10:飼い主は猫のものなんです
ここ最近の翠くんをたとえるなら、狩りモードだ。あれだ、猫が獲物を見つけてかまえている感じというか既に襲いかかってきているというか。
獲物があたしっぽいっていうところが、なんていうかたいへん困る。
――逃げられそうになくて、困る。
講義を終えてとことこと帰る。大学の門を越えたところで、女子大生がきゃっきゃっと集まっていた。なんだなんだ、なんかあったのか。他大学の男がナンパにでも来てんのか。
「あ、あきは」
聞き慣れた声に足が止まる。あー振り返りたくないなー。このまま気づかなかったふりして帰っちゃおうかなー。いやでもつい止まっちゃったからそれは無理かなー。
頭の中で回避するための作戦を考えていると、背後では「それじゃあ、おねえさんがたまたねー」と愛想のいい声が聞こえる。ああ、そうですか、囲まれていたのはナンパ男じゃなかったんですねー。はは。
「あきはっ」
うれしそうな声と同時に、後ろから抱きしめられる。ふわりと香る翠くんの匂いに、あたしは頭が痛くなる。きゃあと黄色い声が聞こえるんですけどー。
「翠くん、どうしたの大学まで」
「えーと、下見もかねてあきはを待ってた?」
おまえはいつから忠犬ハチ公になったんだよ。翠くん、君は猫のはずでしょう。
「ね、目立つからやめて」
腕をぺしぺし叩きながら訴えると「んー」少し考えるような声がする。こら人の頭に顎のせるな。
「まぁいいかな、マーキングはできたみたいだし」
「は? なに?」
マーなんたらって聞こえたけど覚えのない言葉で全部理解できなかった。翠くんはあたしを解放して隣に並ぶと「なんでもないよ」と笑った。 そしてさりげなくあたしの鞄をとって、手をつなぐ。あのーしかもこれ恋人つなぎってやつですよね。前に出かけたときは普通につないでいたと思うんですけど。
ていうか、もう、視線が痛くてしかたない。刺さる刺さる。
「あれ? 下見って翠くんは東京の大学行くんじゃないの?」
「大学入ったら一人暮らしって考えていたけど、東京の大学かどうかはまだ迷ってる。あっちは物価高いし」
この大学には前から興味あったし、と翠くんが言う。まぁ国立大だからちょっとボロいところもあるけど、設備は整ってるしね。翠くんは成績良さそうだからさくっと受かっちゃうんじゃないかな。
ふぅん、もしうちの大学に入るなら、何も一人暮らしじゃなくたってうちの家から通えばいいんじゃない。だってそのほうが一緒にいられるし――って何考えてんだあたし!
「そ、そっか」
翠くんとの同居生活もかれこれ四ヵ月を過ぎようとしている。最初はまったく懐いてこなかったけど、それも二週間すればだんだんと甘えてくるようになって、今じゃこれだ。
なんだかんだでそれを許しているあたしも、翠くんに甘えられることも翠くんの体温も匂いも、当たり前のように感じているけど。
来年には翠くんは高校三年生になって、大学受験して、そしたら――うちからいなくなるんじゃないの。
「あきは? どうかした?」
もう次で降りるよ、と気がつけば電車に乗っていた。つないだ手はずっとそのまま。うわ、恥ずかしい。どこのバカップルだよ。
「なんでもないよ」
と言いながら手を離そうとしたけど、翠くんはにーっこりと笑って離さない。いや、ほら、混んでいない電車内とはいえ、これはちょっと、あちこちから「いちゃいちゃしやがってあいつら」みたいな感じで見られてません? 気のせいですか?
電車から降りて改札を通る隙に手を離したのに、改札を抜けてからまた翠くんに捕まる。もーなんでこんなに翠くんは狩りモードなの攻めモードなのー!
ここまでくればいくらなんでも気づくよ。獲物にされてるのはあたしだ。翠くんは泥酔事件以降、たびたびこうして攻めてくる。そのわりに肝心なことは言わない。まるであたしに言わせようとしているみたいだ。
真っ赤になっているあたしを見てにこにこしているんだから、こっちの気持ちだってもうわかってるんでしょうが!
少し歩けばすぐに家に着く。翠くんは合い鍵で鍵を開け、がちゃりと馴れた仕草で玄関を開けた。手は当然つないだままなので、あたしも続いて家に入る。
「おかえり」
先に家に入ったからだろうか、翠くんがあたしに向かって言う。
「はいはい、ただいま。翠くん、いいかげんに手――」
離して、と言いかけて言葉が詰まる。つないだまま持ち上げられた手の甲に、翠くんが意地悪な笑みを浮かべたままキスをした。やわらかな唇の感触を認識した途端に、身体中の血液が沸騰したみたいに熱くなる。
「み、み、みどりく」
「で、どこまでだったら猫としてオッケーしてくれるの?」
「は、はひ!? うひゃっ」
キスしたまま、今度はぺろりと手の甲を舐めやがった!
