第14話 牛乳とギターとキャベツ
私の入れた茶々に機嫌を損ねたピハマさんだったが、むすっとしながらも空いている部屋の中から広い部屋をあてがってくれた。彼のペンションは、ペンションとしては小さいし、部屋数も少ないけれど、個人の持ち物としては大きな家である。ロケーションも抜群に良い。パセオ・デ・グラシア通りとディアゴナル通りが交差する街の一等地に位置している。
ピハマさんは、株で大もうけしてこの家を買った。20世紀初頭に建てられたモデルニスモ建築の最上階である。その後バブルがはじけて株価も暴落したから、これ以上ないすばらしい時期に株から手を引いたといえよう。
バルセロナオリンピックの時は、ここを日本の通信社に丸ごと貸し出してこれまた大もうけした。ピハマさんの絶頂期であった。
いまでも株に手を出したりするけれども、「つつましい生活ができるほど」しか儲かっていない、とピハマさんは言っていた。それでも私なんかとは比べ物にならないほど、経済的に余裕があることは間違いない。それは、時々世間を皮肉っぽく揶揄する彼の余裕ある口調や、どこか人を見下したような彼の視線からも感じ取れるのであった。そんなピハマさんは、我々在バルセロナ邦人から常に一目置かれた成功者の一人である。と同時に、その強烈な個性とやっかみから多くの人に嫌われてもいるのであった。ピハマさんも、そんな世間に迎合して生きて行こうなどとは考えていない。この年までずっと独身でいるのもそのせいであろう。窓という窓はすべて締め切られたペンション内の空気は、そんなピハマさんの一癖ある匂いを含んで重く淀んでいた。
しかし、人間はどんな匂いにも慣れる動物なのか、月日の経過と共にそんな匂いも気にならなくなった。私は次第にピハマさんのペンションでの生活に馴染んでいった。そして、ハジメの世話をする必要の無い休みの日には、一日中部屋に閉じこもってパソコンに向かい合い、腹が減ったらピハマさんと、もしくは一人で飯を食い、そして翌日からまた一週間仕事を続けた。そんな日々が続いた。年だけは重ねたけど、まるで惰性で働いていた独身時代に戻ったみたいだった。
「ねぇ、ピハマさん。どこかおいしいパエジャが食えるレストラン知ってる?」
「どうしたんだい?あまりパエジャは好きじゃないって言ってた君が?シッチェスに一軒、素晴らしいレストランがある。今度の休日に一緒に行こうか?」
「実は日本から知り合いの女性が来ることになったんだ。それでその子がパエジャのおいしい所に連れて行って、なんて言っているんだ」
「なにっ!それはいい話じゃないか。いつ来るんだい、その女の子?」
「もうバルセロナにいるんじゃないかな?うん、もう着いてるはずだよ」
「はずって、連絡取れないの?」
「ちゃんと向こうからメ-ルは来るよ。そろそろ何か言って来るんじゃないかな」
「メール?バルセロナに着いたのに電話をかけて来ないのか、その人は」
「さぁ、電話のかけ方知らないんじゃないですかね」
「そんなバカな!本当にそんな友達がいるのか?何か怪しいな。ちょっとその子のメ-ルを見せてみろよ」
「ピハマさん、実は友達って言ったけど、その相手とはインターネットで知り合ったばかりで、実はまだ会ったことも無いんだ」
「やっぱりね。そんなことだろうと思ったよ。ところでその子、写真送ってきたの?あるなら見せてよ」
写真を見たピハマさんは、目を見張って驚いていた。その女性、自称「つくされちゃうと弱い女」が、若くてかわいらしい女の子だったからだろう。私は誇らしげな気持ちになったが、ピハマさんの顔は次第に険しくなっていった。
「この写真、、、、ふつーの女の子には見えないなぁ、、、、」
ピハマさんによると、写真の「つくされちゃうと弱い女」は、美容院で高いお金を払ったと思われる手の込んだ髪型をしていた。化粧をはじめ、媚びる様な上目遣いの表情がどうも一般人っぽくない。写真の背景もどこかのスタジオで撮ったようだ、と言った。それとも単に、芸能人かモデルの写真をどこかから引っ張ってきたものかもしれない、などと言う。自らを「つくされちゃうと弱い女」と挑発する辺りも、人を馬鹿にしているし、なんとも怪しい相手だと言うのである。ピハマさんがそんなことを言うのは嫉妬からだろうと私は思った。
「キタちゃん、この子から「お金振り込んで」なんて頼まれてない?」
「まさか!この子がそんな事言う訳ないでしょ。何でそんな事を言うの?」
「お金目的じゃない、としたらかなり変わった人だよ。ここ見た?」
ピハマさんは、彼女の自己紹介の欄を指差した。
