第32話 狩りを終えて

 PHC社長マモンが死んだその日から、世界の在り方は百八十度様変わりした。

 世界各国はこの世に潜む有象無象の敵について発表。人間同士で争っている場合ではないというその声明は、現在起きている様々な戦争や闘争、意見のぶつけ合いを中断させた。

 世界から、戦争の音が消え、平和が訪れた。しかし、それは一時的なことだと世界中の人間が知っている。

 遥か昔、太古の狩猟時代。人々が狩りをしていた時代は戦争や略奪などは滅多に起きなかった。そう、滅多にである。多少なりとも争いは起きたのだ。武器を使い、知恵を回すことができる人間である限り、この世から争いが絶えることはない。

 とはいえ、世界は平和になった。人対人という意味では、静寂が訪れた。

 朱里の前にも、静かな光景が広がっている。誰もいない公園のベンチに朱里は座っていた。


「終わった……」


 朱里は終わりを確信し、安堵の息を吐きながら呟いた。

 世界はどうだか知らないが、朱里の狩りは終了した。マモンを倒して気絶した朱里は、エクソシストと日本政府によって救出され、現在鋭意対応審議中と言い渡されている。

 だから、よく弟と遊んだ思い出のある公園に足を運んだ。近くに家はあるが、朱里は我が家を帰るべき場所とは定めていない。


(マモンは倒した。でも悪魔はまだこの世にたくさんいる。リリンのように、私をつけ狙う奴が存在するかもしれない……)


 そう思って、朱里からは家族と接触する気が失せている。自分が家族に逢って幸せになる確率と自分の怪物のせいで家族が不幸せになる確率。この二つを吟味して、後者の方が高いと結論が出た。

 ゆえに、朱里は逢わない。それに家族だって困るはずだ。自分そっくりの優しい偽者が既にいるのに、片腕と片眼を喪い、性格すら変わってしまった自分が現われても戸惑うだろう。

 血塗れた本物と、多少の齟齬は見られるものの本人そっくりな偽者。朱里は、高宮家の朱里という立場を偽者に譲り渡すつもりでいた。

 その方がいい。そうすれば、家族はずっと幸せのままだ。PHC対策チームのエージェントは、朱里の功績を立てて、家族を援助すると約束してくれた。人伝に聞いた話では、父親の病院に近い一軒家に引っ越すという。さらに幸いなことに、流出したPHCの医療技術のおかげで父親の病状は回復傾向にあるらしい。


(安心、した。これで私はもう必要ない……)


 心の底からホッとして、ふと左眼で周囲の景色を意識する。朱里の前にある砂場。そこで弟が砂遊びをしている。そこに年甲斐もなく混ざる朱里。

 もちろん、これは記憶であり、思い出だ。実際には公園内に人は朱里しか存在しない。政府の奇天烈とも取れる発表に、国民たちは全員判断を迷っており、家の中で閉じこもって議論を交わしている。

 それもそうだ。いきなり、世界には魔獣が存在しています、なんていう内容を信じられるはずがない。PHCという一つの会社が世界の命運を握っていました、などというバカげた説明も。

 弟たちの幻は移動して、今度は鉄棒で逆上がりをしている。朱里は弟を支えて、何度も練習に付き合っていた。章久はなかなか逆上がりが成功せずに意固地になっている。


「クラスメイトに目撃されて茶化されたっけ……懐かしいな」


 まるで遥か昔の出来事のように感じる。まだ一年と経っていないはずなのに、朱里は様々なことを経験した。そのほとんどが望まないものだったが……決して無駄ではなかった。結果だけを見れば、マモンを殺し、家族を救えたのだから。

