8:猫と浴衣と夏祭り

「へぇ、今日って夏祭りあるんだね」

 スーパーへの買い出しに付き合ってくれた翠くんが、壁に貼られた夏祭りのポスターを見て呟いた。

「ああ、うん。近くの神社でね」

 小さい頃から毎年やっているお祭りだ。高校生になったあたりからはあまり行っていない。

 翠くんとなら行きたい。けど、まぁ、一応彼は受験生なわけで。受験生にとっての夏休みは勝敗を左右しかねない大事な時期なわけで。それをあたしのワガママで付き合わせるっていうのはどうかと思うんだよね。夕飯の材料も買ったしね。

「あきはの浴衣姿見たいなぁ」

 こっちの頭の中を覗き込んだのかっていうくらいのタイミングで、翠くんがにこにこと呟く。誘惑のつもりだろうか。このやろうそうはいかないからな。

「……いや、あたし浴衣自力で着れないし」

 小中学生の頃は、おばーちゃんに浴衣を着せてもらったのだ。年に一度着るかどうかのものだし、着付けを覚えるつもりもないし。浴衣姿が見たい、浴衣を着たなら夏祭りに行こうっていう流れはそもそも成り立たない。残念だったね翠くん。

 しかしまぁすぐに反論があるだろうと身構えて――おや、翠くんが固まってる?

「なんならおかーさんが着せてあげるわよ?」

「ぎゃあ!?」

 背後から突然声をかけられて飛び上がる。驚きながら振り返るとくすくすと笑う我が母がいた。

「な、何してんのおかーさん」

 心臓がばくばく鳴っている。びっくりした。びっくりしたよもう!

「ちょうど家に帰るところだったの。あきはちゃん浴衣着る? お母さんのお古だけど仕立てのいいのがあるのよ?」

 うちに浴衣なんてあったんだ……。浴衣ないよって誤魔化す術は断ち切られてしまった。というか、お母さんまで参戦してくるとこちらにはかなり分が悪い。

「え、いや、だって翠くん受験生だし」

 顔を引き攣らせると、硬直していた翠くんはここぞとばかりに攻めてくる。

「受験生にもご褒美は必要だよね?」

 首を傾げるその仕草は本当に高校男子に見えないくらい可愛いからやめよう。「そうよねぇ」とお母さんが同意しちゃっているあたり、これはどう考えても負け戦だ。

「一時間や二時間ちょっと遊んだ程度でダメになるほど翠くんの頭は残念じゃないでしょう? 息抜きくらいしてきなさいな」

 そりゃ翠くんは優秀ですからね! 知ってますけどね!

 我慢しようとしたのが馬鹿らしくなるくらいに綺麗に言いくるめられてしまった。




 荷物を冷蔵庫に詰め込むと、お母さんに「ほらほらこっち」と強引に一階にある和室へ連れて行かれる。普段使われていないその部屋でお母さんは浴衣を広げて見せた。紺地に朝顔の、綺麗な浴衣だ。

「……もしかして、それあたしがすっごい小さい頃のお母さん着たよね?」

「あら。覚えてるの? 和幸かずゆきさんとちっちゃいあきはちゃんと三人でお祭り行ったときね」

 ああやっぱり、と納得する。両親に手を引かれて歩いているときに浴衣の柄がよく見えるから覚えていたのだ。

「和幸さんのもあるのよ。せっかくだから翠くんにも着てもらいましょうか」

 お母さんが取り出した蜻蛉柄の男性用の浴衣は、お父さん――『和幸さん』のだ。

「……男の人の着付けも出来るの? おかーさん、なんでそんなことまで知ってるわけ」

 正直あまり顔を合わせないくらいに多忙なのに、なんでまた普段使わないような知識まであるんだろう、この人。

「いろいろと出来ることが多いと便利なのよ? 浴衣くらいなら簡単だから、あきはちゃんもそのうち覚えるといいわ」

 まぁ無駄に器用だからこそ女手一つあたしを育てるだけの財力を築けたんだろうけどさ……。その器用さ、分けてほしいくらいだよ。

 むす、としているとお母さんがくすくすと笑う。

「あきはちゃんはお父さん似だものねぇ」

 まるでこちらの考えていることを見透かしたようなセリフだ。あまり顔を合わせないといっても母親だもんなぁ、隠し事なんて出来た試しがない。

「先に翠くんに着付けましょうね。呼んできてくれる?」

 その間にお化粧しておきなさい、と言われる。そうですね、近所とはいえ浴衣デートってことですしね。女子の武装は大事だ。

「翠くん、翠くんが先に着替えてきて」

「え? 俺も? なんで?」

 ざっくりと説明を端折ると、翠くんが首を傾げて問いかけてくる。

「男物の浴衣あるしお母さんノリノリだし」

「……あー……」

 それだけで翠くんも逃げ道はないと悟ったらしい。わかった、と頷いて和室へ向かう。

 ううーん、それにしても浴衣姿の翠くんって破壊力高すぎない? 大丈夫かな?