「趣味のところに「冒険」って書いておいて、「今興味があること」が「死後の世界」なんだからね。自殺願望のある危ない人なんじゃないの?」
「何言ってんの!そういったユーモアがある子なんだよ、きっと」
私もムキになった。何を言われても、会ったこともない女性をかばい続けた。
ピハマさんと「つくされちゃうと弱い女」について話している最中に、その本人から着信があった。ピハマさんの手首をひねり上げて取り返した私の携帯のスクリーンには、こんなメッセ-ジが書かれていた。
>とうとう明日お会いできますね!(ハートの絵文字)バルセロナには素敵な場所がたくさんあって、どこで待ち合わせたらよいのか迷っています。すいませんが、聖家族教会とグエル公園とランブラス通りの市場と、どこどこ(その数約10箇所)の写真を何枚かづつ送っていただけますか?ちゃんとキタちゃんも写っている写真ですよ~!それらの写真を見せていただいた後で、私たちの待ち合わせ場所を決めましょうね(またハート)急がせてすいませんが、何時までにお願いします。では、お写真待ってま~す!(投げキッス連発の絵文字)
「こりゃ一体何だ?からかわれてるよ、キタちゃん」
今日中にそんな写真を送れ、と言われた私も釈然としない。とはいえ半信半疑にはなったものの、どうしても諦め切れないのだった。
「でもさぁ、、、せっかく知り合いになれた女の子と明日会えるところまで来たんだから、なんとか今日中に写真を撮って送ってみるよ」
そう言って、私はその日一日を「つくされちゃうと弱い女」の為に費やした。しかし、せっかく写真を送っても女からの返事は無い。その晩私は、スマートフォンの画面とにらめっこをしながらまんじりともせずに夜を明かした。翌朝、目の下にクマをこしらえながら待ち合わせ候補地のいくつかを走り回ったが、もちろん女は現れない。痕跡もない。それ以降、「つくされちゃうと弱い女」に何度メ-ルを送っても一切返信は来なかった。私はがっくりと肩を落としたが、ピハマさんには「最近ろくに観光もしてなかったから、今回のはちょうど良い機会だったよ」、などと強がりを見せたのだった。
そんな私を天は哀れと思ったのか、それから数日後に「つくされちゃうと弱い女」に負けない位不思議な女が私の目の前に再登場する事になる。
***
ある朝、目が覚めたら窓の外はすっかり明るくなっていた。ピハマさんのペンションのマットは長年使い古されているせいか、真ん中あたりが陥没したように激しく窪んでいる。まるでハンモックに寝ているかのように、腰が深く沈むのである。その為非常に寝心地が悪く、寝返りをうつたびに目が覚める。あまり深い睡眠をとれないせいか、私は朝早く目が覚めるようになっていた。この繁華街の中心にあるペンションには、外の騒音が遠慮なく入り込んでくる。その為、街に人が出てくる早朝、まだ暗い時間に起こされるようになっていたが、その日は珍しくぐっすり眠っていたのだった。
窓から外を覗くと、地下鉄のホームから地上に上って来た通勤客たちが、ぞろぞろとパセオ・デ・グラシアを歩いて行く。そんな人たちを眺めていると、ディアゴナル通りを渡ってくる人たちが、ある一箇所に目を向けているいることに気づいた。それも一人や二人ではなく、かなりの人数だ。彼らの視線を追っていくと、芝生の真ん中に髪の長い女性が一人倒れているのが見えた。
「あ!」
その女の背格好に見覚えがあった。暴漢にでも襲われたのだろうか?何人かの通行人がしゃがみこんで女に声をかけている。
私はサンダルを突っかけて外へと駆け出した。
早朝のマジョ-ル・デ・グラシア通りに倒れていたその女は、やはりグエル公園で見たあの白装束の女であった。
髪の毛が乱れ、体中に芝生の葉っぱをくっつけたまま呆然としゃがみ込んでいる。最初に考えたのは、引ったくりの被害にあったのだろうか?ということであった。あたりには、彼女の持ち物と思われるものが何も無かったからである。レンズの割れたサングラスと、パン生地を伸ばす太い棒が二本転がっていただけであった。
「大丈夫ですか?」
サングラスをかけていない彼女は、グエル公園で見た時よりも童顔に見えた。やや垂れ目のその目じりには、カラスの足跡がぼんやりと浮かび始めているが、西洋人の顔の作りに比べるとのっぺりとしていて深い凹凸がなく、肌も滑らかなせいか実際の年齢よりも幼く見えるのかもしれない。おでこにぷっくらとタンコブができていたのが痛々しかった。引ったくりにあった時に抵抗して殴られたタンコブであろうか?
