3:慣れてきたら遠慮はしません

 同居生活の一日目が何事もなく無事に終わった。思いのほかぐっすりと眠っていたらしく、翌日目が覚めたときには、時計の針は朝の七時を示していた。いつもどおりの時間だ。日曜だからもう少し寝ていてもいいだろうか、と思いながらも冴えた頭でベッドからおりる。

 あきはが起きている気配はない。とりあえず顔を洗って着替えを済ませる。日曜日の朝は平日と同じニュースはやっていない。代わりに魔法少女みたいなアニメがやっていた。

 勝手に朝ごはんを食べていいものだろうか。家では家事をするのは母親一人で、キッチンは母親の城だった。迂闊に立ち入って食べ物を漁るとあとが面倒だった。

「そこらへん、確認しておけばよかったかな……」

 起きて三十分もすると、身体が空腹を訴えてきた。しばらくすれば起きてくるだろうかと耐えることさらに十分、俺はあきはの部屋の前にいる。

部屋の前で悩みさらに十分、コンコン、と控えめにノックしてみた。返事はない。

「……あきは?」

 扉の向こうへ声をかけてみる。返事はやはりない。相当ぐっすり寝ているらしい。

 部屋に入って起こすべきか、とドアノブを掴むとがちん、と機械的な音がした。鍵がかかっているらしい。年頃の女の人の部屋となれば当たり前なのかもしれない。

 だがこれでは彼女がいつまでたっても起きない。

 コンコン、と扉を叩く。声をかけるよりもそのほうが聞こえるだろう。

しばし扉を叩き続けると、部屋の中から「うー……」と眠たげな声が聞こえた。

「翠くん?」

 聞こえてきたあきはの声は、いつもより心なしか低い。そりゃあこんな起こされ方すれば誰しも不機嫌になるだろうな、と思いつつ、休日とはいえさすがにそろそろ起きた方がいいと思う。

「あきは、腹減った」

 あきはも言いたいことは多々あるだろうけど、そろそろ本気で俺が空腹で息絶えそう。男子高生の食欲を甘くみないでほしい。

「……あきは?」

 返事がないのでまさかまた寝たんだろうかと声をかける。だがすぐに扉の向こうからは返事があった。

「あー……ごめん、今起きた。着替えたらすぐにごはん作るから、ちょっと待ってて?」

 あきはには見えないとわかっているのに、ついついこくりと頷いた。

 はぁ、と息を吐き出しながら壁に背を預ける。考えてみれば、何もあきはを起こさなくてもコンビニにでも行けばよかったんじゃないだろうか。今更そんなことに気づいて、気まずくなる。でも、なぜだろうか。コンビニの弁当やパンを食べたいわけではないのだ。……なんとなく。

 かちゃ、と扉が開いて、まだ少し眠たそうなあきはが出てくる。

「おはよ」

 俺がいると思っていなかったんだろう。あきはは飛び上がるように「うひゃあ!?」と驚いて、俺を見上げてきた。化粧っけのない寝起きの顔は無防備で、年上であることを忘れかけるくらいに幼い。

「お、おはよう、ごめんね、すぐ作るね」

 できれば本当に早く作ってほしい、素直にこくりと頷きながらあきはのあとを追うように階段を下りる。その足が洗面所へと向いたのでさすがにそのあとまでついていくことはしない。



 顔を洗ってきたあきははセミロングの髪をひとつに結って、キッチンにあるエプロンをさっと身に着ける。あきはは冷蔵庫をあけると卵を取り出して、慣れた手つきで目玉焼きを作っている。片手で卵を割るとか、器用だなぁ、と眺めていた。

「翠くん、ごはんとパンどっちがいい?」

「どっちでもいい。あきはは?」

 出されたものに文句を言うつもりはない。……魚は別として。いや魚も嫌いというわけではないけど。

「あたしはいつもパン」

「じゃあパンでいいよ」

 作る側としては合わせたほうが楽だろう。何か手伝うべきだろうかとうろうろとしてみるが、あきはの手際の良さに俺が出る幕はなかった。あきははてきぱきと無駄なくトースターにパンをセットして、マーガリンやジャムをテーブルに運んでいく。

 目玉焼きにソーセージ、付け合せにはミニトマト。あっという間に見事な朝食が用意される。昨日から思っていたけど、あきはって家事すげぇ得意なんじゃないの……。家の中は掃除も行き届いている。綺麗すぎて居心地が悪いということもなく、しっかり人のぬくもりがある家だ。

 一枚目のトーストを食べ終わって、二枚目を手に取る。マーガリンを探していると、あきはが「レモンジャムがおすすめだよ」といくつかあるジャムのなかでおすすめを教えてくれたけれど、マーガリンを手に取る。真新しいものはあんまり好きじゃない。

