9:約束を覚えてますか

 十一月ともなるとすっかり寒くなって、あたしももこもこと着込んで日々寒さをしのいでいる。

「うー……さむさむ」

 鍵をあけて玄関のなかに逃げ込んでも、家の中はひっそりと暗くあたたかさもない。時刻は午後六時。去年の今頃なら翠くんがとっくに帰宅している頃だけど、今は翠くんも受験生らしく予備校に行っている。受験勉強も大詰めなのだ。

 コタツの電源を入れて、買ってきた夕食の材料を袋から出す。すぐ使わないものは冷蔵庫にしまってからコタツに入った。まずは身体を温めないとね!

 家の中もちゃんと片付けてはいるんだけど、寒い季節はコタツに集まって行動するせいか周辺が散らかりやすい。読みかけの雑誌とか、書きかけのレポートとか。翠くんの参考書とかもある。週末は掃除だなぁ、とため息を吐きだした。


「ただいま」


 コタツでぬくぬくしていると、翠くんが帰ってきた。しまった、ごはんの準備がまだだぞ。

「おかえり、今日は早かったねぇ」

「ん、まぁ。あきはも帰ってきたとこ?」

「……なんでわかるの」

 翠くんは名探偵か何かか。

「部屋のなかがまだそんなにあったかくないし、あきはがコタツから動かないから」

 さきほどからあたしはコタツから顔しか出していない。コタツに顎を乗せて手までしっかり温めている。だって外寒かったんだもの。しかたないじゃないですか。

「さむい」

「うぐ」

 荷物を置いてコートを脱いで、コタツに入るまではいいとしてですね、翠くん。

「……どうしてあたしを巻き込んでコタツに入るのかね」

 どこのバカップルだ、という感じに翠くんはあたしを後ろから抱きしめるようにコタツに入った。いや、これだと正直翠くんは足くらいしかコタツに入ってないんじゃないかな。

「あきはとくっつきたいから?」

「くっついてもあったかくないですけど」

「あたたまりたくてくっついてるんじゃないし」

 あたしはあったかいですけどね……外から帰ってきたばかりなのに翠くんの体温は高めですね。さすがにこういう甘ったるいことも慣れてくるとさっくり受け流せるようになる。いつぞやの約束もといおあずけを律儀に守っている翠くんは、べたべた触ってきたとしてもそこに性的なものを感じさせな――いやときどきやばいときあるけど、まぁえろい展開にはならない。あざとい猫でも根は真面目なのだ。

 冷えた手足があたたまったので、そろそろ夕食を作らねばな。

「翠くんごはん作るから」

 はなしなさい、と言うとお腹のすいているらしい翠くんはいつも以上にあっさりとあたしを解放した。さて今日は生姜焼きだ。

 コタツの周辺に散らかったブツをひょいひょいと行儀悪くまたぎながらキッチンに向かおうとして――その拍子に積み上がっていた翠くんの参考書が雪崩を起こした。爪先で蹴っちゃったのだ。

「うわわ、やっちゃったー」

「なにやってんの、あきは」

「う、ごめん」

 参考書やいわゆる赤本なんて呼ばれるようなものが何冊か重なっていたのだ。翠くんは「まぁ置いてままにしていた俺が悪いんだけどさ」と苦笑する。崩れ落ちた本を拾いながら、使い込んだ感じのそれらに、翠くんもがんばっているなぁ、と微笑ましくなる。


「――あれ?」


 そのなかの一冊に、目がとまる。そう、受験生には御馴染みの大学別の過去の入試問題集。そこに書かれている大学名は東京の、あたしでも知っているようなレベルの大学だった。

 どうして、この大学の過去問を使っているんだろう。

「あ」

 翠くんもその一冊をあたしが見ていることに気づいたのだろう、小さく声を零した。

 もともと彼は東京の大学に行く予定だった。けれど、あたしと暮らし始めて――付き合うようになって、県内の大学に通おうと思っていると、そう言っていたはずだった。そう、あたしも通うあの大学に。