 ――結論としてはやばかった。


「……翠くん、その色気はやばい」

「何それ」

 美人は浴衣が似合うもんだって決まっているけど、翠くんの魅力が倍増どころじゃなく三倍……いや五倍くらいになってない? 死者が出ない? 翠くんは心なしかいつもより大人しいけど、それがまた余計に色っぽい。

「いちゃいちゃしてないで、あきはちゃん早くいらっしゃい」

 和室から顔を出した母親に急かされた。いやいちゃついていたんじゃないよ、翠くんがやばいって話だよ。

 紺地の浴衣を広げる前に、着ていた洋服を引っぺがされたあたしの体系を補正していく。このときって正直間抜けだよね。成人式の振袖でも思ったけど、着せられる側がやれることはほとんどない。言われたとおりにじっとして腕を上げたり下げたりしているうちに終わるはずだ。ぐっと帯を締められると自然と背筋も伸びる。

「くるしくない?」

「ん、平気」

 着付け自体はあっという間だ。鏡に映る自分の姿を確認して、おおう、と思わず声が零れる。もう何年も浴衣なんて着てなかったし、なんだかすごく新鮮だ。

「はいちょっと待ってねぇ。髪もまとめちゃいましょうね」

 珍しくやる気のお母さんが簪を持ってきてあたしの髪をまとめる。青い蜻蛉玉のついた簪も、小さい頃見たことがあった。

「あきはちゃんも大きくなったわねぇ」

 心なしか少ししみじみと呟かれて、鏡越しにお母さんを見る。そういえば、こういう母娘っぽいことって初めてなんじゃないの。だってお母さんいつもいなかったし。

「……年寄臭いよ、それ」

「あら、まだまだ若いわよおかーさんは」

 心外な、と言いたげな顔はいつも通りでほっとする。

「翠くんおまたせー」

 和室を出ると、リビングで待っていた翠くんが顔を上げる。浴衣を着ているからかお母さんがいるからか、いつものくつろいだ様子はない。

 目が合うと、翠くんは呆けたように固まった。翠くん、今日はやたらと硬直している。

「ふふー。あきはちゃんかわいいでしょー? でもあんまり見惚れてるとお祭り終わっちゃうわよ?」

 得意げに笑う母の声に、翠くんの硬直もとける。頬がちょっぴり赤いのはそういうことだったのか、そうなのか、うわーやめてこっちが恥ずかしい。

「着崩れるようなことはしないようにねぇ」

「いやしないし」

 今から出かけるのにどうしてそんな話になるの。

「おんなじ浴衣でも温泉のときとかにしなさいね、今は剥いてもあんまり楽しくないわよー?」

「へ?」

 翠くんがどこか違うの? と言いたげに声を漏らした。翠くん、それはつまり剥いたときの想像をしていたってことですかね……。いやまぁ、想像ですよね。

「……今は補正の為にタオルとか巻いてるし、よくある漫画みたいな状態ではないよ」

 小さめのバスタオルとか、そういうのをお腹に巻いているのだ。なのでつまりあきはさんはけっこう暑い。こういうのって男の人は知らないんだなぁ。

「そういうもんなの?」

「着物もだけど、浴衣もくびれとかないほうが綺麗だからね」

 あきはさんはそういうことは大事にしたいんですよ。補正もしないで帯を締めるとお胸が強調されるといやらしいじゃないですか。あれは嫌なんですよ。

「へぇ……」

 そうなんだ、と翠くんが呟きながら下駄を出してくれる。時刻としてはもうすっかり夕方だ。この涼しげだが実際には暑い浴衣姿でも出歩ける。

「いってらっしゃーい」

 一仕事終えて手を振るお母さんには、何かお土産でも買って帰ってあげよう。


「あ、ねぇ、あきは」

「なに?」

 お互い慣れない下駄なので手を繋ぎながらゆっくりと歩く。翠くんを見上げると、とろけるような笑顔であたしを見つめていた。

「浴衣、かわいい」

 うぐ。

「……あ、り、がとう」

 五割増しのこの色気を直撃で食らうあたしは、無事に生きて帰れるんだろうか……。




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