第26話 逆襲の逃避行

「島を継いでまた島か……」


 朱里の目の前には無人島が広がっていた。PHCから逃れても、結局は孤島住まいらしい。

 太平洋沖に浮かぶ隠された無人島の一つを、キリカは拠点として使用していた。自然に囲まれる外観からは想像つかないが、奥に進めばそこはさながら秘密基地めいている。深い森の先には、ちょっとした基地が広がっていた。嘆くべくは人が朱里とキリカ以外存在しないことか。


「さて、無人島に訪れたわけだけど」

「有人島よ。今日からあなたと私が住むんだから」

「二人っきりの逃避行ってわけ? 燃えるわね」


 くだらないことを述べながら、朱里は装備を運んでいく。義手とコンバットスーツのおかげでどれだけ荷物が多くとも全く疲労を感じない。


「ラブロマンスでも始める?」

「禁断の愛ってヤツ? でも世界的には同性愛はメジャーとなりつつあるから、禁忌でもなんでもないわね。まぁ、同性愛は悪魔がちょっかいを出して忌むべきことになったんだし、悪魔へのあてつけに愛を燃え上がらせてもいいわよ」

「それ本当なの?」


 呆れる朱里を後目に、キリカは森の中に突如として出現した鉄製の扉を開く。


「異性が好きか同性が好きか……家族や身近な人物ならともかく、名前も知らない他人が誰を好きになったってどうでもいいでしょ? でもそれだとつまらないから、悪魔の所業よと悪魔が教会の異端審問あたりに囁いた。バカバカしい話でしょ」

「冗談だとしても笑えないわ。もっとも、根本的な問題は人間側にあるのでしょうけど」

「その通り。奴らは方法を教えてるに過ぎない。でも、だからと言って放置してはおけない」


 どうぞお先に、とキリカは朱里を先に行かせた。中は広いとは言えなかったが、部屋がいくつか存在し、通路にはご丁寧に監視カメラまでついている。


「プライバシーもくそもない空間ね。あなた一人で創ったわけじゃないんでしょ? こんな大層な秘密基地」

「もちろん。日本のPHC対策チームが使うつもりだった基地を借り受けてる。彼らは使えないみたいだしね」

「どうして?」

「あなたもよく知っている化け物がおいでなさるから」


 なるほど、と朱里は納得して、適当に使っていいと言われた部屋の一室に居を構えた。荷物を部屋の隅へと置いて、備え付けのベッドに横になる。徹夜で脱獄したので疲れていた。

 すぐには眠れず、朱里は携帯を取り出して、充電がそんなに残っていないことに気付く。コンセントを発見したので、持って来た充電器を差し込んで充電を開始した。

 画面は眩く、家族を写し出している。電波が届いているが、朱里はメールを送信するつもりにはなれなかった。寝床の横に携帯を置いた。

 だが、不意に携帯が鳴り響き、また協力者かと朱里は手に取って、


「章久……!?」


 と驚く。弟からのメール。もちろん、たった今送信されたというわけではない。朱里が魔獣に眼と腕を食い千切られた直後に、朱里へと送信されたメールが今頃届いたのだ。


『おそいよ、お姉ちゃん。何かあったの?』

「ええ、あったわ。とっても怖いことが」


 メールは何通か届いていた。どれも姉である自分を心配する内容ばかりだ。愛しさが込み上げて、朱里は仰向けで、じっと携帯を見上げている。


『ぼくはへいきだから、おそくなってもいいよ。気を付けて帰ってきてね』


 家族の優しさが文面に滲み出ている。もし、章久に自分が本物だと明かせたらどうなるだろうと朱里は幾度も考えた。しかし、思いつくのは家族が無残に殺される悲劇の末路だ。家族が死ぬくらいだったら、自分は怪物らしくおとなしくしていよう、と決意したはずなのだが、それでも愛おしさが止まらない。


「ちょっと、いい」


 朱里が携帯を見上げて想いに耽っていると、キリカが扉をノックして入ってきた。何の用かと朱里が訊ねると、キリカは備え付けの椅子に座って、


「改めて自己紹介をしておこうと思ってね。私の本名は荒垣霧花。PHCに抗うレジスタンスの一員よ」


 大体そんなところだろうと朱里は考えていたが、知らなかったわと驚いてみる。


「構成員は何人?」

「ん」


 キリカは朱里を指さした。まさか二人? と、呆れる朱里に、キリカは笑いながら、


「本当はもうひとり、喧しいのがいたんだけどね。でも、味方自体は多いわよ? PHCに敵意を抱いてる人間は少なくないから、実質世界中が味方ね。アメリカもロシアも日本も中国も韓国も……軍人や民間人、警察や、ギャング、犯罪者、テロリスト……人間であれば誰だって味方よ。奴らの息のかかった連中を除いてね」

