8:浮気チェックは大事です
……正直、あまりよく眠れなかった。
もちろん昨晩あれほどしっかり確認したから、あきはのことを疑っているわけではないし、あきはにも息抜きが必要だってことは分かっている。けれど彼女のいない家の中はなんだか寒々しく、もう随分と慣れたはずだと思っていたのにまるで一度も来たことのない場所のように感じて落ち着かなかった。
――今から帰るね。朝ごはんには間に合うかも。
いつもよりも一時間ほど早く目が覚めて、届いたあきはからの連絡に飛び上がる。ここから駅までは十五分ほど。既に着替えは済んでいる。あきはがもう電車に乗ったとすれば今から迎えに行けばちょうどいいくらいの時間だろう。
朝の空気はしっとりとしている。秋も深まり冬へ近づくこの季節、肌寒いくらいだ。駅前もまだ閑散としていて、ちらほらと人がいる程度。
出勤するサラリーマンのなかに、あきはを見つけた。
「あきは」
「翠くん!」
あきはは俺を見つけると驚いたように目を丸くして駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
俺を見上げてくる目は、どうしたの? 何かあったの? と疑問だらけのようだった。どうしてただ単純に迎えに来たんだって――あきはに早く会いたかっただけなんだって考えが浮かばないんだろうな。
「迎えにきた」
そんなことは思ってもみなかったって顔のあきはの手を掴んで歩き出す。
そりゃ俺とあきはの関係を問われれば、ただの同居人でしかない。たった一晩会えなかったことを寂しいと告げるような関係でもない――そこまで彼女は俺を意識していない。
「み、どりくん」
戸惑うあきはの声に、腕に力がこもった。小さな手首は折れそうなほど細い。
「手、手、痛いんだけど!」
あきはの声に、はっとして手の力が緩む。手加減もしないで力任せに腕を引いていたことに気づいて、情けなくなった。惚れた女に何やってんの、俺。
「ごめん……痛い?」
逃げられないように手は掴んだまま、そっと指先であきはの手を撫でる。掴んでいた手首は痣とかにはならなさそうで、少しほっとする。
「へい、き」
かすれたあきはの声は、戸惑っているようだった。
「よかった」
痛みがないのなら、よかった。……本当は、きっとまだ少しくらい痛むのかもしれないけど。微笑みながら玄関を開ける。
「すぐにごはん作るね」
あきはは靴を脱ぎながらそう告げて、キッチンに向かおうとする。その背を後ろから抱きしめて、捕えた。――確認しないと。
「あきは」
首筋に顔を埋める。髪から香ってくるのはいつものシャンプーの香りで、服からも煙草の香りはしない。くん、と匂いを確認していると、あきはが腕の中でもがき始めた。
「み、翠くん、離して! ごはん準備しなきゃ!」
離して、の理由がごはんを作らなきゃ――なんて、あきはらしいなと笑う。小さな背中にそっとキスを落としてから、あきはを解放した。
「ん、もういいよ」
とりあえず、確認は済んだ。にっこりと微笑むと、あきはは混乱してますって顔で頭の上に疑問符を浮かべているけれど、逃げるようにキッチンへと引っ込んだ。
「――煙草の臭いはなかったし、女友達のとこっていうのは本当か」
わかっていても確認したくなるのは男の性ってことで許してほしい。……いや、猫の本能かな?
その日、いつものように家に帰ると、和佳子さんがいた。何を隠そう、あきはの親でありこの家の主である。二十歳の娘がいるとは思えないほど若々しい。正直、昔から和佳子さんは苦手だ。生気を吸い取られそうな気がする。
上機嫌でお酒を飲む和佳子さんから逃げつつ、あきはが心配になって様子を見に行くと案の定あきはは酔い潰れていた。
「和佳子さん、飲ませすぎですよ」
和佳子さんはまだまだ余裕の表情でブランデーを飲んでいた。この人いったいどれだけ飲んだんだろう。
「自分の限界を知るのも勉強のうちよー? 外で酔い潰れて美味しくいただかれちゃったなんて笑えないもの」
まぁ、それは確かにそうだけど、教え方がかなり乱暴だよなぁ……。
「あきはちゃんねー。男運ないのか男を見る目がないのか、今までの彼氏って正直おかーさん的にはダメダメな人たちだったのよねぇ」
まて。まて。和佳子さん今、あきはの元カレのこと話してる!? しかもそれどんな男と付き合ってたんだよあきは!
「一人娘だしねぇ、やっぱりどうせならちゃぁんとした人とお付き合いしてほしいの」
「まぁ……そうでしょうね」
気持ちはわかる。こんな奔放そうな和佳子さんでも一人娘を大事にしているっていうのは伝わってきた。
ふふ、と和佳子さんは目を細める。
「――だからねぇ、翠くん」
ぞくり、と背筋が寒くなる。
「今までは別にどうでもいいけど、あきはちゃん口説こうっていうなら誠実にね?」
愛想笑いも凍りついた。
バレてる。完全にバレてる。俺があきはに惚れてるって。和佳子さんの前では猫を被って、おとなしくしていたのに。
「あら、脅かしすぎたかしら」
「……イイエ」
そりゃ俺みたいな男に釘を刺すのは当然だろう。
「ちゃあんと恋愛するつもりなら、別に何も言わないわよぉ? そこまで過保護にするつもりないし」
「ソウデスカ」
このプレッシャーのなかでこれ以上の返答ができるだろうか。いやできない。
くすくすと和佳子さんはおかしそうに笑っていた。
……生きた心地がしない。
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