3:風邪をひいちゃいました

 風邪ひいた。やっちまったー。

 朝から少しだるいかな、と思ってはいたんだけど、どうにか大学にたどり着いてひとつ目の講義を受けている途中からぐわんぐわんと頭痛がしてきて、あたしは素直に帰ることにした。

 途中行きつけの病院に寄ってインフルエンザではないことを告げられ、薬を手に入れる。あーよかった。インフルエンザで大学行くとかはた迷惑なことにならなくて。まだ一月でインフルエンザは全盛期ともいえる。今年はまだまだ増えているそうだ。

 こういうとき、一人に慣れている自分に苦笑する。母親はあの通り家にいないことがほとんどだったし、中学でも高校でも具合悪くなると自分で決断して行動する。自力で動ける段階でやらなきゃダメだ、助けはない。早退して、病院行って、そして寝る。薬飲んで眠ればたいていはすぐよくなるものだよ。

「ただいまぁー……」

 がちゃりと鍵をあけて、力なく靴を脱ぐ。二階に行くのが億劫だ。ああその前に薬を飲まないと。胃には何も入ってないけど、朝の分を帰ってから飲んでもいいってゆってた。うん、ゆってた。

 熱が出てきたのかもしれない。頭がうまく働かなくなってきて、あたしは薬を飲み込んだあとよろよろと自分の部屋へと向かった。こんなところも防衛本能だろう。だって風邪っぴきがソファで倒れても運んでくれる人はいないからさ。

 ああ、でも今は違うか。

「みどりくーん……」

 うちの可愛いにゃんこが戻ってくるまでに熱は下がるだろうか。やだなぁ心配かけたくないなぁ。朝はうまく誤魔化せたんだけど、こんな状態じゃだまされてはくれないだろう。翠くんが帰ってくる前によくなればいいのに。無理か。無理そうだな。

 もぞもぞと布団に潜り込んで丸くなる。熱い。けれど体力のない身体はすぐに眠りについた。



 お父さんが死んだのは、小学校一年生のときだった。交通事故だった。それまでは風邪をひくとお父さんが慌てて帰ってきたものだ。不器用な手つきで林檎を剥いてくれたを覚えている。

 お父さんが天国へ行って、ばーちゃん家に預けられることが増えて、小学生までは風邪でもばーちゃんたちが看病してくれた。でも、中学生になってばーちゃん家ではなく家に毎日帰るようになると一人でどうにかする癖がつく。だって、心配かけたくない。

 一人で平気だよ、一人で大丈夫だよ。そう言い聞かせて、いつも乗り切っていた。





 ――ひやり、と冷たいものが頬を撫でる。


「ぅ、ん?」

 気持ちいい、と目を開けようとするけれど、重たい瞼はあかない。

「寝てていいよ、あきは」

 低い声が優しく落ちてくる。みどりくん? と頼りなさげな自分の声に驚いた。うん、と答えてくれる声にすごくすごくほっとした。――病気のときに誰かがいるなんて、いったいどれくらいぶりだろう。

 そばにいて、いかないで、ねむるまでいっしょにいて、ねむってもそこにいて。――目覚めたら手の届くところに。風邪くらいじゃ死なないよ大丈夫、と自分で自分を笑っても弱った身体は心まで引きずって弱々しくなる。だって熱いし苦しいし、くらくらする。

 いいよ、そばにいるよ、と大きな手があたしの頭を撫でる。だいじょうぶだよ、と低く囁かれる声が耳をくすぐる。ふらふらと伸ばした手のひらを、きゅっとやさしく包み込まれる。


 ああ、すごく安心する。


 いつも風邪のときには怖い夢を見た。

 子どもの頃は――そう、突然エイリアンが襲って来たり、おばけに追いかけられていたり、なんていう今思えばくだらない内容のものばかりで。大きくなってからは友達全員に無視されるとか、真っ暗ななかひとりぼっちになるとか、そういうありえそうな夢で、それがとても怖かった。

 目を覚ましても一人で、夢の中でも一人で。

 ああ、ほら今もそうだ。

 ぽつん、と家に一人。あたし以外は誰もいない。でもおかしいな、家に一人なんていつものことだったのに。当たり前のはずだったのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。

 だって最近は、一人じゃなかったの。

「みどりくん?」

 気まぐれでわがままで甘えん坊な猫が、いたはずだ。

「あきは」

 声が聞こえる。

「みどりくん、どこ?」


 ――そばにいるよ?


 嘘だ、いないじゃない。隠れているんでしょう。出てきてよ。意地悪しないでよ。風邪のせいで子どものように駄々をこねる。

「あきは」

 頬を撫でる大きな手と、甘い声で目を覚ます。

 慣れた天井。見知った室内。微笑む翠くんが、そこにいる。片手には文庫本があって、机の上には盥とタオルが置かれていた。

「……なんでいるんでしょうか翠くん」

「なんでってひどくない? あきはがそばにいてってお願いしてきたのに」

 あれれ? それは夢の話じゃないんですかね?

 翠くんの手があたしの額に触れて、熱を測る。うん、とほっとしたように笑って手のひらがはなれていった。

「熱、下がったみたい。よかった」

「……ずっといてくれたの?」

「ん? だって寂しそうだったし。病人をほっとくわけにいかないでしょ」

 当然というようにあっさりと翠くんが言った。ベッドのすぐ隣の床に座って、翠くんはきょとんとした顔をしている。

「何か食べる? ゼリーか、アイスか……確かあったよね」

 すっと立ち上がったので、あたしは思わず翠くんの手をとった。驚いた表情の翠くんに、なにやってんだあたし、と自分でも思う。無意識だった。

「さみしい?」

 くすりと笑う翠くんに、素直にうん、と頷いた。風邪ひいているから。病人だから! だからこんな風に甘えても気の迷いだと誤魔化せるはずだ!


「――病人じゃなければなぁ」


 キスできるのに、なんて翠くんが残念そうに呟いたけれど。

 んん? 聞こえませんよそんなことは。

「……翠くん、ゼリーが食べたいです」

「さみしいんじゃないの?」

「食べたいです」

 照れ隠しに繰り返すと、翠くんはくすくすどうにか笑って一階へとおりていく。

 ……病人で良かった。危うくぱっくり食べられるところだった。



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