「それは頼もしい限りね。全く頼りにならないけど」


 彼らが劣っているのではなく、PHC相手には相性が悪すぎる。餅は餅屋に任せるべきなので、実質的な戦力は朱里とキリカの二人だけだ。

 そういえば、と朱里は小城のノートを思い出す。エクソシストは、と記憶を手繰りながら質問を投げかけるとキリカはため息を吐いて、


「エクソシスト自体は一九七二年に撤廃されているわ。……キリスト教ではね」

「他の宗教では?」

「さぁ、私は無神論者だし」

「……」


 天使や悪魔がいるのだから、神はいない方がおかしい。対極する存在を認知しながら、キリカははぐらかした。こうなるともう答えてくれないのは、今までの経験から知っている。朱里はそうかと頷いて、質疑応答を続けた。


「何でアメリカ支社に? あなた日本人でしょ? それともハーフだったりするの?」


 キリカは黒髪に黒目を持ったどこからどう見ても日本人の少女だ。


「れっきとした日本人よ。アメリカには家族旅行に言ってたの。途中で……精神病を患った元軍人の銃撃事件に巻き込まれた」

「それは――ご愁傷様ね」


 なんて言えばいいかわからず、朱里は思いついた言葉を口にした。別にいいわよ、とキリカは寂しそうに笑い、


「近くにあった教会に逃げ込んで……父と母が撃ち殺されて、私も殺されかかったわ。でも、突然どこからともなく男が現われて、私を助けてくれた。救世主が現れたと思ったわ。しかも、そいつはどう見たって死んでる両親を生き返らせる約束もしてくれた」

「……それであなたは契約を交わした」

「我ながら、びっくり過ぎるくらい無知だったわね。幼かったとはいえ、死んだ人間が生き返らないなんてこと、わからなかったのかしら」


 自嘲気味に呟いたキリカはふぅ、と自分を落ち着かせるように息を吐いた。室内に冷蔵庫があったのを見受けた朱里は、その傍へと赴き、缶コーラを二つほど取り出した。


「はい」

「……ありがとう。でも、しんみりした時に飲む飲み物じゃないわね」


 と言いながらもキリカはごくごく喉を鳴らした。朱里も倣って一気に飲み干す。炭酸の一気飲みはキツイものがあったが、それでも何とか耐え切った。


「どっかのバカは、コーラを全力で振って手渡してきたな。そのせいで洗濯するはめになった」

「鷹の眼がないと不便ね。私はすぐに気付いたわよ。こっそり交換して痛い目見させてやった」

「あ、それ見たかった。動画撮っといてくれればよかったのに」

「最高だったわ。チキショウ! って本気で悔しがってた」


 アメリカ人らしい汚い罵倒まで漏らしたシルフィードの姿はとても面白かった。

 二人は思い出話でひとしきり笑い、キリカは再び話題を自らの過去に戻す。


「両親を生き返らせて欲しければ、まずお金を稼ぎなさい――。奴はそういって私をハンターにした。もちろん、無我夢中で働いたわ。奴隷のようにね。で、ランクも順調に上がって、お金もたっぷり稼いだある日、あの男は両親を連れてきた。私はとても喜んだわ。家には帰れなかったけど、家族がいるだけで十分だった。しばらくの間、素敵な時間を過ごしていた……。違和感に気付くまでは」

「……違和感」

「そう、違和感。容姿も性格も記憶さえも完全なのに、どこか違う。趣味嗜好や好き嫌い……そんな個人的差異が、両親には存在した。見た目も中身も同じでも、好きなものや嫌いなものが違かった。些細よ? とても小さな綻び。でも、小さな違いは積み上げられて、とうとう山となって崩れ去った」

「両親がクローンだって、気付いた」


 キリカの話は朱里にとって無縁な話題ではなかった。朱里のクローンが跋扈して、日本の家族の元にいる。社長は気付かれないことを祈れと朱里に言っていた。気付かれたら日本政府に抹殺されてしまうから。実際に殺されるかはともかく、好ましくない事態が起こっても不思議ではない。

