11:虫除けの効果

 あたしの左の薬指には、シンプルなシルバーの指輪がある。誰がどう見ても分かるちゃんとお相手がいますよってサインだ。この指輪ひとつで分かるんだから便利だよねぇ。


「あれ、あきは。あんたやっぱり彼氏いたんだ」


 まだ春休みの大学構内は人が少ない。ちょっと野暮用で大学図書館に来ていたんだけど、その帰りに友人に捕まって立ち話をしていた。そんなとき、目敏い彼女はあたしの指にある虫除けに気づいたわけだ。

「やっぱりって?」

「あんまり飲みとか参加しなくなっていたしさー。土日も用事あるって感じだったし。大学でいちゃついている人いないからまぁ他大学とか社会人なのかなーと思っていたんだけど?」

 残念。他大学でも社会人でもなくて高校男子ですよ。あと一ヶ月もしないで卒業ですけどね。

 けれどそれを白状すると今まで翠くんとの同居生活を明かさずにいた苦労が水の泡になるので、笑って誤魔化しておいた。今は近距離だけど、春からは遠距離恋愛だし他大学で間違いではなくなるしね。

「えっ。君島ってカレシいたの?」

 驚くような低い声は、ほんの数歩離れたところから聞こえた。

「なによ岡本、立ち聞き?」

 友達が眉を顰めて声を荒げる。まぁ聞かれて困る話ではないですけども。

「聞こえてきたんだよ! てっきりフリーなのかと思ったから――」

「フリーだと思っていたから狙ってた、の間違いでしょ」

 ずけずけと言い放つ友人に内心では「そこまで切り込まなくてもいいんだけどなー」と思う。めんどうだし。あきはさんめんどうなのいやだわー。

「――ま、まぁ……正直ちょっといいなとは思っていたんだけどさ」

 このタイミングに乗っかった感満載で岡本くんが照れながらあたしを見る。それって言わなくてもいいんじゃないかな、とあたしは内心で苦笑した。

 ……岡本くんは大学一年の時に発表のグループが一緒になったくらいで、特に親しいってわけでもない。ここで「ごめんね」と言うとなんか告白された風になっちゃうけど、別にそういうわけでもないし。でもはっきり君に興味はないよと言っておきたいんだけどどうしようかなぁ。めんどくさいなぁ。

 時間を確認すると、もう十二時を過ぎている。今日は翠くんも家にいるし、ごはん待っているんじゃないかな。よし、帰ろう。

「ごめんね、あたしそろそろ帰らないと」

 こういうときは逃げるに限る。

「あ、私も帰る」

 友人も岡本くんに対して興味あるわけでもなく、これ以上ネタにする気もないんだろう。ああこれでスムーズに解散できるなと思ったんだけど――

「俺も帰るとこだったんだ」

 岡本氏、空気を読め。

 引き攣りそうになる顔に理性で笑顔を張り付ける。友人にはこっそりと「ごめん」と謝られた。いやいや、しかたないよ。まさかこういう展開になるとは思うまい。

 岡本氏はサークルがどうの就活がどうのって話をしていて、別に口説いてくるわけではない。それがまだ救いだった。


 大学の正門を出たところで、あたしは「あ」と声を漏らした。

「あきは!」

 忠犬ハチ公顔負けの翠くんが待っていた。向こうからやってきたところのようだから、ちょうど今着いたんだろう。以前のように待ち構えていたわけではないらしい。

「翠くん、どうしたの?」

 友人は翠くんを見て「へぇ」とにやにやと笑っている。そういえば彼女には前に翠くんと映画に行ったときに目撃されているんだよなぁ。

 翠くんは機転を利かせて「なかなか帰ってこないから」なんて同居を匂わせるようなことは言わない。

「あきはがなかなか待ち合わせに来ないから、調べものして時間忘れているのかと思って」

 さすがですね、翠くん。それだとあたかもデートの待ち合わせをしていたかのようですね。つまりは威嚇してますよね、翠くん。岡本くんをさりげなく牽制してますよね。

「うん、ごめんね。ちょっと話し込んじゃって」

 あたしもにっこりと笑いながら話を合わせる。ここで台無しにするような馬鹿じゃないんですよあきはさんだって。

 いいよ、と翠くんは微笑みながらあたしの手を握る。

「お迎えみたいね?」

 にやりと笑いながら友人に問いかけられる。その隣にいる岡本くんは口を開けて呆然としていた。うん、翠くんってちょっとびっくりするくらい美人でしょ。今はなおさら猫被りモードだしね。

「うん、じゃあまた」

「そうね、今度ゆっくりお茶しましょ」

 ううーん。これは後日根掘り葉掘り聞かれそうだなぁ……。




 いつものあたしの歩幅に合わせた歩調ではなく、幾分か早足でその場から離れる。

 大学からそれなりに離れると、翠くんはため息を吐き出して歩調を緩めた。

「あんまり虫除けの効果ないなぁ」

 ちっ、と機嫌悪そうに翠くんが呟いた。

「今回はたまたまじゃないかな」

 岡本くん、ちょっと変わっているしね。空気読めないしね。そもそもそれほど親しくないのに立ち聞きから話に乱入ってあたりでそれは証明されているしね。

「……あきはさんはもう少し警戒してほしいんですけど」

「翠くん、あたしはそんなにモテるわけじゃないし心配する必要ないと思うけど」

 そもそもあたしには虫除け必要なのかって言われると微妙だと思うんだよね。だいたい翠くんとお付き合いするようになって誰かにアプローチされたわけでもなく、告白されたこともないんですよ?

「あのね、あきは。俺がいなくなればあきははあの家にほぼ一人暮らしみたいなもんなんだからね? 危機意識持ちすぎて悪いってことはないから」

 いや、まぁその通りなんですけど。それは今までもそうだったしなぁ。

「あーもー、やっぱ同じ大学にすればよかったかなぁ……」

「翠くん心配し過ぎですよー。むしろあたしのほうが気が気じゃないんだからね、東京の綺麗なおねえさんに襲われないようにね」

 都会の女性は強そうだもんね。気づいたらぱっくり食べられたりしないよね?

 翠くんはむすっとしながらあたしを見下ろす。翠くん、この一年でちょっと背伸びたよね。

「あきはこそ俺のこと女子中学生くらいに思ってない? これでも男なんですけど?」

 知ってるよ。さすがにそんなにか弱いとは思ってないよ。

 どこか必死な様子の翠くんがなんだかおかしくなってきて、くすくすと笑う。笑い始めたあたしに翠くんも気が抜けたのか「もういいよ」と笑った。

「せっかくだし翠くん、どこかでランチといきましょうか?」

 すっかりデート気分になっていたあきはさんとしては、このまま帰るのはもったいない気がするんですけどどうでしょう。

 あきはのごはんの方が好きだけど、と前置きを忘れない翠くんは微笑んで繋いだままの手を持ち上げて指輪のついたその指にキスをした。

「もちろん、いいよ」

 ……そのキスひとつで、虫除けの効果が上がりそうだよ。


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