第16話 うどんとチュ-ロス

 休みの日、燐子をタブラオに連れて行った。プロのステ-ジに感動した燐子は「私もフラメンコを踊れる場所に行きたい。どこかにないかしら」と言い出した。フラメンコが踊れるディスコはサンタ・コロマという街外れにあった。そこは一昔前にフラメンコが盛んなアンダルシア地方からたくさんの移住者が住み始めた街区で、今でもスペイン三大祭の一つと言われるセビリアの春祭りに合わせて同様の祭りが催されている。週末になると、フラメンコを踊りに来る人たちが集まるディスコがあるらしかった。

 ある週末の晩、そのディスコというかタブラオにたどり行くと、その夜は独身さよならパ-ティ-を祝う若い女性たちのグル-プがタブラオを借り切っていた。諦めて帰ろうとしたら、偶然にもグル-プの中に私の店に来る常連客の娘がいた。その子が、「遠慮しないで一緒に踊っていけ」、と言ってくれたので燐子と二人で好意に甘えることにした。


 なかなか盛大なパ-ティであった。私たちが来る前にはプロの踊り手によるフラメンコの舞台もあったらしい。その興奮の余韻が残る店内では、フラメンコの音楽が大音響で響き渡っていた。お祭りム-ドの雰囲気にすっかり刺激された燐子も、早速踊りの輪に入っていった。若いスペイン人女性のグル-プの手足の動きを見よう見まねで踊っている。その内に仲良くなったらしき女の子から踊りの手ほどきを受けていた。人にあれこれ指図されるのは大嫌い、と言っていた燐子もその晩はとても楽しそうであった。


 それまで一人で踊っていた燐子の踊りは、”フラメンコ = 情熱の踊り”と単純に結び付けていたせいか、振り付けが大げさでギラギラしすぎていた。独りよがりの高ぶった感情が一人歩きしてしまっていて、情熱というよりもヒステリックな踊りになっていた。まるで自分の感情を強烈にアピ-ルしなければ、というような強迫観念さえ持っているようであった。そんな彼女の踊りには、時として目を背けたくなるような醜悪さまでが顔を出していたのだが、知り合ったスペイン人の女の子に囲まれて踊る燐子の身のこなしは軽やかで、肩の力がすっかり抜けていた。もしかしたら、もともと踊りの素質はあるのかもしれない。とにかくその晩の燐子は無邪気にはしゃいでいて、見ている私までが何だか嬉しい気持ちになった。

 燐子は、とうとう閉店まで踊り続けた。

 

 「もうへとへとだわ」

 

 燐子は私の腕にもたれながら歩いた。額の汗に前髪をへばりつけた燐子はぐったりと疲れていたようであったが、その表情はいつになく輝いて、満ち足りているように見えた。

 

 「お腹がすいたわ」

 

 「そうだね」

 

燐子は今にも「うどんが食べたい」と言い出しそうであった。これまでも度々燐子が空腹を訴えるたびに食べ物を調理してやったことがある。「何が食べたい?」と聞くと、彼女はかなりの高確率で「うどん」と答えるのであった。

 燐子は香川県の人だけあって、うどんへのこだわりは関東人の私に理解できないほど強力である。「アラ-の他に神は無し」ではないけれど、彼女にとって、「讃岐の他にうどんは無し」なのだ。他県のうどんは遠慮なくばっさりと切り捨てる燐子は、関東風な真っ黒な汁に入ったうどんなんかうどんではないと言い切った。とはいえ、私にとって色の無いうどんツユはどうにも違和感があるから、どうしても慣れ親しんだうどんツユの色になるまで醤油を継ぎ足してしまうのであった。

 

 「あなたって、口では「讃岐うどんは大好きだ」、とか何とか言っておきながら、私には平気でこんなうどんを出すのね」

 

 そこまで言われた時の憤慨は今でも忘れない。いくらお人好しの私でも二度と燐子にうどんなんか作ってやるものかと思う。

 日本のうどん勢力図に異議を唱える気など毛頭無い。讃岐のうどんは日本一いや世界一で結構である。ただ、わが国のうどん地図の隅っこにでも、物心のついた頃から親しんでいる関東風真っ黒汁うどんをそっと置かせておいて欲しいだけである。しかも我々は、21世紀のバルセロナという自由な雰囲気の街にいるのだ。異文化への好奇心と寛容さが、この街をどれだけ「世界住みたい街ランキング」の上位に押し上げているかを見習って欲しいと思う。実際にこの街では、大根おろしの代わりにわさびが山ほど入った天ツユも、生魚を食べたことのないシェフが握った寿司も、堂々とレストランのテ-ブルに運ばれている。正式ではないかもしれないそれらの食べ物も、この街は受け入れる事が出来る広い心を持っているのだ。

