10:デートとパンケーキと虫除け

 ――さてさて。


 皆さんも気になっていることでしょう翠くんの合否ですが。

 この冬もなかなかいろいろありました――というほどのことはあまりなく、あきはさんも受験生の翠くんのサポートに徹しておりました。ん? もちろん自分の学業を疎かにはしてませんよ?

 その結果――わりとあっさり合格しておりました。いやあっさりって言い方は悪いかな。ちゃんと勉強していたもんね。でも翠くんが落ちるって思えないくらいにはあっさりだった。なんでもスマートにこなすとこういうときの感動が薄れるね。

 卒業式を目前に彼も進路が確定して、随分と肩の荷が下りたみたいだ。自由登校の今は学校へ行く必要もないし、あたしも大学が長い春休みに突入して比較的のんびりしている。


「あきはー」

 平日昼間のサスペンスは昭和の香りがしますよね、とわりと夢中になってみていたら翠くんから奇襲される。ソファのうしろから抱きつかれた。

「なに、翠くん。今いいとこなんだけど」

「あきは、こういうのわりと好きだよね……」

 どうやら我が家の猫は構ってもらいたいらしい。でも翠くん、そんなに暇じゃないでしょうに。

 春には東京で一人暮らしだ。まぁうちに来たときも荷物は少なかったし、荷造りなんてすぐ終わるのかもしれないけど、物件探しだのなんだのと準備が必要でしょうに。

「あきは、このあとデートしよ」

 犯人はやっぱり家政婦だったか……うーん、ちょっとひねりが足りないなぁ。もうちょっと意外性がほしいところですね。

「あーきーはーさーん」

「はいはい」

「聞き流してると押し倒すよ」

「んぎゃあ!」

 耳元で話すのやめようね翠くん! 心臓に悪いよ!?

「デート、しよ?」

 にこにこと上機嫌で猫はあたしを誘惑している。あーもー可愛いなぁ、なんて思っているあたりであたしの敗北は確定してますよね……。

「……準備するから待って」

「ん」

 主に元カレのせいで男の人って待たされるの嫌がるイメージがあるんだけど、翠くんは嬉しそうな顔してるんだよなぁ。まったく、デートなら昨日のうちに言ってくれてもいいのに。こっちだって翠くんの受験のピークの間は我慢していたのだ、久々のデートは嬉しい。

 同居生活のこともあって、友達には翠くんと付き合っていることは言っていない。でもまぁ合コンの誘いを断り続けているから、察しのいい子には彼氏がいることくらいはバレてるかもなぁ。

 翠くんが東京に行ったら隠す必要もなくなるんだな、と思うと嬉しいような寂しいような、である。

 外はまだ寒いので髪は下ろしたままだ。少し長くなった毛先をアイロンで巻く。化粧はあくまで濃すぎず薄すぎず、ナチュラルな感じで。ワンピースの上にダッフルコートを着込む。翠くんは清楚すぎない清楚系が好みらしい、というのはなんとなくわかってきた。おしゃれするとどんな格好でもそつなく褒めてくるのでなかなか好みが掴めなかったけど。

 ここまでの時間、三十分ちょっと。あまり待たせすぎるのは申し訳ないな、と急ぎましたとも。


「翠くん」


 リビングでくつろいでる翠くんに声をかける。彼も一応デート仕様になって三割増しできらきらしていた。これはあたしの乙女フィルターできらきらして見えるのか、それとも翠くんが美人すぎるのか……どっちもかな。

「あきは」

 同居生活もかれこれ一年半近く経っている。そのうち、翠くんとお付き合いしている期間も既に一年ほど。このとろけるように甘い笑顔もとかすようにやわらかな声も、あたしに向けられているもので、あたしだけに与えられているものなんだと理解している。これは、たぶん、うぬぼれとかではなく、事実だ。

「急がなくても良かったのに。髪、かわいい」

「……待たせるの悪いし」

 流れるように褒めてくるよ、すごいなこの子は。ぽろっとホストとか向いてるんじゃない、と蒼くんに電話で零したら「ひとり限定じゃホストは無理っしょ」とさっくりと言われて沈没した。あーはい、はい、そのひとりであたしなんですよねえええ。未だにどうしてなのかよくわからないけどねえええ。

「で、どこに行く予定なのかな翠くん?」

 足元はブーツと決めておりますが、けっこう歩くならヒールは低めにしたいです。お昼は少し前に食べたし、何か目的があるんだろうと聞いてみる。

「お茶して、買い物付き合って?」

 珍しくあまり計画立てないパターンだ、と思いながら頷く。二人で過ごすというのなら出かける必要もなくて、家のなかでのんびり過ごすことが多い。だから何もないのに出かけるっていうのはなかなかないのだ。

