第3話 温泉たまご

  バルセロナの空港に着いて真っ先に私がしたことは、原田さんに紹介されたイシドロに電話をかけることであった。イシドロが経営するレストラン『石灯籠』に電話をかけようとしたのだが、上手く行かなかった。


 その当時、バルセロナのエル・プラット空港にあった公衆電話は、日本で目にするそれとずいぶん異なっていた。電話機の天辺にある傾斜に小銭を一枚づつ並べて置き、通話料が必要になるごとに硬貨がコロコロ転がって電話機の中に落ちていく構造になっていた。すんなりと硬貨を飲み込んでくれれば問題は起きないはずである。しかし、傾斜がゆがんでしまっているのか、それとも硬貨が変形しているのか上手く落ちなかったり、落ちてもうんともすんともいわない電話機が多かった。結局、コインが尽きた私は電話をあきらめ、タクシーに乗って直接訪問することにした。


 バルセロナに関して、私が持ってきたガイドブックはこのように説明していた。

 「バルセロナの治安は、スペインで一番悪い。強盗、置き引き、バーやタクシーのぼったくりに注意」

 エル・プラット空港から古い日本車のタクシーに乗った私は、そのガイドブックを開いたまま料金メーターを睨みつけた。「空港から街の中心までは大体2000ペセタほど」とガイドブックにあった。

 タクシーは空港を出て、バイパスのような広い道を突っ走って行く。運転手は無愛想で一言もしゃべらず、日本のタクシ-運転手とは比べ物ならない位だらしない服装であった。(毛深い体をした、体臭のきついおじさんだった)彼は突然、体をもぞもぞと動かしながら、右手に工場が見えて来たあたりですべての窓を全開にした。日本の夏に負けないくらい暑くて湿気を含んだ風が、車内で渦を巻いた。温泉たまごが作れそうなイオウの匂いが流れ込んできた。


 後で分かったことであるが、この道路沿いにあった工場は人口絹をつくる工場であったらしい。そんなことはちっとも知らなかった私であるが、工場の匂いとは別の匂いが車内の空気に混じっていることにはすぐに気がついた。運転手のもぞもぞといい、不自然な窓全開といい、それは彼の屁に違いなかった。肉食中心の食い物のせいか、腸に生息している菌の種類が違うせいか、それまで嗅いできた(と言うよりも嗅がされてきた)野菜中心の食生活を送る日本人の屁と比べてかなり強烈である。車内には強い風が吹き込んでいたが、屁の匂いはシートの布に深く浸透してしまったのかなかなか消えてくれない。人口絹の工場から排出されるイオウの匂いでごまかせるほど生やさしい臭さではなかった。

 それくらいのことなら、私も我慢できた。日本にも満員電車の中で放屁をしておいて知らん顔をしている輩はいるし、かく言う私もエレベーターの中ですかしっ屁を残して逃げしたこと位はある。しかしその運転手には、申し訳なさそうなそぶりが少しもない。屁をこいた後にこちらの顔色を伺うような罪の意識が全く見られないのである。それどころか、苦しかったお腹を解放できた喜びからか、うっとりとした恍惚の表情を浮かべているのであった。


 「エクスキュ-ズミ-!」

 私がそう怒鳴ると、運転手はバックミラーの中で目を広げ、おおげさに驚いてみせた。

 「こんな密閉された場所で失礼じゃないか」

 と、スペイン語で伝えられればよかったのだが、当時の私にそんなボキャブラリーのあるはずがない。仕方がないので腰を上げ、彼の目が映るバックミラーに向かって「君のお尻から出たガスが、とても臭くて迷惑している」という文句をゼスチャーで表現することにした。

 自分のお尻に当てた握りこぶしを開く動作で放屁を表現し、そして鼻をつまむことによって彼の放つ悪臭がどれほど他人に迷惑をかけているのか知らしめる必要を感じたからである。

あまりパッと手を開くとブッと勢いよく音を出すおならのように見えてしまう。しかし、この運転手がしたのはすぅっと抜いたすかしっ屁であったから、私は憤りを抑えながら少しずつゆっくりとこぶしの指を開いていかなければならなかった。高速で移動する狭い車の中でバランスをとりながら中腰で、しかも運転手が前方の注意をおろそかにしないよう、的確で素早いゼスチャーを行わなければならなかった。


 ところが、不届きなこやつは悪びれるどころか私のゼスチャ-を見て大笑いをしている。それだけでも私の神経を逆なでするのに十分であったのだが、あまつさえ料金メ-タ-にかぶせた雑巾に触る振りをして、しきりにメ-タ-をいじっている。そのたびに料金が小刻みに上がっていくのである。表示されている料金は、すでに6000ペセタを越えていた。私は行き先の変更を告げた。

 「ラ・プラサ・デル・レロッ、(その頃は、まだ巻き舌ができなかった)ノー。レッツゴー・トゥ・ア・ポリス・ステーション!」(時計広場行きは止め。警察に行こう)

 「エスタシオン・デ・サンツ?」(サンツ駅?)