 たくさんの人が、朱里の前で死んでいった。だからと言って悲劇のヒロインぶる気はないし、自分が原因だと思える死にも直面している。

 そろそろ泣いてもいいはずなのだが……なぜだか、朱里の眼からは涙が零れない。右眼はともかく、左眼からは涙が溢れてもおかしくないのだが。


「ああ、そっか。わかってるんだ」


 朱里の心は気付いている。朱里の思惑を知っている。朱里がこれから何をするかを把握しているから、朱里に涙を流させない。

 理性も感情も、ひっくるめての判断だった。同意しない人間は多いだろうが、朱里の心も身体も、自分の行動を支持している。必要なことだとわかっているのだ。


「常場、さん」


 初めて敬うように自分を殺そうとした男の名を呟いて、横に置いてある携帯と、オイルライター、そして、対人拳銃カットスロウトに目を落とす。

 使うから、持ってきた。これが朱里の知り得る最善のやり方だ。小城ならば止めたかもしれないが、彼はもういない。


「私が家族と接触しなくても、家族に危害を加える奴がいるかもしれない。でも、それはあくまで私が生きていればの話」


 敵は多く、不滅だ。朱里が倒せた悪魔はマモンとリリンの二人だけ。マモンがゲートを支配していたと言ったが、それらしいものをエクソシストもエージェントも発見できていない。むしろ、マモンが死んだことで、制限されていた入り口がより広がってしまうかもしれないという見立てをチャーチは出していた。

 しかし、それは後退ではなく前進だ、とチャーチは自信満々に言っている。悪魔に影から操られる時代は終わり、人が人の足で立って進む時代だと。


「怪物が死ねば、怪物の家族にちょっかいを出す奴はいなくなる」


 朱里は怪物であると同時に狩人だ。狩人なら、邪悪で醜い怪物を成敗しなければならない。

 朱里の最後の狩りの対象は、他ならぬ自分。悪魔を狩れる怪物だ。


「シルフィ、キリカ、ネフィリム……。教えて。あの世ってあるの? はは、悪魔がいるんだから可能性は高いか……だったらさ、付き合ってよ。やりたいこと、いっぱいあるからさ」


 死者たちに願い事を口にする。自分を庇って死んでいった者たちに。

 彼女たちなら、死んでいった後も朱里を助けてくれるだろう。友達なのだから。期間こそ短いが、死線を共にした仲間なのだから。

 あの世でいっしょに色んなことをするのだ。できなかったこと、したかったこと、たくさんのことを。


「しんみりは私に似合わない、か」


 寂しそうに朱里は笑みを作る。ここで死んでも、家族の目につく前にエージェントが片を付けてくれるはずだった。なぜわざわざこの公園を死に場所に選んだのかは、気の迷い以上の答えを持ち合わせていない。

 朱里は息を吐いて意を決し、最後の狩りに挑んだ。左手で脇に置いてある拳銃を握る。セーフティを忘れずに解除し、器用に片手でスライドを引く。銃杷をしっかりと握り絞めて、左側頭部に突きつける。


「戯れは、終い」


 無人の公園内に、銃声がこだました。



 ※※※



 ピンポーンと来客を知らせるチャイムが鳴った。


「はーい、今行きまーす」


 洗濯物を畳んでいた朱里は、弟のシャツを畳んで部屋を出る。部屋に置かれる衣服は全て丁寧に畳まれている。部屋も綺麗できちんと掃除され整理整頓済みだ。以前の朱里以上に。母親は、突然向上した朱里の家事スキルに目を丸くして、まるで生まれ変わったようね、などと感想を漏らしていた。

 ――本当に生まれ変わったとは露知らず。


「どちら様――」

「おめでとうございまーす!」


 見ず知らずの相手に突然、祝福された。玄関の前には、赤い髪の少女が何やら巨大な箱を運んできている。


「あなた……誰ですか?」


 若干引きながら、朱里は訊ねる。少女は幸せを運ぶ料理人です! などと不審な言葉を胸を張って言う。


「やれやれ、ウヴァル。そんな風ではドン引きされるよ。壁ドンされちゃうよ」

「ヴィネ先輩の現代知識はためになりますね」


 横から別の少女が声を掛けた。青い髪の少女が笑いながら呆れている。

 間違った知識を披露する青髪と、それに同意する赤髪。お引き取り願うべきか真剣に朱里が悩んでいると、どうしたの? と部屋で遊んでいたはずの弟がやってきた。


「おや、朱里の弟さんですね、こんにちは」

「こんにちは」


 章久ははにかみながら挨拶する。朱里は弟を部屋へと戻し玄関の外に出た。そして、見覚えのある人物を発見し戦慄する。


「ちゃ、チャーチ……! っていうことは……」

「察しが良くて助かる」


 チャーチはスーツ姿で通路に立っていた。護衛はいない。青と赤の髪を持つ少女だけだ。しかし、外見で油断できないということを朱里はよく知っている。人のカタチをした化け物は、この世に数えきれないほどいる。


