4:家の外では無視されます
翠くんとの同居生活が始まってからというもの、あたしの朝はいつもノック攻撃から始まる。そんな生活も、早いもので一ヶ月が経とうとしていた。
「あきは。あーきーはー」
もちろんしっかり鍵はかけております。翠くんからはそういうシタゴコロは感じないけれども、男は狼といいますから。けどまぁ、なんていうかね。
がちゃりとドアを開けると、翠くんは素知らぬ顔をしてあたしの部屋の前で待っている。待ってません、たまたまいたんですって顔をして。んなわけねぇだろうが。
「おはよう」
「おはよ」
挨拶すれば律儀に返してくる。寝起きのまま階段を下りるあたしのあとをついてくる翠くんは、狼さんというよりも、猫だ。警戒心の強い野良猫からべたべたな家猫にシフトチェンジだ。
もう寝起きのぼさぼさの髪でも気にしない。パジャマ姿? ええそれはとっくにどうでもよくなってますとも。だって相手は猫だから。
キッチンに立つあたしの傍で待ちながら、最近は少し手伝ってくれたりもする。口数が少ないのかと思っていたけれど、それはただ慣れていなかっただけで、近頃はちょっとうるさいくらい。
スクランブルエッグとサラダ、それにトーストを用意する。あたし今日はこんなに早く起きなくてもいいのになー。三限目からだもん。高校生の翠くんの朝食を準備するとなると自然と早起きになるよね。翠くんのほうが先に起きているけどね。
おかげさまで規則正しい生活ができていますよ。面倒で抜いていたりした朝食も翠くんと合わせて食べているし。三食きちんと食べて早起きするのって身体にいいのねぇ。肌の調子もよかったりするもんだからびっくりだわ、とここらへんはついに十代を卒業した女子だからこそだな。くっそー。
「あ、そうだ翠くん」
「なに」
翠くんの高校はグレーのブレザーに紺のチェックのズボン、ネクタイの色は学年で違うらしく、翠くんはなんの偶然か緑だ。うん、高校生のブレザー姿がかっこいいと思う日がくるとはあたしも思わなかったよ。あたし、年下は興味なかったし。
「今日、あたし六限目まであるんだ。帰りちょっと遅くなるから」
六限目の終わりはだいたい六時過ぎ。そのあとに買い物して作るとなるといつもより夕食は遅くなる。
「なんで? あきは六限目までいれてないよね?」
いつの間にあたしの時間割を把握したんですか翠くん。確かにあたしは朝早いのも夕方過ぎまで遅くなるのも嫌だから見事に回避して講義を組んだけど。それももう一年じゃないからできることだよね。一年のうちに頑張っておくとだいぶ楽になる。過去のあたしグッジョブ。
「振り替え授業のせいでねー。この間教授が出張でいなくて休講になったんだよねぇ」
「ふーん」
興味なさげに答えているけれど、まぁとりあえず内容を忘れていないなら大丈夫だろう。忘れたところで合い鍵は持っているんだし、翠くんが困ることといったら夕飯の時間が少し遅くなるってだけだけど。でもそのくらいは高校生なんだからどうとでもなるだろう。
「ごめんね?」
と、一応謝っておくけど、翠くんは「別にいいよ」と素っ気なく答える。
「それなら、俺も遊んでくるし。適当に買い食いでもして夕飯まで我慢するし」
「友達とごはん食べてきてもいいよ?」
というか、もっと友達と遊んできていいんですけど。高校生男子ならあちこち遊んでファミレスで騒いだり友達の家で徹夜でゲームとかあるんじゃないの? もちろん合コンとかさ、翠くんはイケメンだからよく誘われているんじゃないのかい。この一カ月のリサーチの結果、どうやら彼女はいないらしいし。
「うちに帰ればうまい飯が待ってんのにわざわざ外で食って帰るとか意味わかんない。空腹凌ぎなら別だけど」
さらりとそう告げて、翠くんは「ごちそうさま」と食器を下げる。
そして翠くんはいつもそのまま「いってきます」と家から出て行った。時間差でじわじわと頬が赤くなっていくのが分かる。
さりげなくうれしいこと言ってくれるじゃないか高校生! もう! しかたないから今日はいいお肉でごはんにするよ!
