3:安心できるスペースが必要です

 翠くんとの同居生活がはじまって、一夜が明けた。

 日曜日というとあたしは惰眠を貪るためのすばらしき一日なので、もちろん日アサのアニメもなんたらライダーも見ない。その時間は夢の中です。

 しかしコンコン、という鳴り止まないノックの音が目覚まし時計となってあたしは朝八時に目が覚めた。それでも遅いくらいだって? 女子大生をなめんなよ、一限目はスルーして講義を組んでますからね! 朝寝坊万歳!

 ――とまぁ現実逃避している間も、コンコンとうるさいくらいに扉が叩かれる。なんだよもう! しつこいな! 我が家にいるのはあたしの他にはただ一人。まさか母さんが帰ってきたということはないだろうし、あの人だともっと容赦なくどんどんと叩いて「あーきーはーちゃーん!」と騒いでいるに決まっている。

 欠伸を噛み殺すと、我ながら少し不機嫌そうな声が出た。

「翠くん?」

 あたしの声に、ぴたりとノックの音は止む。

「あきは、腹減った」

 おいこら呼び捨てか年下。

 あたしは君より三つ上なんですけどねって文句を言いたくなったけども、仕方ない。翠くんは昔から呼び捨てだった。

 ノックで起こそうという行動は、おそらくあたしが部屋に鍵をかけているからだろう。だってほら、血迷った高校男子に襲われないとも限らないからさ。自意識過剰だって分かってるけども。翠くんならこんなちんちくりんを相手にしなくてもよりどりみどりですよねー。

「あきは?」

 低音ボイスで名前を呼ばれるとちょっとぞくっとしますね、はい。それは寝起きで寝ぼけているからですね。まったく顔も良くて美声ってどうなのか。神様は不公平だ。

「あー……ごめん、今起きた。着替えたらすぐにごはん作るから、ちょっと待ってて?」

 さすがに髪はぼさぼさだし、パジャマだし。このまますぐに顔を出すのは抵抗あるんですよ。まぁ、そんなのも今のうちだけかもしれませんけどね。パジャマ姿は昨日既に寝る前に見られてますしね。すっぴんとかは同居生活が決まったときに諦めてます。家の中でまでがっつりメイクして生活なんてめんどいししんどいって。

 ノック攻撃は止んで声もしないので、翠くんは一階に下りたのだろう。さっと櫛で髪を整えて着替える。あとは顔だけ洗ってさっさとごはんにしよう。あー、何を作ろうかなぁ、冷蔵庫に何があったかなぁ、と考えながらドアを開ける。

「おはよ」

 真横からかけられた言葉に、あたしはうひゃあと驚いた。いいい、いたのか! 気配なかったよ!?

「お、おはよう、ごめんね、すぐ作るね」

 翠くんはこくりと頷いてあたしのあとをついてくる。こらこら、あたしはキッチンより先に洗面所に行くんだよ。ついて来られても困るんだよ。




 さて。腹を空かせた翠くんのために手早く作れる朝食を準備せねばなるまい。結果あたしが選んだのは王道の目玉焼きだった。手抜きだなんて文句は受け付けない。

「翠くん、ごはんとパンどっちがいい?」

 ちなみにあたしは朝はパン派なんだけど、育ち盛りにパンは物足りないかな? と思って一応ごはんは炊いてある。

「どっちでもいい。あきはは?」

「あたしはいつもパン」

「じゃあパンでいいよ」

 はいはいそうですか、とあたしはトースターにパンをセットする。とりあえずマーガリンとジャムをテーブルに置いておきますよ。

 作っている間、翠くんはただ待つだけかと思いきやうろうろとあたしの周りとうろついている。落ち着きがないなぁ、と思いながらも邪魔にならない程度の範囲なのでほっとくことにした。手伝いを申し出てくるわけでもないので、よほどお腹が空いているんだろう。小さな子どもみたいだ。

 行儀よくいただきます、と言ってから翠くんはもぐもぐと食べ始める。随分待たせてしまったのか、それとももともとなのか、食べるペースが早い。二枚目も焼いているけど、その前に一枚目のトーストを食べ終わっちゃうんじゃないかしら。