「……っ、家族に手は出させない」

「自分の身でなく家族の身を案じるか。オリジナルの性格を余すところなく引き継いでいるようだな」

「発表を見たわ。私を処分する気でしょ」


 PHC崩壊のニュースはテレビで大々的に報道された。朱里も章久と一緒に閲覧していてショックを受けたのを覚えている。

 朱里の家族的にはPHCが崩壊した事実はプラスに働く。しかし、朱里当人にとっては死活問題だった。

 自分の存在が抹消される。その恐怖に怯えながら生活を続けていた。だが、実際に処理人がやってくると、家族に対する想いの方が強い。――もし、自分が消されても、家族が幸せならそれでいい。


「どうでしょうかね。朱里はあなたに家族を任せるつもりのようですし」

「は? そんなわけない。だって、アイツは私を殺そうとしたのよ」


 当時は恨んだが、自分が逆の立場だったらそうしたとして、朱里はもう何とも思っていない。というより、彼女が直接現れるとばかり思っていた。そのため、朱里の疑念は晴れない。なぜチャーチなのか? この人たちは一体誰だ? なぜおめでとうなどという言葉が出たのか?


「だからこそ、なのかもしれません。自分はどう足掻いても怪物で、家族の元にはいられないと判断したのでしょう」

「……自分が幸せになるより家族が幸せになる方を選んだってこと?」


 ヴィネ先輩、と呼ばれた少女に朱里は訊く。

 いくら本物とは言え、彼女が何の前触れもなく高宮家に現れたら、家族は間違いなくショックを受ける。優しい人間ばかりだから、仕方ない、過ぎたことだと言っても悔恨することは確実だ。そんな風に家族を傷付けるならば、家族に逢わない方がいい、とオリジナルは判断したのだろう。

 朱里もその気持ちは理解できる。自分の保身、という部分を度外視にして。逆の立場ならそうしただろうと。


「だから、祝福を? とんだ皮肉ね」

「ふふ、朱里さんそっくりですね。だからぼっちなのです」

「ぼっちじゃない! コホン、で」


 思わず感情を露わにしてしまったところで、咳払いをし、ウヴァルと呼ばれた少女に先を促した。

 ウヴァルは箱の中身はケーキです、と説明し、


「これはお祝いですよ。お父様の病状が回復に向かっていると聞いて」

「本当に……?」

「お祝いなのは間違いありませんよ。ただそれが、お父様だけか、というと疑問ですけどね」

「どういう意味?」


 ヴィネとウヴァルにはぐらかされたので、朱里は無表情で立つチャーチに訊いた。しかし、返ってきた答えは素っ気ないものだった。


「自分で考えればわかるだろう」


 チャーチはそう言って、通路を戻っていく。彼には、特別な用事はなかったようだ。


「……」


 朱里はもう何も言わず、黙って二人を招き入れる。ケーキが来たと聞いて、弟は喜んでいた。

 ドアが閉まる直前に、銃声のようなものが聞こえた気がした。



 ※※※



「――くそッ!」


 荒い息の中、毒づく。汗が滴って地面を濡らすが、そこに血が混じることはない。

 しくじった。撃針が薬室の中で雷管を叩き、朱里に死のやすらぎを与える瞬間に、朱里は銃口から頭を逸らしてしまった。

 狩人としての経験が、朱里の逃げ道を塞いでいる。現代ではこれが一番苦しみ少なく死ねるはずなのだが、どうやら朱里にとって一番死に難い自殺方法が拳銃自殺のようだ。

 常場がわざわざ実演してくれたというのに、朱里には不適格。であれば、どうすればいいのか。ライターを使って焼身自殺するか、水道水を使って溺死するか?