「ノー、ノー!ポリシア。コ・ミ・サ・リ・ア!」(ちがう!ケ・イ・サ・ツ!)

 と、ガイドブックにある地図の警察署を示して見せると、とたんに運転手の顔色が変った。そして大きな広場(それはスペイン広場だった)のロータリーに入るやいなや、端っこに寄って車を止めてしまった。ガソリンメーターを指して何か言っているけど、全く分からない。が、「トラブルが発生したので、これ以上この車を走らせることができない」とか何とか、言い訳をしているのであろう、ということは想像できた。そうして自分はさっさと車を降り、トランクを開けて私のスーツケースを下ろしている。早く降りろ、と後部座席のドアを開けた。

 ちょうどその時、交通整理をしていた警官がこちらに向かってつかつかと歩いてきた。ここは駐停車禁止だとか何とか注意をしに来たようである。私がその警官を呼び止めて運転手の悪事を訴えようとしたら、その隙に運転手は運賃の請求も忘れ、慌てて逃げていってしまったのだった。


***


 イシドロの経営する日本料理店、『石灯籠』は、グラシア地区にあった。細長い店内には明かりが点いているものの、客はおろかスタッフの姿も見えなかった。厨房があると思われる店の奥が、異様に薄暗い。まだ開店前かと思って腕時計を見直したが、間違いなく営業時間中のはずである。店内には、寿司酢の匂いと濃い油の匂いが漂っていた。

 入り口付近には、海外でよく見る日本食料理店、という感じの装飾品がいくつも置いてあった。写楽の浮世絵が描かれた暖簾。壁には「一番」と筆で書かれたちょうちんと馬鹿でかい扇子。窓には、醤油会社の寿司ポスタ-と日本のビール会社のカレンダ-。そして、カウンタ-の上に置かれた招き猫。

 唯一この店のオリジナリティをアピールしていたのが、額入りの色あせた新聞の紹介記事である。それには、親方に送られてきたのと同じ写真が載っていた。忍者姿のイシドロが、満面の笑顔を浮かべている写真である。


 中に足を踏み入れると、靴底がネチャネチャと粘り気のある音を立てた。換気扇の吸引力が弱いのか、床にも天井にもあつい油の層がこびりついてしまっている。ゴキブリホイホイの中に足を踏み入れてしまったような粘着力である。

「¡Hola!…イシドロさん?」

暗い厨房に向かって声をかけると、忍者のカッコをした人がぬっと出てきたので腰を抜かしそうになるくらい驚いた。忍者は私の驚き方に満足したらしく、ニヤニヤしながら頭巾を取った。イシドロであった。彼はその格好で、暗がりからずっと入り口の様子を伺っていのだ。忍者のコスチュ-ムが似合うスペイン人、というのが彼の第一印象である。

 お土産に持ってきて欲しい、と頼まれていた地下足袋と雪駄と草加せんべいを渡し、身振り手振りで電話をかけたが通じなかった、ということを伝えた。

「スイマセン。イマ、デンワ、コショウチュウ」

 と、イシドロは日本語で答えたが、その後は早口のスペイン語でまくし立てられた。イシドロはお土産をしまい、店中の明かりを消すと、まだ営業時間であるにもかかわらず、シャッターを閉めて店じまいをしてしまった。そして私について来いと言う。わけの分からないまま駐車場に連れて行かれ、車に乗せられた。


 イシドロの車は古いアメ車のセダンであった。忍者のコスチュームを纏ってハンドルを握るイシドロは、撮影に向かうスタントマンか何かに見えないこともないけれど、狭い路地が続くグラシア地区を行くのにこれほど不向きな車は無いように思われた。鼻の長いボディーは、曲がりきれなかった角に何度も接触したらしく、ボコボコにへこんでいる。私が同乗した短い間にも、イシドロの車は何度も鼻先をこすっていた。曲がり角で何度も切り返している間、通行を妨げられた歩行者にじろじろと睨まれた。そんな時でも、イシドロはカーステレオから鳴り続けるアニメの主題歌に合わせて口笛なぞ吹いていた。大物なのか、無神経なのか分からないけど、とにかくマイペ-スな人らしい。

ぼうぼうの空き地に車を停めて(傲慢そうにでっぷりと太った野良猫がうようよいた)連れて行かれたのは、グエル公園の近くにある彼のアパ-トである。


 家に入るやいなや、イシドロは大声で日本人の名前を呼んだ。五十嵐さんという私よりも5~6歳年上に見える彼は、細長い目にかかる前髪をうっとうしそうにかき上げながらイシドロの言葉を訳してくれた。訳しながら、どこか軽蔑的な半笑いの表情を浮かべているのが気になった。

「昔『石灯籠』にいたスタッフに無断で国際電話をかけまくられた。私がそんな電話代を負担する義務はない、とその支払いを拒否したために店の電話は止められてしまった。とにかく、君は好きなだけこの家にいてもいい」