 両親は朱里を大事にしてくれているし、いた。もし朱里が精巧な偽者だと気付いた場合、何かしらのアクションを起こしてもおかしくない。それが政府にとって不都合なのだ。朱里にとって理解できない事柄だとしても。


「まぁ、考えれば当然だ。死者は生き返らない。与えられたのはそっくりの偽者だって、すぐに気付くべきだった。真実を知った私はショックを受けて、荒れて、しかも最悪なことにクローンは私のことを生活必需品と割り切ってたから、愛情なんて微塵も持ち合わせていなかった。映画みたいな愛情物語は発生せず、クローンは役立たずとして処分。私も心がぽっきり折れて、自殺しようとしていた。そこに――シルフィードが現われた」

「で、あなたを救った?」

「ええ。関わりたくないって言ってるのに、何度も何度も部屋をノックしてきてね。聞きたくもない話を一方的に話して、自分が満足するまで居座る最低最悪のくそったれだったわ。おかげで知る気もなかったどうでもいい知識がたくさん手に入った。無知でマヌケで単純だった私は、気付くとシルフィにほだされて、彼女のトモダチが好きだった日本のサブカルチャー嗜むはめになった」

「そんなことを彼女も言っていたわね。で、狩りの合間を縫って友情を深めていった」

「まぁ、彼女が死神になってからはあまり遊ぶ機会がなかったけどね。知っての通りシルフィは、心が折れそうなハンターを救済する目的で秘密裏に暗殺していた。何人か見知った奴もいたけど、どいつもこいつもシルフィにだけは心を開いていたから、彼女の貯金はうなぎのぼり。なのに、あいつは監獄から脱しようとしなかった。シルフィの両親が貯めた借金をとうに返済していたのにね」

「あの子のことだし、どうせ他にも救える子がいる、とか正義の味方ぶったんでしょう。死んだら何も意味ないのに」


 外に焦がれていたシルフィード。いつでも正式に狩人を引退できたのに、彼女はそれを良しとしなかった。どんな聖人君子だ、と朱里は呆れ果てる。素直に外に出て、幸せな生活を享受すれば良かったものを……。


「意味がないわけじゃなかったわ。あなたが生きて、社長を殺せばね。……一通り話し終えたけど、他に何か聞きたいことはある?」


 キリカは空き缶をゴミ箱に投げ捨てて、棚を開ける。中からスナック菓子を取り出して、賞味期限を確かめた。期限が切れていないことに安心して、口の中へと放り込む。


「何で行方不明に偽装を? 素直に堂々と脱出すれば良かったじゃない」

「そんなことしたら追跡されるでしょ。本当は偽の死体を用意できれば良かったんだけど、そこまで準備万端にはいかなかった。これでも、かなり上手く騙したのよ? 危うく本物の死体になりかけたんだから」

「あなたが外でPHCの動向を監視し、シルフィは内部から転覆させる隙を窺っていた……という認識で合ってる?」

「だいたい合ってる。でも、私とシルフィは仲間を探していたから、ちょっとばかし足りないわね」

「で、そのレジスタンス仲間が私、という訳か。……一人しか勧誘できなかった点を鑑みるに、あなたがコミュニケーションに難ありって噂は本当みたいね」

「何、その唐突な悪口は」


 キリカが菓子の咀嚼を中断し、不満げに口を尖らせる


「冗談が通じない性質。あなたのことでしょ?」

「ああ……そうね。あいつのジョークに何度辛酸を舐めさせられたことか」


 口調こそ悔しそうなのに、表情はとても柔らかだった。朱里も自然と笑みを浮かべている。あそこまで記憶に残るくそ野郎も珍しいだろう。人の心を土足で踏み鳴らし、自分勝手な好意を押しつけて、どこかへと行ってしまうのだ。

 ――残された朱里はもうただ、懐かしむことしかできない。どこまで自分勝手なんだと文句を言い出せば止まらないぐらいには。


「さて、今度はこっちがあなたについて訊いていい? 私はあなたが信頼できるってことぐらいしか知らないの」

「それでよく仲間になったわね」


 朱里が呆れながら呟くと、キリカもまた嘆息して、


「お互い様でしょ」


 と言い返してくる。全くその通り、と朱里は頷いて、自分の身の上話を始めた。


「私には家族がいる。四人家族。お父さん、お母さん、そして弟。名前は章久って言うの。身内びいきだけど、とてもかわいいのよ? 運動もできるし、成績優秀。将来の夢は――まぁすぐに変わると思うんだけど――お姉ちゃんのお嫁さんなんて、ませたことを言っていた」