「どうやったら……死ねる」


 朱里は自分の殺し方を頭を回して取捨選択する。穴埋め問題。

 問い、高宮朱里を殺す方法をこの中から選択しなさい。人生で初めてぶち当たった難問だ。

 いくつか枠に選択肢を入れてみたが、どれも死ぬ寸前で回避されるイメージしか出てこない。朱里にとって最大の難敵は、他ならぬ自分自身だった。自分を殺す最適解が全く思いつかない。怪物は、例え怪物を持ってしても殺せないというのか。


「死ななきゃダメなの! 家族に被害が及ぶ前に!」


 自分を一喝してみたが、それでも自分を殺せるビジョンが思い浮かばない。そう、撃つ前からわかり切っていたのだ。だから心も身体も拒否せず素直に受け入れた。どうやったって絶対に死なないのだから、躊躇う必要は微塵もない。


「どうして……まだ、生きたいの?」


 これまた聞く必要のない問いだ。生きる意味が見つからないと悩める人間は割と多い。しかし、そういう悩みを持つ人間の多くはまた死ぬ理由も持ち合わせていないのだ。

 生きる意味がないからと死ぬ必要は全くない。それに、例え朱里が死んだとしても朱里の家族に被害が及ぶ可能性はゼロではない。

 リリンが大好きだった、可能性。朱里はまた可能性に苛まれる。可能性があるから朱里は死のうとして、死ねなかった。可能性があるから、こうして息をしている。


「生きて、どうする」


 自問を続ける。答えは思いのほかたくさん出てきた。

 例えば、いつもの生活に戻り学校に通う。


「無理よ。片腕がないのよ? それだけじゃない。様々な問題が邪魔をする。通常の学校生活には戻れない」


 ならば、バイトをして家族の生活費を稼ぐ。


「その問題はもう解決した。わざわざ私が働く必要はない」


 だったら、ニートになって怠惰に過ごす。


「冗談。ダメ人間になるつもりはないわ」


 なら、怪物として狩人として、正義の味方のように世界を救う。


「……私はヒーローじゃ、ない」


 自嘲気味に漏らすと、一陣の風が吹き抜けた。瞬間、脳裏に友達の声が蘇る。


 ――私、本気であなたならヒーローになれると思ってるよ。


「シルフィ……!」


 唐突に立ち上がる。確かにシルフィードの声が聞こえた気がした。もちろん気のせいだ。しかし、彼女の言葉は朱里の心に深く刻み込まれている……。


「ヒーローはガラじゃないって。キリカにさんざん言われたし」


 でもヒーローではなくとも、朱里は怪物である。自身の欲望の通りに生きて、それが世界の役に立つなら、これ以上に幸せな生き方はないのではないだろうか。


「なんだそれ……結局自分本位じゃない」


 自分自身に突っ込みながら、朱里は苦笑いを浮かべる。

 生まれついての狩人。狩猟時代の遺伝子を受け継いだ怪物。

 多数の魔獣を狩り、悪魔すら屠りながらも、朱里は自分自身を殺せなかった。

 あまりに情けない結果に朱里は笑うことしかできない。呆れた顔でしばらく笑って、ベンチに広げていた小物を拾い集める。


「長居は無用。帰らないと」


 無論、家ではない。日本政府が用意した仮設住宅だ。そこにはPHC日本支社から救出された狩人たちが住んでいる。新しい、怪物専用の監獄だ。

 片腕の朱里は公園を後にする。人がいれば目立っただろうが、街は無人。さながらゴーストタウンめいている。

 ゆえに、その声はとてもよく響いた。ついでに右眼が人の接近を警告してくれたので、誰であるかは一瞬でわかった。

 聞き間違えるはずも、見間違えるはずもない。間違えようのない、朱里の大切な家族。


「お姉ちゃん――!」

「あ、章久……どうして」


 逢わぬと決めていた家族と偶然遭遇し、朱里は動揺を禁じえない。逢ってはならなかった。なのに、その出会いが喜ばしい。

 弟に抱き着かれて、朱里は眼を見開く。そして、喜ぶ弟の口から、この出会いが偶然ではなく必然だったことを知る。