「星が出たわ」
「ホシ?」
そういえば、日本の刑事ドラマなんかでは犯人の事をホシと呼んでいた。日本の刑事ドラマでは、犯人は再び犯行現場を訪れる事になっている。私は、こちらの方をちらちら見ている通行人をを一通り見回した。
「どこにいるんです?」
「この辺にいくつもの星がキラキラと浮かんでたの。何か硬い物に頭をぶつけたら、きっとあなたにも見えるようになるわ」
女は、自分の目の前30センチ当たりの虚空で手のひらをひらひらさせた。パン生地伸ばしの棒がおでこに当たった時、その辺りに幾つものきらめくホシが出たらしい。漫画の世界ではおなじみの、あの頭の周りをくるくると回る星々は本当に出るのだった、と女はしきりに感心していた。
おでこのタンコブは引ったくりとの格闘による産物などではなく、自ら招いたアクシデントの結果であった。路上パフォーマンスの練習していた彼女は、新体操の棍棒のように投げ上げたパン生地伸ばし棒を取り損ねておでこにぶつけてしまったのである。こんな棒しか調達できなかったから失敗をしたけれど、ボーリングのピンだったら同時に4本ジャグリングできるのに、と女はしきりに悔しがっていた。
私は自分の名を名乗り、先日グエル公園であった者ですと言った。
「あぁ、あの時の人ね。私は、燐子。P子って呼んでもらってもいいわよ」
「P子?」
不思議なことを言う人だと思って聞き返すと、
「燐の元素記号はPでしょう?!」
とムッとされてしまった。あなたはそんな事もわからないのか?というような言い方である。
「P子がいやなら苗字で呼んでもらってもいいわ。織新渡(おるにと)っていうの。同じ苗字の豪族が昔四国にいたらしいんだけど、聞いたことあるかしら。私の祖先よ」
「まぁ、とにかく怪我がたいしたこと無くてよかったです。じゃあ」
「待って!」
帰ろうとする私の腕に燐子はしがみついた。
「あなたって本当に薄情な人なのね。ここに来てくれたのは私を助けに来てくれたからなんじゃないの?」
燐子は、領事館に付き添って欲しいと言った。前に住んでいた宿で全財産とパスポートをとられてしまったのだと言う。
「領事館に行くのはかまわないけど、早すぎてまだ開いてないですよ」
「じゃあ、あなたの宿に連れて行ってよ。私、怪我人なのよ。キャベツとギタ-と牛乳が必要だわ!」
カルメンは、よく日本人の若い女の子を「不自然である」と評していた。話し声がアニメに出てくる登場人物のように甲高く、しぐさも芝居がかっていると言うのである。また、そういった女性の服装やメイクは誰しも似たり寄ったりで、ただでさえ日本人は皆同じ顔に見えるのになおさら個性の無い人口的なものにしてしまっている、と言っていた。
その点、この燐子という女は、カルメンの言う「自然体の女」と言うことができるだろう。いまどきの日本女子のように自分を可愛らしく見せようとする努力は、すでに放棄してしまっているように見えた。最近は日本人も歯並びを気にする人が増えてきて、幼いうちに歯の矯正を行う子供が多くなったが、燐子の前歯は日本式の瓦屋根のような鋭い角度で出っ張ったままだ。しかも、グエル公園で会った時にはそろっていた前歯のうちの一本が抜け落ちているのだった。
燐子と話をする時は、なるべくその前歯を見ないように心がけていた。が、見てはいけないと思えば思うほど、気になってしまうのが人情である。例えば、しばらくぶりに店に来た昔の常連客がいたとする。昔は髪がふさふさだったはずの彼の頭が、今ではすっかり抜け落ちてツルツルに光っていたりする。すると、どうしてもその頭に目が行ってしまうのは避けがたい衝動なのである。
燐子はピハマさんに借りたギタ-で『禁じられた遊び』を弾いていた。弾きながら、時々私に抜けた歯を剥き、にこやかな笑みを投げかけてきた。やがて燐子は、私がその抜けた歯を気の毒がっていることに気づいたようだった。
「あの棍棒が当たって前歯が折れたの。でも、そのおかげできっと便利なこともあるわ。私は前向きに物事を捉えることが出来る人間なの。例えばうどんだって口をあけないでも歯の間からするする吸いながら食べられるだろうし、ストローだって、ほら、すっぽり入るでしょう?」
