにない。見ると普段はタバコなど吸わないくせに、先ほど主人から貰った葉っぱを太くて短いパイプに入れて吹かしている。私はヒマをもてあまして、主人が仕込んだという自家製の酒をちびちび飲んでいた。ところがこの自家製の焼酎にも何が入っているのか、ぐるぐると目が回り出した。立ち上がろうとしたら腰が抜け、そのままソファで横になったらあっという間に意識がすっ飛んでしまった。

 

 「こんな所で寝たら風邪をひくわよ。さあ、立って」

 

 と燐子に起こされた。ぼんやりと目を開けると、暖炉の火を消すためにかがんでいる主人の背中が見えた。人間の背骨というのは以外にやわらかく、だんご虫のように曲がるものなのだなぁ、などと心の中で感心していると、燐子が怒鳴った。

 

 「いい加減に目を覚まして!部屋に行きましょう」

 

 二階にある部屋へと足元のふらつく私を引っ張って行きながら、燐子は大層ご機嫌斜めであった。

 

 「あんなに強いお酒をぐいぐい飲むんだもの。せっかく二人で旅行に来たのに、あなたは寝てしまうのね」 

 

 どんな事を言われても言い返す気力も湧いてこない。部屋に入るなり服も脱がずにべッドに倒れ込んだ。それでも、気持ちが悪くなって何度もトイレに行かなければならなかった。おまけにのどは渇くし、お腹が痛くなるし、足はつるわで短時間に何度も目を覚まされてしまった。最悪の気分である。ベッドに仰向けになってうんうんうなっている間、私は切れ切れにカルメンの夢を見た。もしかしたら無意識のうちにカルメンの名を呼んでいたのかもしれない。ふと夢から覚めて目をあけると、燐子が私の顔を覗き込んでいた。頬が涙に濡れていた。

 

 「今日の事、怒っているの?」

 

 燐子は私の背中に顔を押し付けてすすり泣いた。

 

 「私を一人ぼっちにしてしないでね」

 

 私は背中越しに、震える声で繰り返される燐子の言葉をただじっと聞いていた。

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