「もうひとりのお姉ちゃんに聞いたよ。後、お姉ちゃんのトモダチにも。いろいろ大変なことがあって、お姉ちゃんが本物じゃないって、説明してくれた」

「な――どうして、消されるかもしれないのに」


 朱里はもうひとりの自分の行動が全く理解できなかった。不用意な発言はご法度のはずだ。なのに、朱里の偽者は、家族に正体をばらした。


「言ってたよ。わたしは偽者だけど、家族に対する愛は本物だって。だから、ぼくが本当に望むものを知っているって」

「バカね、私は……っ」


 それは自分に対して言ったのか、はたまた、自分のクローンに向けて放たれたのか。

 どちらが本心か、朱里にもわからない。ただ、どちらの自分も……高宮朱里という人間が、バカ野郎という事実には変わりなかった。

 何を悩んでいたんだろう。朱里は自分のバカらしさに呆れる。


「あは、はははっ。私、本当にバカだ。バカにされちゃうな、みんなに。ははははっ!」

「お姉ちゃん……泣いてるの?」

「う、うん。そうだね……もう泣かない理由は、ないからね」


 弟に指摘されて、頬を涙が伝っていることに気付く。朱里は泣いていた。涸れていたはずの涙が、思い出したかのように溢れ出している。

 もう全てが終わったのだ。家族と再会できた。止まっていた涙は、流れていい。隠されていた本当の気持ちを吐露していい。

 朱里は弟に抱き着いて、年相応の少女のように涙を流した。そこにいたのは歴戦の狩人でも、悪魔を狩り殺す怪物でもない。ただのひとりの少女だった。

 ひとしきり泣いて、ぐちゃぐちゃの顔を弟にみせて、カッコ悪いね、と弟に笑いかける。

 だが、弟は姉の意見を否定した。章久はにっこりと微笑んで、


「ううん、お姉ちゃんは僕の、最高のお姉ちゃんだよ」

「ありがとう……章久」


 感謝して、今一度抱きしめる。弟が手を伸ばしてきて、行こう、と朱里を誘った。

 リリンの悪夢では、ここで朱里は弟の手を握れなかった。しかし、今は手を取れる。右手がなくても、左手がある。いや、例え手がなくても、朱里と章久は繋がっている。血の繋がり、家族の絆、姉弟のえにし。たくさんの想いで、繋がっている。


「お姉ちゃんのトモダチがケーキを持ってきてくれたよ! 早く食べようよ!」

「ダメよ、章久。お母さんが帰ってきてから」

「ええー」


 姉らしく弟を諫めると、章久の顔は不満げとなる。卑怯だ、と朱里は思う。そんな顔をされたら、甘やかしたくなってしまうではないか。


「まぁ、少し味見するだけ、なら」

「やったぁ!」


 弟が跳ねて喜ぶ。そこまで大げさにしなくてもいいだろうに。朱里は苦笑しながら見守った。

 家への帰路は、考えなくてもわかる。身体が帰り道を覚えている。朱里は章久と手を繋ぎながら歩道を歩き、階段を昇ってマンションの一室へと辿りついた。

 ドアノブを掴むと、脇に立つ章久が呼びかける。


「お姉ちゃん」

「どうしたの、章久」

「おかえり!」


 章久は朱里を優しく迎え入れた。朱里もまた、一瞬泣きそうな顔となり、すぐに笑顔へと戻る。

 右腕と右眼を喪ったあの日から、PHCに攫われたあの時から、ずっと言いそびれていた一言。

 朱里はそれを大きな声で口に出す――。


「――ただいま」


 こうして、怪物少女の狩りは終わりを告げる。

 朱里は一人の少女へと戻る。新しく始まる、日常へと帰っていく。

 片腕と片眼を喪っても、まだ死んでいない。たくさんの悲劇を見て、数多くの苦難を経験したが、まだ確かに息を吸っている。心臓が鼓動を鳴らしている。それだけあれば十分だ。

 例え世界が悪魔の遊び場でも、朱里はまだ生きている。何も恐れる必要はない。

 ゆえに、力強く足を踏みしめて。何の躊躇も恐れも抱かず。

 朱里は、ずっと夢見ていた我が家の中へ、入っていった。

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