 あたしは自分のペースでゆっくり食べつつ、二枚目のトーストを手にした翠くんが一瞬何を塗ろうかと迷ったようだった。

「レモンのジャムおすすめだよ」

 ジャムは何種類かを常備している。翠くんはむ、と悩むような顔をしたけれど、すぐにマーガリンを手に取った。おいしいのに、といくらあたしが勧めても翠くんは頑ななまでにマーガリン一択。保守派というか食わず嫌いなだけかな。

「ごちそうさまでした」

 食べ終わったときの挨拶は欠かさない。真面目なのかなとも思うけれどなかなか掴めない子だ。少なくとも、昔の翠くんはそんなに真面目くんではなかったはず。

 遊びに没頭すると周りが見えなくなって怪我をするような、そんな子だった。たとえばそう、木登りでどこまで上れるだろうなんてどんどん上まで行って、気づけばびっくりするくらい上に行っていて。竦む足でおそるおそる下りながら滑って落っこちたことがあったっけ。あのときはあちこち打撲して擦り傷だらけになっただけだったけど、運が悪いと骨折してるよ。

 しかし我が家にやってきた翠くんは、まぁひきこもりなのを抜かせば実にいい子ちゃんだ。こんな子だったっけ? と首を傾げるけれど、まぁ数年会っていなかったあたしに判断できるわけないのよね。

 朝食を食べ終わると翠くんは何も言わずに部屋に戻る。ううむ、まぁ家に居づらくて一日中外を出歩いているというよりはいいのかな? 少なくとも部屋ではくつろいでいるってことでいいんだよね?

 テレビの前のソファに移動して、日曜の午前中のつまらない番組をぼんやりと見ていると、睡魔がやってくる。ああ、ねむい。そりゃそうだ、いつも一人の休日なら昼まで寝てるもの。そのうえしっかりとごはんを食べたから胃が満たされてて余計に眠気を増幅させる。

 ソファにもたれながらあたしは素直に目を閉じた。人間、欲望には忠実であるべきだよ、うん。




 んぐぐ、なんか左肩というか左側が重くてあったかい。

 やわらかな眠りからじわりじわりと覚醒していくなかで、なんだか左半分からの圧力で身動きがとれない。え、なにこれ金縛りってやつかな?

「ふへ?」

 ようやく目を開けたところで、あたしは現状を把握できずに何度も瞬きを繰り返した。

 とりあえず、あたしにはなぜか毛布がかけられていた。おそらくというか絶対、寝ているあたしを見つけた翠くんがかけてくれたんだろう。

 そしてそのあたしの左肩にもたれて、翠くんが寝ている。翠くんやい、お部屋に戻らなくていいのかな? なんでここで寝てるの? うわ、近くて見るとやっぱり綺麗な顔してるわ。髪は綺麗な黒、いわゆる緑の黒髪ってやつですね。翠くんだけにね。うん、あたし混乱している。

「――ん」

 薄い唇から色っぽい声が漏れる。おいなんだの色気。高校生男子、それあたしにわけてください。うん、まだ混乱している。何がどうしてこうなった。

 長い睫がふるりと震えて、翠くんが目を覚ます。

「え、えーと……お、おはよう?」

 寝ぼけた目があたしをとらえる。うん、おはようだよ翠くん。時間的にはむしろこんにちはで、そろそろお昼ごはんの準備をする感じですけど。

 しかし翠くんはゆるゆると開いたはずの目をまたゆっくり閉じて、今度はあたしの膝にころんと寝てしまった。ちょい、ちょい待ってくれ。また寝るんかい!

 すやすやと気持ちよさそうに人の膝の上で寝始めた翠くんを見下ろして、あたしはため息を吐き出す。つんつん、と頬をつついてもまったく起きる気配はない。無防備なその寝顔を見下ろしながら、あたしはどうしたもんかと天井を仰いだ。


 うん、あれだ。

 たぶん懐かれたんじゃないかな、これ。



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