と、実際にストローを抜けた前歯の隙間から通して牛乳を飲んでみせた。上下の歯を噛み合せたままストロ-をくわえる事ができる、ということがこれからの彼女の人生にどれだけの恩恵を与えれくれるのか私には想像もつかなかったが、将来何らかの障害で口が開けられなくなってしまったら、きっと感謝する事になるわと燐子は笑った。直視できないくらいにまぶしい笑顔であった。
「で、キャベツは?」
「あぁ、そうそう。このペンションのオーナーが少し分けてくれると言っていたから、借りてくるよ」
キャベツは、ピハマさんの冷蔵庫の中に1/4ほどラップにくるまれて残っていた。
燐子はキャベツとギタ-と牛乳が要ると言った。私はそんな彼女のために、朝寝坊のピハマさんを起こしてその3つを借りたのだった。
そして今、燐子はギタ-を弾き、ストロ-で牛乳を飲んでいる。パン生地を伸ばす棒は本来の用途からかけ離れた使い方をしていた燐子だが、ギタ-はちゃんと弦をつまんでメロディ-を奏でているし、牛乳も温めてくれともローファット牛乳にしてくれとも言わずに室温の物をそのまま飲んでいた。
キャベツについて、燐子は特にどうして欲しいとは言わなかった。炒めてくれともゆでてくれとも言わなかった。だったら、生で食べたいのであろう。そう判断した私は自分の包丁を取り出して千切りをはじめた。冷蔵庫の中にはきゅうりやにんじんもあった。これらも千切りにしてキャベツと混ぜると色取りがきれいになるが、人によって野菜に好き嫌いがある。余計な事はしないほうが良いと思い混ぜないことにした。
板前として人前に出しても恥ずかしくないキャベツの千切りができた。針のように細く、ふんわりとしてシャキシャキしている。
キャベツの千切りは、日本の大衆的な食堂、特に洋食屋の料理には必ず大量に添えられるつけあわせである。いわば刺身のツマとならんで日本一の料理の脇役といって良いだろう。いや、ツマに使う大根は日本料理でしかあまり存在感を発揮できていないかもしれないけれど、キャベツは世界中の料理を守り立てている。影ながらもその功績はかなり大きいといえる。
そんな身近な食材のためか、食べ方にこだわりを持っている人はけっこう多い。キャベツの千切りを醤油で食うか、ソ-スで食うか、マヨネ-ズをつけるか等々、好みは千差万別である。食事の時などには、その食べ方についてちょっとした口論になることもある。
好みと違う調味料をかけても、昔厨房で一緒だった先輩のように人のすねを蹴るような事はしないだろうが、燐子には何も味をつけずに持って行くことにした。
ところが、山盛りに盛ったキャベツの千切りを見た時、燐子は驚いて飛び上がった。
「どうしてキャベツをこんな風に切っちゃっうの?」
こんなことは信じられないといった様子であった。
「こんな風にって、食べるんじゃないの?」
「違うわよ。キャベツの葉っぱをおでこにできたタンコブに貼りたかったのよ。決まってるじゃない。あなたは、タンコブを作ったことないの?」
「そりゃあ小さい時はよくあったよ。でも、僕の家じゃタンコブができたら氷で冷やしていたもの。本当にキャベツなんかでタンコブの腫れが引くのかい?子供向けの絵本に、ねずみにかじられたジャガイモさんがキャベツの包帯を巻いてもらう話があったけど」
燐子はしくしくと泣き始めた。両手で顔を覆って、部屋の隅にしゃがみこんでしまった。一体何がそんなに悲しいのか、まったく予期せぬリアクションに私もとまどってしまった。訳を聞いても長い黒髪をなびかせながら首を横に振るだけである。一人にしておいて欲しい、という意思表示なのだろうか?時々何かを訴えるようなこもった声が聞こえたが、嗚咽と鼻声でよく聞き取れなかった。
私は食堂の椅子に座り、燐子が泣き止むのを待つことにした。と言っても、もう嗚咽や鼻をすする音は聞こえなくなっていたから、本当はもう泣いていなかったのかもしれない。しかし、燐子はまだ顔を上げようとしなかった。泣きはらした顔を見られるのが恥ずかしいのだろうか。かといって、このまま彼女を一人置き去りにしてしまうと(自分に罪は無いとはいえ)また薄情者と呼ばれるかもしれないので待つことにしたのである。
それでも時間の経過と共に、こんな些細な事で泣いたりすねた事を言って顔をあげようとしない燐子に私は憤りを感じ始めた。一体、キャベツくらいで泣くこの女はどんな神経をしているのだろう?
