5:いい匂いがするんです

 ――お風呂は好きですか? もちろんイエスです。


 入浴剤を楽しんで長風呂するのが至福の時ですよ。これでもバラの香りとかは我慢してるんですからね、さすがに男子高校生がほんのりバラの香りってかわいそうかなって……いや、翠くんだったらお似合いだな。今度使ってないやつをいれちゃおうかなぁ。

 一軒家ってこともあって我が家のお風呂は広い。足を伸ばしてのんびりできるのがいい。これもあって一人暮らししないんだよね。だって一人暮らし用のお風呂って狭いところ多いじゃないですかー。ちっちゃくなってお風呂なんてくつろげない。ダメダメ。

「ふー……極楽極楽」

 本日のチョイスはサクラの香りです。外の満開の桜は残念ながらもう散ってしまったけど、まだ名残のようにちらほらと見かける。春も終わりだ。

 あたしはかなりの長風呂だけど、翠くんは烏の行水かよってくらいにさっさとあがってくる。あれか、猫だからお風呂嫌いなのか。もうちょっとしっかりあったまったほうがいいと思うんですけどねぇ。

 筋肉ほぐしてヘアケアして、自分磨きには余念がありませんよ。だって考えてみてくださいよ、カレシがあれですよ? びっくりどっきりな美人さんですよ? 並んだときにカレシのほうが綺麗ってすっごい屈辱でしょ女としてさ!事実、翠くんのほうが美人だけどさぁ!!

 ――くっ……むなしい。

 お風呂からあがってパジャマを着て、髪はとりあえず拭くだけでリビングに戻る。パジャマは色気なんて求めません。オオカミがいるんですよ我が家は。それにかわいいルームウェアって着心地とは別だしね。やっぱり肌触りがいいものがいい。


「翠くん、お風呂あいたよー」


 夕飯のあとにリビングのソファーで参考書とにらめっこしている翠くんに声をかける。たいへんだね高校生。もうすぐ模試があるんだそうだ。この春から三年生だもんね。

 振り返った彼はむむ、と眉間に皺を寄せた。

「あきは、髪ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」

「お風呂からあがったばっかりで暑いんですー。ちゃんと乾かしますー」

 今あたしが必要としているのは水分である。

 冷蔵庫から最近お気に入りのレモネードを取り出してコップに注ぐ。お風呂からあがったら水分補給は必須ですよお嬢さん。

「あきは、いーにおいするね」

「うひゃあ!?」

 首筋のにおいを嗅ぐように翠くんが背後から忍び寄っていてびっくりする。コップを持ってなくてよかった! 持っていたら絶対に割ってた!

「み、みどりくん! 不意打ちはやめようか!」

 心臓に悪いからね!? おねーさん心臓とまるかと思ったよ!?

「堂々と近寄ったつもりなんだけど」

 って、堂々と後ろからぎゅーってするのもやめようか!

「いくらお風呂あがりだからってにおい! におい嗅がないで!」

「いーにおいなのに? さくら?」

 お見事正解です、じゃ、ない!

「翠くんも早く入ってくればいいじゃない、まだ香り残ってるはずだし」

「んー……」

 こら、ぎゅうぎゅうしない。時間がたてばたつほど入浴剤のにおいはとんじゃうと思うんだけど。

 レモネードを片手にソファーへ移動すれば、すりすりとくっついたまま翠くんもついてくる。なんだこれは。甘えたモードか。お疲れなのか。

 ソファーに座るあたしの膝に頭をこてんとのせている。

「……翠くん疲れたならお風呂入ってきなよ」

「それよりあきはに撫でてほしいな?」

「はいはい、いーこいーこ」

 なんだかんだで翠くんも受験生ですしねぇ、そりゃ疲れもたまるんでしょうよ。なんでもスマートにこなす翠くんとはいえ、何もしなくてもできるってわけじゃないだろう。ちゃあんと努力していることもおねーさんは知ってますから。

 ふわふわの猫っ毛を撫でてやると嬉しそうに目を細める。ああほんと猫っぽい。こうしていると年下の男の子って感じでかわいい。なでなでと撫でていると、あたしを見上げる瞳が、きらりと光った。


 ――あ、しまった肉食獣。


 と思ったときには大きな手があたしの首筋に触れる。

「ふぁ!?」

「髪から水滴落ちてる」

 だからってそれを指先で拭いますか、翠くん。どこでそんな芸当覚えてくるのこの子。ほんとこの子将来怖い……あたし心臓はいつまでもつのかな。

「ねぇあきは」

 首を傾げてあたしを呼ぶ。

 猫ってよく首を傾げるよね。あれって絶対自分のことをかわいいって分かっててやってると思うんだ。あいつらあざとい生き物だよ。

「…………なに」

 たっぷり間をおいて答えると、翠くんはくすくすと笑う。

「ごほーびちょうだい?」

 首筋に触れていた指が、あたしの下唇をなぞった。途端に火がついたように顔が熱くなる。

「な、なんのご褒美」

「次の模試」

「まだ受けてないでしょ!」

「うん。だから前払いで」

 にっこりと笑って翠くんは距離を縮めてくるけど、それおかしいよね。絶対におかしいよね。

「普通、ご褒美って結果がよかったらもらえるものだよね……?」

「そうだね」

「じゃあ今はおかしいよね?」

 だからとりあえず離れようか? と暗にお願いしてみるけれど、翠くんは獲物を見つけて痛ぶる猫みたいに目を細めた。

「そういうこというならタテマエなしでキスしていい?」

 ――あああしまったそういう流れか!!

「いやちょっとタイム」

「そんなルールあった?」

「今作った」

 うん、あれだ。ご褒美というからにはあたしがあげるんだな? そうだな? この場合ご褒美のタテマエがあったほうがあたし的には都合がいいな? うん。

「よし、分かった。前払いでご褒美あげよう」

「今あきはの頭の中でずるいこと考えたんじゃない?」

 察しがいいね翠くん。

 あたしはにっこりと笑って翠くんの頬にかるーくちゅ、とキスをした。うん、不満気。面白いくらいに顔に出てるよ翠くん。

「あき、」

 ずるいとかそうじゃないとか文句を言う前に、あたしは翠くんの頬を両手で包んでその唇に触れるだけのキスをした。

 一瞬といってもいいくらいのキスのあと、翠くんはきょとんと目を丸くしていた。ふふんこれは予想外だったでしょう。たまにはやり返さないとね、と勝ち誇っていると、翠くんの顔がみるみるうちに赤くなった。あら? あらあら?

「翠くん?」

「……風呂入ってくる」

 赤い顔のまま翠くんは立ち上がってリビングから出て行った。


 ふむふむ、どうやらうちの猫は不意打ちするのはよくても、不意打ちされるのはダメらしい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る