 けれどそんな会話をしたのも、だいぶ前になる。

「……翠くん、その大学受けるの?」

 つとめて平静な声になるようにしたつもりだったけれど、意識しすぎたのかあまりにも平坦な声になった。

 あたしはまっすぐに翠くんを見るのに、翠くんは視線を泳がせて目を合わせない。

「――うん」

 しかし声でしっかりと肯定した。

 そうか、東京の大学に行くのか。まぁそうだね、その予定だったんだし、恋だの愛だので将来にも影響するような選択はできないよね。

 でもそうか、そうなると、遠距離恋愛になるのか。

 それとも、これを機にバイバイとか――そういうことなんだろうか。

 今まで付き合ってきた奴らに、ろくな男がいなかったのだ、ということを再認識する。経験からしてあたしはこういうときに楽観的な方向に考えを向けることができない。まして翠くんはびっくりするほどの美人さんで、あたしよりも翠くんに似合う女の子はたくさんいる。

「ちゃんと、話すつもりだったんだけど」

 ぽつり、と翠くんが呟いた。

 思わず身構えて、けれど目だけは翠くんから離さなかった。彼はわずかに目を伏せて、そして決意するようにあたしを見る。

「俺、東京の大学に行こうと思うんだ」

 はっきりと告げる声に、あたしは思ったよりも傷つかなかった。そっか、とこぼしたあとに――もう一度、そっか、と呟いた。

「――あきは、勘違いしてないよね?」

 重くなった空気を察してか、翠くんがじりじりとにじりよってきた。

「な、なにが?」

「遠距離恋愛にはなるけど、俺あきはと別れる気はないし手放す気はないからね」

 さきほどの決意よりも力強くきっぱりと言い切られて、思わず赤面する。何言いだすんだこの子は。

「そ、そっか、うん、そっか」

 大きな手があたしの腕を掴んで「わかってんの?」と少し苛立ったようにあたしの目を覗きこんだ。今度はあたしが目を泳がせる番だった。


「俺、最速で合法的にあきはを俺のものにしたいのね?」


「――――はい?」


 何言い出すんだこの子は。何言い出すんだこの子は。

 こんらんしてるから二回言うよ!

「まぁ正直な話、高校卒業したら既成事実作ってさっさと籍だけ入れられないかな、とか思わなかったわけじゃないんだけど、和佳子さんにがっつり釘刺されたからさ」

 ――将来をちゃあんと考えてくれるのは嬉しいけど、養う力もないのに強引にコトを進めたらいくら温厚な和佳子さんも怒るからねぇ? と、まぁそんなことを言われたんだそうな。え、お母さんいつもあんな軽いノリなのに。

「お、おかあさんに? い、いつ?」

「夏祭りのとき」

 え? あ、だから着付け終わったとき翠くん大人しかったの? ただ浴衣を着ているから緊張しているのかなって思ったんだけどそれよりも既成事実ってなんですか――いや、やっぱりいい。聞かない。聞きたくない。聞いたらヤバい気がする。

「それができないなら、さっさとあきはを養えるようになって嫁に来てもらうしかないじゃん。ん? いや、この場合婿入りかな。どっちでもいいけど、そのためにはこっちの大学よりも名の知れた東京の大学の方が就職に有利だったりするし、そこだと就職率もいいから――」

「ぎゃああああああまってまって何の話!?」

 養うとか嫁とか婿とか何!? 思わず翠くんの口を塞いでしまったけど、この場合は自分の耳を塞いだ方がよかった。

「……将来設計の話?」

 首を傾げても騙されないんだからな! もう! 手のひら舐めるなあああああ!

 翠くんはくすりと笑って、まぁいいよ、と呟いた。

「プロポーズはちゃんとするし、とりあえずあきはは覚悟しててねってこと」

「か、かくごですか」

「わかっていると思うけど、受験がすぐそこってことは卒業もすぐそこだからね」


 ――『キス以上のことは、翠くんが高校を卒業するまでしません』


 以前翠くんに言ったセリフを思い出して、身体中が沸騰するくらいに熱くなる。忘れてない、忘れちゃいませんけど!

「~~~~~っこの、エロ猫!!」

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