「な、なに言ってんの!?」
逃げたいけれど背後は玄関の扉で、手は握られたままだ。しまった退路がない!
「あきはが言ってたんだよ。俺は猫みたいなもんだって」
「いいいいいいいつ!?」
「泥酔して俺と一緒に寝たとき」
あの時か! 酔っぱらいのいうことを信じちゃだめだよ翠くん!
「まぁその前からくっついてみても平然としてたし、年下だから警戒されてないのかなとは思ってたけど」
うわぁ図星! そのころは確かに警戒してなかったし甘えてくれるようになったんだってくらいにしか考えてなかったけど!
じりじりと距離を詰められて、あたしはひゅっと息を呑んだ。美形ずるい。ついつい見とれそうになって隙をつかれる。
「このままキスしちゃっても猫としてオッケー?」
「いやいや猫とちゅーはしないから!」
「する人いると思うよ?」
「そうかもしれないけど! そもそも翠くんは猫じゃないでしょ!」
つないでいた手は離れたけど、玄関を背にしたあたしを閉じこめるように翠くんが立ちふさがる。
「じゃあなんで家までずっと手ぇつないじゃってんの? こんな状況になるまで油断しちゃってんの? 俺じゃなかったら泥酔したときに食べられてるからね?」
それについては弁解の余地もございませんが!
ああもうそんなのわかれよ! あたしはそんなに尻軽な女じゃないんですけど!?
そりゃ彼氏だっていたことありますけど、それは一応きちんとした順序を踏んでつきあったんですよ。順序を守ろうとしすぎて浮気されたし依然として清らかな身なんですよ! 軽いノリでつきあおっかなんてなったことは一度たりともないんですよ。何故か悪い男にばっかりひっかかってはいますけど!
落ちるのは怖いよ。しかも今回のは絶対に落っこちたら這い上がってこれないくらい深そうなんだよ。でもしかたないじゃない。落ちたんだもん。気づいたらもう真っ逆様に落ちていたんだもん!
「翠くんが好きだからに決まってるでしょう!」
ああくそ完全に負けじゃん。ただでさえ掌の上で転がされている感じだったのに、先に白状してしまったあたしの完敗じゃない。悔しいから言わせたかったのに。そんな駆け引きうまくいくわけないって思っても、正直甘い告白をちょっぴり期待したりはしていたんですよ。
逆ギレ気味に告白とか、ムードも全然ないし。うわぁ、もうなんか泣きたいぞ。
――ていうかあれ、無反応ですか翠くん? 至近距離の彼を見るのは自殺行為な気もするんだけど、何も言われないと、あれ何もかもあたしの勘違い? もしかしてただキレていただけであたしのことなんてなんとも思ってない?
「みどりく」
間近にある翠くんの顔は、真っ赤だ。
「や、えっと、ちょっとタイム」
いやごめんばっちり見ちゃった。顔を逸らしても耳やら首まで真っ赤だよ翠くん。
「翠くん、お返事いただけるとうれしいんですけど」
「あきは、ちょっとそれずるい」
顔を真っ赤にしたまま翠くんがじろりと睨んでくる。ふふん、そんな顔しても怖くないもんね!
しゃがみこんだ翠くんが「あーもー」と唸っているけど気にしない。
「翠くんかわいい」
「それうれしくない」
かわいいんだからしょうがないじゃない。翠くんと目線を合わせるようにあたしもしゃがみこんで翠くんの顔をのぞき込む。だってほら、まだ頬が赤いんだもん。
「あきは、楽しんでるでしょ」
ふてくされたような声にそりゃもちろん、と答えようとして、腕を掴まれ抱き寄せられる。あ、しまった油断した。猫は肉食動物だった。
そう思ったときには遅い。大きな掌があたしの頭をしっかりと固定して、噛みつくんじゃないかって勢いでキスされる。
「猫にはちゅーしないけど、彼氏ならいいでしょ?」
好きも愛してるも言ってくれないのに、何を勝手に猫から彼氏に昇進してるの!
ああ、でも何も言い返せないあたり、あたしはやっぱり翠くんには勝てないなぁ。
あたしのかわいい、わがままで意地っ張りで不器用な、猫みたいな恋人くん。
悔しいからときどきはあたしも勝たせてよね。
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