6:犬と猫、あるいは兄と弟

「ただいまー……っと?」


 家に帰ると、玄関には見知らぬ男物の革靴があった。んん? 誰だ? 翠くんのお友達にしては立派な靴だよね。どうみても社会人だよね。

「あきはちゃんおかえりー」

 クエスチョンマークを浮かべたのはわずか三秒、すぐに謎は解けた。

「蒼くん!?」

「久しぶりー。お邪魔してるよ」

 にこにこと愛想よく笑っている彼はまごうことなき翠くんの実兄である。似てないけど。びっくりするくらい似てないけど。

 蒼くんが不細工ってことじゃなくて、系統の違うイケメンなのだ。茶色のふわふわの髪に人懐っこそうな表情を浮かべ、さらには背も高く……なんというかガタイがいい。スポーツマンって感じの人なのである。翠くんが猫であるなら蒼くんは犬だ。チワワなんかじゃないぞ。でっかいわんこだ。

 蒼くん、おじさん似なんだよね。翠くんはおばさんに似だけど。黒髪クールビューティーな翠くんとは雰囲気からして全然違う。

「いらっしゃい。どうしたの急に」

 電話とかメールはわりと頻繁にしていたので久しぶりって感じでもないけど、会うのはかなり久々だ。だって蒼くんは東京で一人暮らししている。

「ん? 翠の三者面談があったからさー。聞いてない?」

 はい、まったく聞いてません。

 リビングでくつろぐ翠くんをじろりと睨んだが、ささっと目を逸らされた。

「んで弟のためにわざわざ休みとってこっちきたの。和佳子さんが代わりに行ってくれたら助かったんだけどさー」

「三者面談に? 無理でしょ」

「うん、無理だった」

 そりゃそうだ。あの人、実の娘の三者面談にすら行ったことないもの。

「あのさ兄貴、とっとと帰ったら?」

「このとおり弟は冷たいし」

「週末はあきはと二人っきりでのんびりしたいんだよ空気読め」

「おまえなー。いつも二人っきりでしょーが」

 ええそうですね、母はほとんどいませんからね。

 というかもう夕方だし蒼くんはお泊まりってことでいいのかな。どうしよ夕飯の材料足りないかもなー。

「とりあえず翠くん? こういうことはちゃーんと事前に言っておこうね?」

 こちらにもいろいろ準備ってもんがあるからね? しかし翠くんはむすーっとしたまま反論してきた。

「……アホ兄を泊まらせるつもりないし」

「決定権は翠くんにはありません」

 家主はうちの母で、次に決定権があるのはあたしです。翠くんは居候!

「お客さん用の布団干してないよーもー」

「え、あきはちゃんいいよ別に。おかまいなくー。俺はそこらへんに転がって寝るし」

「そういうわけには参りません」

 というか蒼くんほど大きな人がそこらへんで寝転がられても困ります。

「んじゃ俺は翠のベッドで寝るから、二人はどうぞ仲良く……」

「兄弟揃って追い出すよ?」

 にっこりと微笑んで表へ出ろと親指で玄関を示す。うふふー兄弟、仲がよくてよいですねー。

「申シワケアリマセン」

 ノリのいい蒼くんはその場で土下座している。この兄弟の性格の違いはどっからきてるんだろう。翠くんはふざけても土下座なんてしないと思う。実際に土下座する兄を冷やかに見ているし。