講義が終わって外へ出ると、もうすっかり真っ暗だった。夏も終わって季節はすっかり秋である。この時間帯になると少し肌寒いくらいだ。自宅から通える範囲の大学とはいえ、今から電車に乗ってそれから買い物してって考えるとやっぱりちょっとうんざりするんだよね。だからこの時間の講義はいやなんだよ。
翠くんはもう家に帰ったかな? それともまだ友達と一緒に遊んでるかな? なんだかんだで翠くんがいることに慣れつつある自分に少し驚きながら、いつもよりも足早に帰る。一人だった頃ならめんどくさいからと外食するか、お弁当を買って帰っていただろう。
この時間だとまだ遊び歩いている高校生はたくさんいる。もう少し遅くなるとおまわりさんが目を光らせるんだろうけどね。視界の端にグレーのブレザーが入って、つい目で追いかけてしまうことに気づいてなんだかこそばゆい。あれだ、飼い猫の様子が気になるだけだ。うん。
「――彦坂くんってさぁ、最近付き合い悪いよねぇ?」
いかにも猫なで声、といった感じの声だった。しかしあたしはそれよりも先に、彦坂という名前に反応して思わず振り返る。
グレーのブレザーの制服を着た高校生が五人。うち女の子は二人いた。中心には、あたしのよく知る翠くんがいる。
「彦坂は気まぐれだからさ」
「そーそー」
「るせぇよ」
男の子たちが翠くんの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、翠くんは鬱陶しそうにその手を払いのけた。翠くんにぴったりとくっついている女の子が楽しげにきゃはは、と笑う。
あー……ほら、やっぱり翠くんはモテモテですよねぇ。その子はちょっとお化粧濃い気がしますけど、ええ、まぁ、その、かわいいんじゃないでしょうか。おねえさん的にはもうちょっと清楚で賢そうな子のほうが翠くんには似合うと思いますけどね。
つい立ち止まって見つめていると、一番最初に気づいたのは翠くんだった。しっかりばっちり目が合う。
ここは声をかけるべきだろうか。でも翠くんが彼らにあたしと一緒に暮らしていると言っているとは限らない。どうしようか、と固まっていると――
「彦坂くん、どうかした?」
じっとあたしを見ていた翠くんに、隣の女の子が気づく。視線をたどるように、女の子があたしを見つけて睨んだ。なぁに、あの人。唇がそう告げるよりも早く、翠くんがあたしから目をそらす。
「別に」
お得意のセリフを聞いて、あたしも金縛りがとける。ぱっと目線をそらして、あたしは何食わぬ顔でスマホを取り出した。うわ、しかも着信あったみたいだ。慌ててかけ直す。
「もしもし、ごめん、電話に気づかなくて」
相手はなんてことない、大学の友達だ。でもわざわざ電話ってことは急ぎの用だったんじゃないだろうか。
『ううん、こっちこそごめんねー。あのさ、明日の講義なんだけど、前回のノート貸してくんない? 風邪ひいて休んだからさ』
「ああ、なんだ。いいよ。持って行くね」
『ありがとー』
そんな会話をしているあたしの横を、翠くんとその友達たちが通り過ぎる。ちくりと刺さる視線は女の子のものだろう。
「じゃあ、また明日ね」
電話を切ると、もう既に翠くんは雑踏のなかに消えていた。
なんだよ翠くん、あたしにわりと懐いているくせに、家の外であったら他人のふりですか。そうですか。別にいいですけど? そりゃ年上のお姉さまと一緒に住んでいるなんて言えないでしょうしね! 別に! なんとも思っちゃいませんけど!?
けど、今日の夕飯は魚に変更だ!
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