 いつ「うどん」と言いだされるかと冷や冷やしながら歩いていると、折りよく空車の緑ランプをつけたタクシ-が通りかかったので反射的に手を上げてそそくさと乗り込んだ。

 

 「Bona nit 」

 

 「Buenos días」

 

 カタルーニャ語でこんばんわと挨拶をすると、スペイン語でおはようと返された。

 このタクシーの運転手は、カタル-ニャ人ではないようであかった。そして機嫌が悪そうであった。それでも異郷の地で早朝のタクシ-を運転しなければいけないらしかった。

 早起きの彼にとって夜はすでに明けている。だから「おはよう」の挨拶をスペイン語でかえしてきたのであろう。しかし、夜どおし遊んでこれから眠りに帰る私たちにとって、今はまだ夜の延長であった。明け方とはいえ空はまだ暗く、街は寝静まっている。こんな時間には、きっと「おはよう」も「こんばんわ」も正しい挨拶なのだろう。

 しかし、私が引きずっている離婚問題に向き合う事もせずにいる間も時間はどんどん過ぎてしまっているのはまぎれもない事実である。こんな大事な問題をいつまでも先延ばしにしていて良いのだろうか、とも思う。カルメンと私は、未だに今後の取り決めを何一つしていないのであった。

 

 ラジオの音楽が響き渡るタクシ-の中で、燐子は私の肩にもたれてきた。ごそごそと背中に手を回してくる。そして、無言のまま指先で文字を書き始めた。私は平静を装って窓の外に流れる港の灯りを眺めるフリをしていたが、神経は背中に集中させていた。このような状況で背中に書かれる文字は「すき」とか「love」といったロマンチックな言葉かもしれない。まさか、「うどん」ではあるまい。

 もし告白をされたらどうしよう、と胸の鼓動は早まった。

 

 最初の文字は、ひらがなの「あ」であった。

 燐子は、顔を伏せながら私の反応を覗き見ている。口元に弱々しい微笑が浮かんでいた。私が声を出さずに口の形だけで「あ?」と確認すると、小さくうなずいた。

 次の文字は「い」であった。「あ」、そして「い」。「愛」!となると次に続く言葉は「し」であろう。

 そしてその後に続く言葉は「て」、「る」しか考えられない。「愛してる」。愛の告白だ。私には、なんとなくだが、いつかは燐子から打ち明けられる時が来るかもしれないという予感があった。「ついにこの時が来た!」と私は心の中で叫んだ。「ついに告白される時が来てしまったのだ」と


 ところが次に燐子のなぞった文字は、「て」であった。びっくりした顔で燐子を見たが、やはり前のようにうなずいている。おや?と思うひまも無く、燐子は「る」と続けて私に伝えたい言葉を終えた。


 「あいてる」?真ん中の「し」が抜けているんじゃないの?燐子の顔を覗き込んだ私に、燐子はうなづいてもう一度文字を繰り返した。やはり「あいしてる」ではなくて「あいてる」であった。日本語を学習中の外国人ならともかく、ネイティブの燐子が「し」を2度も抜かすミスを犯すだろうか?

 燐子は笑みを浮かべながら私の社会の窓を指差した。そこが「開いてる」のだった。全開のファスナ-からシャツのすそが元気よく飛び出していた。私はあきれて物が言えなかった。交通警官を乗せた馬といい、社会の窓といい、燐子の視線はどうして男の股に集中するのだろう?私は燐子の手をぶっきらぼうに払いのけた。


 ***

 

 踊り疲れて腹ペコの燐子を連れて行ったのは、チュ-ロス&チョコラテの屋台であった。カルメンとの恋人時代、夜遊びの帰りによく行ったシウダデラ公園近くの屋台である。 


 体型や食生活の乱れを気にする人だったら、いくら夜通し踊ってカロリ-を消費したとはいえ、手を出してはいけない食べ物かもしれない。しかし、私は久しぶりのタブラオにどうしても食べたくなった。一度習慣になったおいしい食べ物は、記憶の底に深く刻まれていて、脳みそが私に欲しいと求めてくるのだ。