「ごちそうさまでした」

「はい、おそまつさまでした」

 紅茶を飲みながらあきはがはにかんで笑う。食器を片づけて、いそいそと二階へ戻る。

 ……家事が得意なのも、考えてみれば当然だ。あきはのおじさんは、俺も顔を覚えていないような頃に亡くなっている。たぶんきっと、長いこと料理だって掃除だってやってきているんだろう。無邪気だった子どもの頃とは違って、生活するためには必要なことがあるんだって、嫌でもわかる。黙っていてごはんが出てくるわけでも、服が洗濯されるわけでもないのだ。

 部屋に戻ると、置きっぱなしにしていたスマホに着信があった。

「……兄貴かよ」

 面倒だから無視してしまおうかという誘惑にかられるが、それはそれであとからうるさい。せっかくの日曜だっていうのに暇なんだろうか社会人は。どうせ特に用事はないのだろうけれど折り返しかけなおすと、すぐに繋がった。

『よ、翠。おまえ休みだからって寝過ぎだろ』

「寝てたんじゃねぇよ」

 ただスマホを置き去りにしたままだっただけだ。家の中でまでスマホを携帯する理由はないだろう。

『で? 慣れた?』

 やっぱり、同居生活はどうなのかと探りを入れにきただけみたいだ。いや、面白がっているだけか。

「一晩で慣れるわけないじゃん」

『えー? でもあきはちゃん可愛いだろ?』

「それ関係ないし……」

 同居人が可愛ければ同居生活にも早く馴染むって? それはどう考えても漫画やアニメの見すぎだろう。

『可愛いってことは否定しないのね』

 くく、と向こうで笑う声に苛立って、思わず通話を切る。またすぐにかかってきた。うざい。

「暇人」

 苛立ちを隠さない不機嫌な声で電話に出ても、残念ながら実の兄なのでちっとも動じない。

『暇じゃねぇし。兄が弟を心配して何が悪い』

「面白がっているようにしか感じない」

『それもある』

 きっぱりと答えられたのでまた電話を切ろうとすると『まてまてまて』とあわてた声が聞こえた。

『一応ね、兄として言っておくけど。おまえさ、半端な覚悟であきはちゃんに手ぇ出すなよ?』

「……は?」

 生活に慣れたかどうかって話から、どうしてそんな話題に飛躍するのか。

『基本はおまえがどんなに遊んでよーがどうでもいいけど? あきはちゃんは俺にとっても妹分みたいなもんだし、親同士付き合いのある子なんだから。本気じゃないなら手を出すな口説くな触るな。オッケー?』

「俺が兄貴にどう思われているかはよく分かった」

 いやだって別に。そりゃ女子大生と同居ってどうなのと思ったけど、もともと下心はない。面倒なことにしかならないって、分かってるし。

「……言われなくても、分かってるよ」

 自分でもびっくりするほど声が小さかった。

『まぁ、本気ならいいけどね?』

 電話の向こうで笑う兄貴の声が、誘惑のように感じた。




 気分転換にコーヒーでも飲もうと一階へ降りると、あきはがリビングのソファにもたれてすやすやと眠っていた。

「……無防備すぎだろ……」

 いくら自分の家だとはいえ、一応ここに他人がいるんですけど。部屋の鍵をかけていたり用心深いようで、本当は少しぬけてるんじゃないかなあきはって。

「あきは」

 肩をゆすってみても、あきはは小さく唸るだけで起きる気配がない。そりゃまぁ、気持ちよく寝ていたところを朝ごはんのために起こした俺も悪いけど、寝るなら部屋で寝ろよ……。

 リビングにあるブランケットを持ってきて、あきはにそっとかける。ふわふわとしたそのブランケットは肌触りもよく、あきははブランケットを手繰り寄せて、気持ちよさそうに眠っている。その寝顔をじっと観察しながら、あきはの隣に座った。コーヒーは用意することすら忘れていた。

 テレビからは土日の昼間によくやっているような旅番組が流れている。身体の右側だけが、ほんのりとあきはの体温をこちらに伝えてきてあたたかい。

 一緒にいても気を遣わなくていい女性、というのはなかなかいない。母親くらいだろうか。俺が何もしなくても、向こうが緊張していることが多くて、その緊張は俺にも伝わってくるのだ。

 あきはにはそういう壁はない。昨日会ったときからずっと自然体だ。だからだろうか、俺も傍にいても居心地が悪いということはない。むしろ、今感じている体温が心地いいくらいで――。

 うと、と瞼が重くなる。

 ああ寝るなら二階に行かないと。

 そう思いながら、俺は瞼を閉じて誘われるがままに眠りについた。

 ――『可愛いってことは否定しないのね』ついさきほどの電話で兄が言っていた声が、夢現のなかでもう一度聞こえた気がした。



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