12:Congratulations!
三月に、なった。
空気はほんのりと春の気配を感じさせながら、冬の終わりを告げている。吐き出す息はいつの間にか白くならなくなったし、指先が氷のように冷たくなる日もほとんどなくなった。
――今日、翠くんは高校を卒業する。
残念なことに、海外にいるご両親はもちろん、平日だったので蒼くんも来ることはできないそうだ。せっかくの卒業式なのにそれはちょっとどうなんだろうと「あたしが行く?」と聞いてみたりしたけれど、翠くんは「いいよ別に。子どもじゃないんだし」と笑っていた。まぁ考えてみればあたしも母親は来てなかったな。
……卒業式、ということはつまりアレだ。アレなんですけど。
さすがに一年以上おあずけさせておいてまだ覚悟はできてません待ってくださいというほど初心ではないけれども、え、でも本当にどうしよう。
近頃の翠くんと言えば相変わらず猫のように甘えてくることはあるけど、ソレを匂わせるようなことはなかった。あたしとしてはカウントダウンされたりしないだろうなとちょっと警戒したんだけど。そんなことされるとさすがに恥ずかしいし、いたたまれない。なんだ、あたしは魔王に捧げられる生贄か何かかって話だ。……魔王って。似合うな翠くん……。
式は午前中から始まって、お昼頃には終わる。さすがに先生方へのご挨拶もあるし、友だちや後輩と別れを惜しむこともあるだろう。なるべく早く帰ってくるとは言っていたけど、そうも行かないんじゃないかな。
時計は今お昼の十二時を示している。
「最低でもあと二時間は帰ってこないんじゃないかなぁ」
掃除も洗濯も終わってしまったし、夕飯は翠くんのリクエストでハンバーグだし、お昼は――翠くんの分はいるだろうか。いらない気がするんだよなぁ。
だってたぶん、今頃は翠くんへの告白ラッシュとか起きていそうだし。
それが終わったら友だちと高校最後のお昼に行こうぜとか……なりそうじゃない?
グレーの上着にチェックのズボン、あの制服は翠くんに似合っていて好きだったなぁ。もう見ることもないのか、と思うと少し残念ではある。制服といえば、第二ボタンとか争奪戦になっているんじゃないかな。
いろいろな妄想をしていると、スマホが鳴った。翠くんだろうか、と思ったら違う。
「……蒼くん、今お昼休み?」
電話をかけてくるということはそういうことなんだろう。
『うん、そう。翠は? あきはちゃん卒業式行ったの?』
「ううん、来なくていいって言われたから家で待ってる」
『ああなるほど、ガキ臭いとこ見られたくないのかな』
くすくすと笑う蒼くんは相変わらずいいお兄ちゃんだ。
『翠、来週こっちにくるんでしょ。いくつか物件探してもらっているけど。あきはちゃんもくる?』
来週には翠くんも東京での一人暮らしのために少しずつ動き始める。卒業ということは、つまり、同居生活の終わりでもあった。
「行かないよ。さすがにそれは邪魔でしょ」
『えーそんなことないと思うけど?』
「うーん、まぁあたしも少しずつ慣らしていかないと」
突如始まった同居生活は、一年半以上続いていた。あたしもすっかり翠くんのいる生活に慣れてしまった。それが、これから最低でも四年は離れ離れになる。
――「翠くんのいない生活」に少しでも早く慣れないと、ペットロスにかかりそうだ……なんて冗談めかして笑った。正直、冗談にもなれない。
それから一時間とちょっとした頃に、翠くんは帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり、翠くん」
どんな悲惨な状態になってくるかと思いきや、翠くんの制服は無事だ。漫画みたいにぼろぼろになって帰ってきたりして、なんて思ったのに。
――あれ? でも。
「あきは、手出して」
「え? うん?」
第二ボタンはついてないんだ、と思ったところで、あたしの手のひらの上にそのボタンが落ちてくる。
「あげる」
手のひらの中の大きなボタン。そういえば、第二ボタンって人生で初めてもらうなぁ。中学の時はほしいなって思う人もいなかったし、高校の時はむかつく元カレと別れてそれほど経ってなかったもんな。
「ありがとう、大事にするね」
翠くんの高校三年間、ずっと一緒にいたものだもんね。まるで青春の欠片みたいだ。
それから翠くんはご両親から国際通話がかかってきたり、そのあとには蒼くんからも電話があったりでわりと忙しそうだった。まぁおめでたい日だもんね、そりゃあ家族は気になるだろう。
外がじわりじわりと暗くなってくると、嫌でも意識してぎくしゃくしてしまう。翠くんが不思議なくらいいつもどおりなのが――いや、いつもよりべたべたしてこない。ここ一週間くらいはずっとそうだった。でもそれがまたなんか、ちょっと気恥ずかしいといいますか。
「――そこまでぎくしゃくされるとこっちも困るんですけど、あきはさん」
「いやぁ……そう言われましても」
夕飯を食べ終えるとさすがに翠くんも苦笑していた。くっそ余裕だな翠くんめ! こっちははじめてなんだよ! そりゃ緊張もするんだよ!
リラックスするためにお風呂でも入ってくる? いやいや無理でしょそれはもう食べてくださいって自分で準備しているようなもんでしょ。かといってお風呂も入らずにやれるかって無理だからそれはそれで無理だから。
「まぁ俺もここで別に今日じゃなくてもいいよって余裕をみせてあげられたらいいんだろうけど、そうするとあきはふんぎりつかなくなりそうだし」
「うぐ」
余裕もないしね、とそんな様子を感じさせない涼しい顔で翠くんは付け足す。
「……いや、別に嫌なわけじゃないんだけど、この雰囲気がいたたまれない」
「……あきはさーん、煽らないでください」
はい? 煽った覚えはないんですけど? 散々いちゃいちゃバカップルみたいなこともしていたし、あまったるい空気には慣れたと思うんだけど、これはまた、なんか違う。違うから困る。
はー、と翠くんは長いため息を吐き出すと手を伸ばしてあたしを引き寄せた。気づいたときには翠くんの膝の上に座らされていて、赤面する。まってまって、これじゃあどっちが猫なのかわからないんですけど。
「散々おあずけ食らったのは俺なので、これ以上待つつもりはないしあきはさんには覚悟決めてほしいんですけど」
こつん、と額と額をくっつけた翠くんに、至近距離で懇願される。これでもまだ逃げられるようにゆるい拘束なのが翠くんのやさしさだとあたしは知っている。
「……かくご、は、してるんですけど」
覚悟していても、恥ずかしいものは恥ずかしいんですよ。
いつの間にあたしはこんなに、この猫に捕まってしまったんだろうか。逃げ道なんてもうない。逃げる気もない。不思議と、これまで浮かんだようなネガティヴな考えも浮かばない。だって、大事にされているって分かるもの。
「――ええと、お手柔らかに、お願いします」
翠くんの頬をそっと包み込みながら微笑むと、翠くんは嬉しそうに相好を崩した。そっとやさしく落ちてきたキスを受けながら、ああそうだとあたしは目をあける。翠くんと目があって、それがまた何故かおかしくてくすくすと笑う。
「卒業おめでとう、翠くん」
指を絡めて、今度はあたしからキスをする。くすぐったそうに笑う翠くんがいとおしくてしかたなかった。
わがままで、不器用で、意地っ張りで。やさしくて、甘えん坊で、心配性な翠くん。
あたしはきっと、これからずっと君に恋し続けるんだろうなってそんな気持ちでいっぱいなんだよ。
だから、ね。これからもよろしくね?
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