 燐子は、グラニュ-糖がたっぶりまぶされたチュ-ロスに向かってなにやら文句を言っている。


 「せっかく小麦粉を長細くしているんだから、もう一がんばり細くしたらうどんになれたじゃない。市場には魚もいっぱいあるんだからだし汁も取れるし。こっちの人はあまり努力をしたがらないのね」


 「そんなことはないよ。別の大陸からチョコレ-トを持ってきて、練った小麦粉を揚げたチューロスにつけて食べるなんて発想のほうがスケ-ルが大きいじゃないか」


 燐子はチュ-ロスを縦に細く裂いていたが、急に思い出したように目を見開いた。


 「じゃあこうしましょう!」


 「何?」


 「もうタイに行こうなんて誘わない。私もこの街に残ることにするわ。でも、今住んでいる所からは一緒に引っ越しましょう。あの家には良くない物が潜んでいるもの」


 あまりの唐突さにたじろいでしまった。


 「あの家って、ピハマさんのペンションのこと?」


 「そうよ、決まってるじゃない」


 「良くない物って何?」


 「悪い物ってことよ」


 説明するのが面倒くさいのか、どう表現して良いか分からないのか、投げやりな答えが返ってきた。

 燐子に言われるまでも無く、私はピハマさんのペンション生活で体の異変を感じる事はあった。たとえば、真夜中によく足がつる。心臓がどきどきして目が覚める。風邪気味で体が重いときは、金縛りになったことさえあった。私は、その原因は不摂生をしている自分にある、(もしくは、ハンモックのように真ん中がへこんだおんぼろのベッドマットのせい)と思い込んでいた。ちっとも酒を控えないせいで体にガタが来たか、若くない年齢と不自然な睡眠姿勢のせいでなかなか疲れが取れないのだろうと思っていたのである。

 

 「もちろんそれらも原因のひとつだけれど、それだけじゃないわ。ここは、悪い霊がたくさん住みたくなるような環境になってしまっているのよ。あの家では窓もろくに開けないでしょう?そんなところに長くこと住んでいるとろくなことが無いわ。もっと風通しの良い明るい家に住まないと、そのうちきっと取り返しがつかなくなるわよ」

 

 燐子は今までよりもさらに頻繁に路上パフォ-マンスを行うようになった。タブラオに行ったあの夜からその内容は格段にレベルアップした、と燐子は自信たっぷりであった。観衆もそれを認めたのか、それとも単に演じる場所をランブラス通りからオリンピック港に変えたせいかは知らないが、稼いでくる小銭も確かに増えていった。


 「家を借りるのにはもっとお金を稼がないと」


 彼女は居住許可を持っていない。スペインに入国してから3ヶ月未満だから不法滞在ではないけれど、アパ-トは私の名義で借りてくれと言う。最初は保証金を払ったり、家具や電気製品を揃えたりと出費が多いけど、そのうちに日本人の学生などに空いている部屋を又貸しすれば負担も減るであろう。と燐子の計画はどんどん具体的になっていった。


 とはいえ、私はまだ燐子と同じ家に引っ越すことに同意した訳ではない。確かにペンションに二部屋借りて住むよりも、二人でアパ-トをシェアした方が安いに決まっている。台所を好きな時間に使える自由もできるだろうし、好きなだけ窓を開けて風通しを良くすることも出来る。しかし、同じ屋根の下で一緒に住み始めたらもう後戻りは出来ないのではないか、という不安もあった。同じように二人で住むにも常に不特定多数の男女が出入りするペンションに住むのとは訳が違うのである。

 それにピハマさんとは長い付き合いだから不義理もしたくなかった。急に転がり込んできた私を快く、しかも通常よりも安い料金で住まわせてくれているピハマさんに損をさせるような事はしたくなかった。私や燐子がいるために部屋を借りに来た客を断っていたことも、私が知っている限りでも一度や二度ではなかったはずだ。