 さて夕飯どうするかなと冷蔵庫の中身を確認していると、後ろからぎゅむりと抱きつかれる。

「……翠くん」

 いつものことだけど。いつものことで慣れてきているあたしもどうかと思うけど、でもさすがにおにーさんがいるときくらいは大人しくしてようよ。

「……さっきから随分二人とも仲良いね?」

 不貞腐れたような声にいつもの嫉妬かと思いきやちょっと違う。絶対零度の冷たさがない。そう、なんていうか――いじけた子どもみたいな。

「翠くん拗ねてる?」

 仲間はずれにされたと思っていらっしゃる? 翠くん昔はおにーちゃんっ子だったもんねぇ。心配しなくてもあたしはおにーさんをとらないよ。

「拗ねてないし」

「いやーそれは拗ねてるでしょ」

 あきはさんも翠くんのご機嫌なんて手に取るように分かるのですよ。

「拗ねてる拗ねてる。ソレすっごい拗ねてる」

「兄貴うっさい!」

 顔を赤くして蒼くんを黙らせようとしているけど、無理だよ翠くん。たぶん君はおにーさんに勝てないよ。

 ふむ。どうにか買い物行かなくても平気かなぁ。ごはんはいつもの倍炊いておこう。蒼くんは一合くらいぺろりと食べる気がする。

「さー翠くん、兄弟水入らずでテレビ見ててください」

「何か手伝うよ?」

 きょとん、と小首をかしげる仕草は相変わらずたいへんかわいいらしいですね。高校男子には見えないよね。

「蒼くんの生温かい目で見ていてものすごく居心地悪いのでいいです」

 さっきからね、カウンター越しににこにこしながら蒼くんに観察されているんですよ。翠くん、少しは恥じらいの精神を持ちましょう。

「いやいや気にせず続きをどうぞー」

「気にするから! 超気にするから!」

 こんな会話しながらも手は動かしているあたしグッジョブ。結局翠くんのお手伝いは強制イベントで、蒼くんもテレビなんかは見ないでこっちを眺めている。……こんなもの眺めて楽しいか?

「あきはちゃんも手際いいよねー。見てて気持ちいいくらい」

「……も?」

 楽しげな蒼くんのセリフに、つい考えるよりも先に声になった。あ、普通に考えて彼女くらいいるじゃんね、このイケメンにも。

「なんだ、蒼くん一人暮らしだから家庭料理食べてないのかなーって思ったけど、ちゃっかり作ってくれる人いるんだね」

「うん、俺の飼い主ね」

「そう飼い主……はい?」

 ――聞き間違いですかね?

「近々彼女になる未来の嫁?」

「……それはオツキアイしているわけではないってことですよねー」

 それで既に未来の嫁認定してるって……こわ。怖いぞ蒼くん。もう獲物は逃がさないって笑顔にあきはさん背筋が凍る勢いだよ。

「兄貴、犯罪はやめて」

「犯罪じゃない。相手はお隣の女子大生だ。おまえと違ってエロいこともしてない」

「なんかそれだけでも犯罪くさいんだよ」

 あきはさん聞こえない。なんにも聞こえない。蒼くん、お相手は成人してますか。未成年を部屋に連れ込んでるのそれとも部屋に上がり込んでんの――どっちも危険な香りしかしない。

「って……いやエロいことしてないし!」

 一瞬聞き逃しそうになったが事実無根なことはしっかり否定しないと!

「へ? してないの?」

「あんたら兄弟はなんでもかんでもエロい方面にもってくのやめなさい!!」

 見た目も中身も似てないのにどうしてこう、根本的なところはそっくりなのかな! 翠くん、記者会見の「誠に遺憾ながら」って言い出しそうな感じの顔するのやめようか。

「ほら揚げ物するから離れて。お皿だけ出して」

「はいはい」

「……なんかもうすっかり夫婦って感じだねぇ二人とも」

「ふっ!?」

「そりゃあきはは俺の未来の嫁だから」

「よっ!?」

 ――もう! どこからつっこんで訂正すればいいんですかね!?



 夕飯はからあげにアボカドと卵のサラダに昨日の残りの煮物などなど。普段使わない大皿出したよ……。

 翠くんはといえば蒼くんがいようともべたべたするのをやめる気はないらしい。ごはんも食べ終わって蒼くんがお風呂に入っている今は半ば強引にあたしを膝に乗せて後ろからぎゅうぎゅうしながら座っている。