と、五十嵐さんは国語の教科書でも読むように、感情のこもらない棒読みでイシドロの言葉を訳してれた。

 「五十嵐さんは、イシドロの店で働いているのですか?」

 「あいつに人を雇う余裕なんてないよ」

 「そうなんですか?実はあてにして来たんですけど」

 困惑していると、五十嵐さんは半馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

 「君は調理師か?それなら僕がもっといい所を紹介してやるよ」

 日本食の調理に携わっていたという経験があれば世界中どこでも働けるからうらやましいよ、と五十嵐さんは言った。言ったけれども、あまり本気でうらやましがっているような言い方ではなかった。

 五十嵐さんは、画家らしい。「画家志望ですか?」」と聞きかえしたら、「いや、志望ではなくて画家だ」と訂正されたから間違いない。(その後もバルセロナでは、画家やミュ-ジシャン、作家などなど、芸術家を名乗る日本人によく出会った)。世界中を放浪している彼は、イシドロの家に居候しながらグエル公園でガウディの建築物やバルセロナの風景を水彩画にして売っている、ということであった。こういった絵は、休日や観光シーズンには結構売れるらしい。ただ、ヨーロッパのどこかでテロが起きたり、アイスランドの火山が噴火したりして観光客が来なくなると、「仕方なく」イシドロの店を手伝ったりして食いつないでいる、とのことであった。

 「でも、もう『石灯籠』は終わりだね。いつ追い出されるかわからない状態なんだもの。なぁ、イシドロ?」

 五十嵐さんは今私に言ったことをイシドロのためにスペイン語に訳している。五十嵐さんの話すスペイン語は、どこかもったいぶったような、辛らつな皮肉を含んでいるような口ぶりに聞こえた。口を少ししか開かないし、言葉の抑揚が全くない。スペイン語に愛情を持っているとは思えない話しぶりである。

 「モウイイヨ!コノヒト、シツコイネ」


 とりあえず私のために乾杯をしよう、ということになった。ビールとワインの杯を重ねるうちに五十嵐さんは饒舌になって行き、イシドロとの昔話に花を咲かせ始めた。2人で競い合った無茶なんかを笑い合っている。聞いていてもあまり面白くない話だけれども、私もへらへらと笑った。

 平日の真昼間から仕事もせずに酒盛りなんかして、ずいぶんと不謹慎な気がしたが、二人はいたって楽しそうである。のんきな二人は、そのうちにプレイステーションをテレビにつなぎ、サッカ-ゲームを始めた。

 「それじゃあ今日は、もっと時間を延長してやろう」

 五十嵐さんは日本代表チ-ム、イシドロはスペイン代表チ-ムである。チームと選手個人の攻撃力やらテクニックやらが棒グラフになっていて、一目でどちらのチ-ムが強いか分かるようになっている。それによると、日本チームはいたって不利である。それでも五十嵐さんは、「俺はこれで勝つよ」と自信満々であった。

 五十嵐さん率いる日本代表チ-ムは、相手ゴールエリアの中に入ってからもなかなかシュ-トを打たない。敵の懐深く攻め入り、ドリブルやパスで相手ディフェンスを翻弄しながら、五十嵐さんの言う芸術的なゴ-ルを狙っている。スペインのディフェンスは、世界トップレベルのはずだが、背の低い日本人選手からいつまでたってもボールを奪えないでいる。

 「さあ、そろそろ決めるかな」

 五十嵐さんがそう言うと、本当にゴ-ルが決まる。あっけないほどである。画面の中の日本人選手たちは大騒ぎでゴ-ルを祝っているが、五十嵐さんはニヒルに唇を緩めるだけだ。

 「ソンナノオカシイ。モイッカイ!」

 しかし、何度やってもイシドロは勝てない。五十嵐さんは画面のボ-ルを追うだけではなく、横目でイシドロのコントロ-ラ-さばきを盗み見しているのである。これでは立てパスだろうがペナルティキックだろうが、きれいに決まるはずである。

 

 窓の外は、太陽がまぶしかった。イシドロのアメ車のボンネット上では、先ほどの野良猫が日向ぼっこをしていた。のどか、というよりもじりじりと暑そうであるが、猫は気持ち良さそうに目を閉じていた。昨日までのあわただしい日本の生活がまるでウソのようであった。あまりにもゆったりとした時間が流れていた。

 やがて、褐色の肌をした体格のいい女性が、窓の下に近づいてきた。ずっと私を睨んでいる。この家の窓から顔を出す人間にろくな奴はいない、と決め付けたような睨み方であった。

 イシドロが懲りずに「モイッカイ」と叫ぶ声が聞こえたのか、突然女の顔色が変わった。

 「イシドロ!」

 女の叫ぶ声を聞いたイシドロは試合を途中で放棄し、地下足袋のまま階段を駆け下りていった。忍者姿の彼は足早に、音も立てずに階段を駆け下りて行った。永代橋の橋げたを登った時も、彼は地下足袋を履いていたのだろうか?

 「鬼軍曹の呼び出しだ」

 と五十嵐さんは教えてくれた。

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