 「いやぁ、キタちゃん。そうしてもらわないと困っちゃうよ」


 ところが、私の相談を聞いたピハマさんは、焦点がボケるほど顔を近づけて言った。


 「あの女は、君がここにいる間は絶対に出て行かない、ってきかないんだから」


 その言葉を聞いて、私は少なからずショックを受けた。友達だとばかり思っていたピハマさんは、自分の住処の平和のためには私を切って捨てることに全く躊躇が無い。そんな印象を受けてしまったからである。私は翌朝からさっそく新居探しを始めることにした。


 ***


 ピハマさんのペンションのように場所が良く、しかも予算内の物件を見つけるのはなかなか困難であった。毎週ラ・バングアルディアの日曜版にある貸家物件に目を通し、仕事の合間にそれらを見て回っては片っ端から燐子に却下されながらもやっと良い物件を見つける事が出来た。店から程近いディアゴナル大通りにあった。6部屋もある広々とした物件で、値段も驚くほど安かった。ところが燐子は、その家の扉を開けた瞬間に(大きくて立派な飾りのついた木の扉であった)真顔になって「帰ろう」と回れ右をしてしまったのである。

 やっと探し当てた好物件なのに中も見ないでやめるとはどういうことか、とさすがにその時は燐子に詰め寄った。


 「あそこに住んでいたらきっととてつもない不幸なことが起きるわ。ピハマさんのペンションも良くないけど、あそこの空気はもっとひどいもの」


 燐子はあの家の扉を開けて中を覗いた瞬間、背筋に悪寒が走ったという。彼女に言わせると、バルセロナという街は、他の街に比べて空気が淀む率が非常に高いらしい。確かにモンジュイックの丘やグエル公園から見下す街の上空には、黒っぽいガスが覆っていることが多い。

 だったら、私一人にアパ-ト探しをさせるのは間違っている、と私は反論した。いくら条件が気に入ったからといって、また燐子の言う悪霊がついていたら(そんなことまで不動産会社は教えてくれないだろうから)またやり直しをしなければならないではないか。ところが、


 「それでもこの街に住みたいって言うのはあなたなんだから、そのくらいしてよ」


 とそこまで言われたので私もかっとなり、ついに口論になった。


 「もうこれ以上家を探すのは嫌だ。もう引越しなどしない」


 とついに私は宣言し、しばらくは燐子と口をきかなかった。

 ところが、そんな私たちを見て慌てたピハマさんがアパートを探してきた。私たちの希望よりも狭くて遠いアパ-トだった。しかし、「不景気で貸家がだぶついているときに借りてやるんだから」、と大家に掛け合って大幅な値引きを承諾させたのだった。悪霊もいないアパ-トだった。


 こうしてピハマさんに押し出されるような形で入居の契約を済ませたのは、すでに寒さも和らぎ始め、聖週間をどう過ごすかという話題を人々が口にし始める頃であった。

 ピハマさんのペンションを出る前夜、私はピハマさんをレストランに招待してささやかなお別れの席を設けた。燐子は、そんなことまでする必要なんてあるかしら?とピハマさんと卓を囲むことを嫌がった。それでも、いざ乾杯して杯を重ねるうちにわだかまりも解けて(少なくとも表面的にはそのように見えた)、アンコウ鍋をつつきながら古い芸能人の話や昔流行した遊びの事などで盛り上がったのだった。

 鯛のヒレで代用したヒレ酒も、酒を何度も入れなおして温め直したせいであまり味がしなくなった頃、アンコウ鍋の汁でしめに雑炊を作ろうということになった。すると突然、ピハマさんが地震の話をしだした。アンコウのアンテナがなまずのひげを連想させたのだろうか?ピハマさんはもう日本に帰って生活しようと思わない第一の理由は地震があるからだ、と言った。

 

 「大体、地震ていうのは、風呂に入っている時とか、トイレで大きいのをしている時とか、こっちがこれ以上ないくらい無防備な時にやってくるだろう?それが嫌なんだ。俺が経験したのは最高で震度5くらいだったけど、真夜中にお風呂に入っているときに来たんだ。湯船のお湯が波打っちゃって、あの時は恐ろしかったなぁ」

 