「もし一枚か二枚でいいんだったら、キャベツの外側の葉をはがしたのがあったよ。ゴミ箱に捨てちゃったけど」
私が台所に行こうとすると、燐子は突然立ち上がった。そしてゴミ箱の中をあさり出した。
ゴミ箱の中身が先ほどよりも増えていた。私がキャベツの葉を捨てた上にいつの間にか新たな生ゴミが捨てられていたのである。生ごみの饐えた匂いが漂ってきた。燐子はそんなゴミ箱に素手をつっこんで、キャベツの葉を捜した。葉はすぐに見つかったけれども、しんなりとして汚れていた。
蛇口の水でその葉を洗っているうちに、燐子は再び泣き始めた。濡れた手の甲でぬぐっても涙があふれてくる。両目から落ちる涙は、ほっぺたを伝ってあごの先で一つの滴となり、シンクの中に落ちていった。燐子が震える声で何事かつぶやいた。耳を澄ますと、「みじめだわ」という言葉が聞こえてきた。その言葉は私の心に深い同情の念を抱かせた。
燐子はなぜ日本からこんなに遠く離れたバルセロナで白装束を身に着けたり、キャベツの葉っぱを洗ったりしているのだろう。今更ながらそんな疑問を抱いた。
まだ若いとはいえ、安定した収入のある職に就いて、もしくはこじんまりとした家の主婦に納まって子供の成長を見守っていてもおかしくない年齢である。そんな人生の中で最も充実している時期にいるはずの彼女が一人で、しかも日本から一万キロも離れた街で住む家もなく、唯一自分が誰かを証明することができるパスポ-トも失って領事館が開くまでの間、知り合ったばかりのオトコが住むペンションでゴミ箱に捨てられたキャベツの葉を洗いながら涙を流している。しかも、ボーリングのピンが手に入らないため、パン生地を伸ばす棒でおでこにタンコブを作り、前歯まで欠いてしまった。これは確かにみじめな境遇と言えるのではないだろうか。
後で燐子にどのような手助けができるか、ピハマさんに意見を聞くことにした。何か良い考えがあるかもしれないと思ったからである。しかし、
「あの女はかなりずれている、これ以上関わらない方がいい」
とあっさりと切り捨てられてしまった。長年ペンションを営んできた経験から、ややこしい客に関わるとろくなことが無かったらしい。しかし、キャベツの葉を洗いながら泣いている姿を見せられてしまった私は、そう簡単に突き放すことはできなかった。
一人でいると、何の前触れもなく深い悲しみに襲われることがある。そして、ふとしたきっかけで、(キャベツを自分の思い通りに用意してもらえなかったことがそのきっかけになった、という経験は私にはないが)深爪をして指を痛めたとか、配達されてきたマグロの身に銛が刺さった跡があり、そこから内出血しているのを見たときなど、些細なことでやるせない気持ちになってしまうことがある。自分が世界中の誰からも軽んじられ、冷遇されるみじめな身分に落ちぶれた気がしてしまうのだ。
それでもパスポ-ト再発行の手続きが済むと、燐子は元気を取り戻した。
「さっそくランブラス通りの路上パフォ-マンスを復活させて稼がなきゃ」
彼女が言うには、なかなかたくさんの人が集まるらしい。私にも是非一度見に来いと言う。
「ランブラス通りには、いつもたくさんのパフォ-マ-がいるね。僕が見たのは、白やブロンズ色に体を塗りたくって、彫刻のようにじっとしている人たちだった。君もそんな風にしているの?」
「私のは違うわ。彫刻みたいにじっとなんかしない。せっかくスペインの太陽を浴びているんだから、じっとしているなんて不健康だわ。私は思いっきり体を動かして、熱くドラマチックな演技をしたいの。そんな気持ちが通じるのか、私の周りにはいつも人垣ができるのよ」
「それじゃあその内に見に行くよ」
「その内っていつ?」
「僕は週末も働いているからね。空き時間を作るのはなかなか難しいんだ。でも行けそうな時は、前もって君に知らせるよ」
「じゃあ、今からリハーサルするから見せてあげるわ。ちょうど本番の前にもう一度おさらいしなきゃ、って思っていたところだから」
こうしてピハマさんのペンションで彼女のリハーサルを見せらることになった。その結果、私としては二度と彼女の演技を見ずに済ませたい、という印象をもった。もちろん、そんな感想を直接本人に言うことは気がひけた。燐子から「ねぇ、いつなら来れるの?」と何度も聞かれたが、私は思いつくだけの言い訳を持ち出してのらりくらりとその約束をはぐらかしたのだった。
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