 いつもなら膝を枕に寝てるくらいなんだけどなー。これはなんだか普通のカレカノっぽくておねーさん恥ずかしいなー。普通っていうか間違いなくバカップルだよね。

「お風呂いただきましたよそこのバカップル」

「やっぱバカップルですよねー……」

 自覚はしている。ものすごく恥ずかしい。だがしかしこの猫のホールドから逃れらないので現実逃避してた。

「ほら、翠もさっさと入ってこいよ」

「あー、うん、そうだね。あたしはまだ片付け終わってないし翠くん先にどうぞー」

 と翠くんに先にお風呂を譲る――あ、今ちょっとむっとした。何が不満だ。

 何かを言いたそうにしたけれど、ここで反抗するよりいつものごとく烏の行水で済ませるほうが早いと思ったのか翠くんはお風呂へむかった。

「あー面白くていいなー。からかいがいのある翠」

 にやにやと笑う蒼くんにため息を吐き出した。悪いにーさんだなぁ。

「おにーさん……弟で遊んだらあかんでしょ……」

 翠くんだって久々に蒼くんに会えたのに遊ばれているとわかっているからか、ずっと威嚇モードだ。蒼くんは「いいのいいの」とからかうのをやめる気はないらしい。

「今だって気が気じゃないんじゃない? 俺にあきはちゃんとられるんじゃないかって」

「なんでまた……」

 あきはさんは翠くんからおにーさんをとるつもりはないし、逆もまた然りだろう。

「あれ? 覚えてない? あきはちゃん小さい頃俺のお嫁さんになるーって言ってくれたじゃん」

 ――はい? なんだそれは。

 昔は蒼くんと遊ぶほうが多かったし、ひとりっ子のあたしはおにいちゃんがほしかったから蒼くんにも懐いていたけれども。

「あー……言った、ような? でもそんなのは時効でしょ」

 なんせ本人の記憶にもないほど遠い昔だ。

「でも気になるんだろーねー。好きな子と付き合うのははじめてだろうし、あいつ」

 いやいや過去のカノジョさんたちは。

「今までの子には、あんな風に甘えてないと思うよ」

 ……蒼くんエスパーですかね。

 きょとんと目を丸くしたあたしを見て蒼くんはけらけらと笑う。

「あんなに甘えたなところは、今じゃ家族にも見せないと思うけど」

「……ソウナンデスカ」

「そうなんですよ」

 警戒心の強い猫の懐に入れられている、というのはわかっていた。しかしそれを家族から認定されると、恥ずかしいのやら嬉しいのやらいたたまれないのやらで頭が軽くパニックになってる。

「あきはちゃんが未来の義妹かー」

 楓ちゃんと仲良くやれそうだなー。なんて蒼くんが呟いている。楓ちゃんとやらが蒼くんに狙われている子羊ちゃんですか。いやまってそれよりも未来の義妹とか外堀埋められている感しかない。

「翠のことよろしくね」

 くすくすと笑いながら混乱しているあたしの頭を撫でる。う、こういうときにおにいちゃんの顔をするのはズルいぞ蒼くん。大人しく頷かなければいけない気がするじゃないか。

「あきは!」

 こくりと頷いたかどうか、というタイミングで背後から抱き寄せられる。お風呂上りの翠くんの黒い髪からはぽたぽたと雫が落ちていた。

 翠くん、落ち着いてくれ。頭を撫でられただけなんだ。蒼くんが憤死寸前ってくらいに笑いをこらえてるから。

「ぶっ……すげぇ早ぇ」

「うん、翠くん烏の行水なんだよね」

「いやそこじゃないし。あきはちゃんちょっとズレてるよね」

 こんな常識人捕まえてなにがどうズレてるんですか!

「俺の嫁に気安く触るなアホ兄」

「いや俺の未来の義妹だし」

「兄弟で着実に外堀埋めるのやめようか」

 嫁とか義妹とか。ていうか未来もつけないのやめよう。嫁じゃないし彼女だけど。

「こんな器のちっさい男でいいの? あきはちゃん。こういう男はナニもちっさいよ?」

「筋肉バカの言うことなんて聞かなくていいし近寄らなくていいし同じ空気を吸わなくていい」

「おまえが細いんだろー? ちゃんと食ってる?」

「あきはがちゃんと作ってくれてるし細くないし兄貴暑苦しい」

 蒼くんは何気にセクハラだし人の頭上できゃんきゃんにゃーにゃーうるさいし暑苦しいのはぎゅうぎゅうしてくる翠くんだし。

 ……あきはさん、お風呂入りたいんですけど……。

 兄弟喧嘩に付き合ってらんないし。論争がどんどん変な方向へいってるし。なんですか料理上手はどっちだのって……どうでもいいがな。

 翠くんの注意がそれたのでするりと腕から抜け出しあきはさんは癒しのお風呂タイムです。

 しかしながらお風呂をまったり楽しんであがってきても二人は仲良く喧嘩中のようで。もはや胸だの脚だのおかしな論争になっている。


 ……うん、寝よう。





 土曜の朝とはいえお客さんいるしね、とそこそこ早めに起きる。

 パジャマから着替えて階段を降りると、リビングの電気がつけっぱなしだった。そこにはでっかい犬と猫が寝こけている。

「……まったく仲良いんだからなぁ」

 散らかったお菓子と飲み物と、DVDを見る限り、あたしが寝たあとにコンビニ行って映画を借りてきたらしい。ビールまであるけど翠くんに飲ませてないでしょうね蒼くん。

 呆れてため息を吐き出し、二人を起こさないように片付け始める。

「……あきは……?」

 とろんとした、まだ夢の世界にいるようなかすれた甘い声に心臓がきゅっと締め付けられた。

「……起こしちゃった?」

 なんてことない顔をして翠くんを見ると、ふにゃりと相好を崩して翠くんはしあわせそうに笑う。あきは、と音を出さずに唇だけが動いて、猫はまた夢の中へ戻っていった。すーすーと寝息が聞こえる。

「~~~~っ」

 心臓が死ぬ。

 あの笑顔を独占していたのか、という事実が昨夜からじわじわあたしを追い込んできていて死ねる。いや死んだ。確実に死んだ。

 耳まで赤くなっているに違いない顔を見られてないということが救いだ。


 ……好きすぎて困る、なんて。ほんとにバカップルのセリフじゃないか……。

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