 「私も一度、東京にある高層ホテルのバーで地震にあった事がある。あの時も真夜中だったわ。高いビルの上って、ものすごく大きな揺れになるでしょう?その時は窓際にいたんだけど、ビルの足元が見えるくらい建物全体がぐにゃっと曲がって、今にも倒れるんじゃないかって思ったもの。そのまま窓ガラスを突き破って下に落ちそうだったわ。その時は、当時付き合っていた彼と一緒だったんだけど、揺れが起きた瞬間、その人ったらさっと立ち上がって一人で非常階段に逃げちゃってたのよ。私をおいて。ヒドイでしょう?揺れが収まってもなかなか帰って来ないから、どうしたのかな?って非常階段に行ったら、真っ青な顔をして腰を抜かしてたわ」

 

 「ハッ、ハッ、ハッ!そりゃあひどい男だ。というよりも情けないね」

 

 「情けないと言えば、キタちゃんも情けなかったね。燐子さんにも話したかい?インターネットで知り合った女、でもあれは本当に女かねぇ?俺は中学生か高校生の悪がきだったと思うんだけど、その女にいいようにからかわれていたじゃないか。バルセロナ中走り回ってたもんね」

 

 このまま、話が「地震」から「情けない男」になったりしたら面白くない。私は慌てて話題を変えた。

 

 「そういえば、東海地震はいつ来てもおかしくない、といわれて久しいけど、そろそろ大きいのが来るのかな」

 

 「そりゃあいつかは来るだろう。東海地方沖は幾つものプレ-トが重なり合っているらしいからね。30年以内に大地震が来る確立が80パ-セントだったかな?細かい数字は覚えてないけど、かなり高い確率だったよ」

 

 「でも、東京もそろそろ危ないんじゃないかな。関東大震災が起きてから、もう100年位たつだろう?大地震は100年周期で来るっていうじゃないか」

 

 「ううん、私は関西だと思う」

 

 燐子が言った。

 

 「関西?地震が起きる可能性があるのかい?」

 

 「わからない。でも関西に大きな災害が起きると思う」

 

 「女の持つ、いわゆる動物的な勘ってやつか?」

 

 ピハマさんに挑発されても、その夜の燐子は少しも動じなかった。コップ一杯のカバで真っ赤になる燐子だが、今ではすっかり酔いがさめてしまったかのようであった。そして、だんだんと青白い顔になっていった。

 

 ペンションに着くと燐子は震え出した。燐子の部屋はペンションで一番安い窓ナシの部屋である。寒気がすると言うのでタンスに入っていた毛布を引きずり出してベッドの上にかけてやった。埃っぽくて湿った匂いのする毛布であった。

 

 「熱はないようだけど、医者を呼ぶかい?それとも薬を持って来ようか?」

 

 立ち上がろうとすると、燐子に腕を掴まれた。

 

 「何も要らない。ここにいて」

 

 私は言われた通りにベッドの縁に座って燐子を見守った。すると、次第に燐子の具合はさらにおかしくなった。悪い夢を見ているのか、意識が朦朧としているのか、脂汗を額に浮かべてうなされ始めた。体をえびのように丸めてぶるぶると震えている。かみ合わない歯がガチガチと鳴っている。

 

 「燐子、医者を呼んでくるよ。ちょっとだけ待っててくれ。ほんの数秒だから。燐子、手を放してくれ」

 

 「布団に入って」

 

 「え?」


 「布団の中に入って!」


 服を着たまま布団の中に入った私に、燐子は呼吸を整えながら話をし始めた。先ほどふと眠りにおちた瞬間に恐ろしい夢を見た、と彼女は言った。


 「どんな夢?」


 燐子は脂汗を額に浮かべながら夢を説明してくれた。墓地に並ぶ墓石がぐらぐらと揺れて次々と倒れていったこと。そして倒れた墓石が次々に重なり合って山と積まれていったこと、、、

 何枚も重ねた毛布と燐子の体温のせいで布団の中は蒸し風呂のように熱かったが、燐子のつま先だけは凍るように冷たかった。そのつま先が次第に温かみを増してきた頃、燐子の震えは静まっていった。ようやく眠りについたのか、静かな寝息を立てている。私もそのままうとうとと、彼女のベッドで朝まで眠った。ピハマさんの大声で起こされるまで。


  「おい、キタちゃん、こっちへ来い。大変だ」


 何事かと飛び起きた私に、ピハマさんはテレビの画面を指差した。そこには神戸の市街でビルや高速道路が倒れている映像やあちこちで煙が立ち上っている様子が映し出されていた。私はその衝撃的な映像にしばし言葉を失った。そして慌てて日本にいる母親に電話をかけたのだった。

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