 ブーツを履いて立ち上がると、翠くんは上機嫌で手を差し出してくる。ご近所さんの目がね、あるじゃないですか、ともごもご反論を考えるものの、結局素直に手を繋いだ。




「この間あきはが行きたいって言ってたとこにしようか。パンケーキのお店」

「うん」

 相変わらず翠くんと歩いていると、ちらちらと視線を感じる。スーパーならまだしも、若者集う街中では余計に見られている。そりゃイケメンだしな、と近ごろは慣れたし諦めている。

 その極上の男を独占することを許されているのは紛れもない事実で。いつかもしかしたら翠くんに飽きられて振られることがあったとしても、今はそんな気配は微塵もない。

「……あきは、今不穏なこと考えたでしょ」

 ぎくー。……翠くんはやっぱりエスパーなのかな?

「えー? いやー? うん? うふふ」

「笑って誤魔化さない」

 まったく、と翠くんは呆れたようにため息を吐き出してカフェに入る。はいはいイケメンですよー。店員さんが一瞬見惚れるように固まるのも慣れている。

「……翠くんはモテるねぇ」

「一人で歩いてるときはそうでもないよ」

「えー。逆ナンされまくってんじゃないの?」

 席に着くまでは離す気のない手を見れば、まぁあたしが恋人であることはわかるだろう。ちらちら視線を投げてよこす人は多いが、恋人の前で堂々と声をかけてくる人は今のところまだいない。

「そういうの嫌いだから話しかけにくい雰囲気出してるし」

 威嚇モードですか。

 美人さんは微笑むだけで老若男女イチコロだけど、むっつりと黙って無表情だと近寄りがたいものがある。特に翠くんみたいな人はなおさら。

「じゃあなんであたしと一緒だとこんなに見られるんですかね……」

 ――舐められてんのか、あんなのが彼女かと。くっそむかつくな。こっちが威嚇するぞ。

「あきはといると表情筋が緩むからなぁ」

 何気ない翠くんの一言に、うぐ、と言葉を飲み込んだ。

「……左様ですか」

「あきは、照れてる?」

 くすくすと笑う翠くんに、ああそうですねそうですよね、と納得する。あたしといるときの翠くんは威嚇モードじゃないもんね、デート中なんて上機嫌に笑ってるもんね。

「あ、このジャム美味しい」

 パンケーキにかかっているラズベリージャムが絶品だ。甘酸っぱくていい。

「ほんと? 一口ちょーだい」

「……人前であーんはしませんよ」

 そんなバカップルは家の中だけで充分です。家の中でも遠慮していただきたいくらいです。

「残念、流れでやってくれるかと思ったのに」

 くすくすと笑いながら翠くんは自分のフォークであたしのパンケーキを一口食べる。店員のお姉さんが頻繁にお冷の様子を見に来ているのは翠くん効果かな。

「そういえば買い物って? どこ行くの?」

 ぶらぶら見て歩くだけなら、買い物に付き合ってなんて言い方はしないはずだ。何か目的があるのだろうと、問いかけると、翠くんは「ん?」と微笑む。

「虫除け、買おうと思って」

 ……それは、虫除けスプレーってことじゃないですよね。まだ春にもなってないですしね。

 こんなときに聡い自分が嫌になりますね。ええ。

「……なんでまた?」

「春には遠距離だから、早めに予防しておかないと、ね?」

 ……きらきらしてる翠くんの顔、怖いわー。

 店員さんの名残惜しそうな視線を背にカフェをあとにする。あれは美術品を見つめる目なのか、男としてロックオンしているのか……謎だ。仕事しよう、おねーさん。

「指輪にしようかなぁって思ってたんだけど、あきはは嫌?」

 いやまぁ、虫除けなんて言うくらいだから指輪になるだろうなとは思っていましたよ? 翠くんから前にもらったクリスマスプレゼントのネックレスも、大事に使ってますけどね。あれは虫除けじゃなくて首輪だそうですし?

「それならペアリングにしようよ。虫除け必要なのむしろ翠くんだからね」

 きっぱりと言い切ると、翠くんはきょとん、と目を丸くした。なんだよ、分かってないのか君は。道行く女性を魅了して歩いているんだぞ。絶対これはあたしの勘違いじゃないぞ。

「いいよ、おそろいにしよ?」

 翠くんは繋いだ手を持ち上げて手の甲にキスをする。ちょ、こら、人前で!


 ――ああもう! 嬉しそうに笑いやがって!

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