「……なるほど。あなたがブラコンってことはわかった」


 キリカは苦笑しながら言ってくる。しかし、シルフィードとネフィリムを喪った今、自分のことを赤裸々に話せる人物はもういない。多少引かれるぐらいの内容だとしても、朱里は喋っておきたかった。

 どうでもいいことを覚えて欲しい。恥ずかしいことを知っていて欲しい。いつ死んでしまうのかわからないから。


「流石に結婚する気はないけど、正直嬉しかった。身近な友人はみんな恋愛とか、カッコいい俳優ぐらいにしか興味なかったけど、私の興味は家族に向いていた。父が病気で、母が働き尽くめ。そのせいで、弟が寂しそうにしていたからかもしれない。とにかく、私はバイトして、勉学に励む日々を続けていた」

「へぇ……日本の学校生活には興味あるわ」


 キリカが関心を示したのは、朱里の高校生活についてだ。もはや遠い昔の出来事のように思えるが、朱里は近所の女子高に通う高校生だった。恋にうつつを抜かすお年頃のはずだったが、朱里は結局誰とも恋愛しないまま狩人となった。

 恋がどんなものか興味がないわけではないが、今も昔も朱里は家族に関心が向いている。だから、学校生活を少し交えて、朱里は主に家族について話し始めた。

 キリカはもういいわよ、としかめ面になるが、知ったことではない。今日は、キリカに、これから生死を共有する仲間に自分のことを聞いてもらうつもりでいた。家族にも打ち明けられなかった自分の本音を、朱里はゆっくりと語り出す……。


「本当はバイト、面倒くさかった。何でお金のために時間を無駄にしなくちゃならないんだろうって何回か思ったし、お父さんが病気になれなければ、って何度も頭をよぎったわ。でも、私はバイトを続けた。どう? 偉いでしょ?」

「自慢は結構。それで? ほら、どんどんあなたの本性を曝け出しなさい――」



 ※※※



 小さな白い花を見つめて、男の子が蹲っている。

 子どもの名前は章久。朱里の弟だった。今は朱里と近所の公園に来ている。無論、その朱里が朱里でないことは言うまでもないことだ。

 しかし、章久には見分けがつかない。外面、内面ともに全く同じの模造品と、右腕と右眼を喪い、性格すら変動してしまった本物。幼い子どもにどちらが本物か当てろというのは酷なものだ。


「章久ー? 何してるの?」

「お姉ちゃん」


 私服の朱里が章久の傍に寄ってくる。章久は笑顔で、自分が見つめていた花を指さした。


「ほら、お花だよ」


 章久の前に生えている花は、丁寧に育てられたわけでも、花壇に区切られ、彩られているわけでもない。ただそこら辺に生えただけの雑草の一種だ。人によってはどうでもいい雑草だと切り捨てられる小花だが、章久は姉がこういう儚い花が大好きだったと知っている。


「ああ、お花が見たいの? なら、向こうに大きなお花がたくさん植えられてるから、行こうか」


 朱里は花壇を指して先に歩いて行く。え? と驚く章久はもう一度小花へ目を落とし、


「お姉ちゃん……?」


 と疑問を感じながら、姉の後を追う。



 ※※※



「――雑草なんか見て何が楽しいの?」

「雑草なんてとんでもない。いや、雑草だからこそ愛おしいのかもね。人の手を借りず、逞しく生きているから」


 座る朱里にキリカが呆れがちに訊ねてくる。経緯はこうだ。一眠りした朱里が基地から出て、島の周辺を散策していたところ、偶然小さい白い花を見つけた。そこへキリカが通りかかり、無粋な質問を投げかけてきたのだ。

 少し離れたところには、砂浜と海が広がっている。砂と森の境界線に生えた花を、朱里は観賞していた。もし朱里が泳げれば海で遊んだかもしれないが、残念なことに朱里は泳げない。だから、花をじーっと見つめ、波の音を聞きながら休憩を取っている。


「花見しなくても、泳げばいいじゃない。貸切状態だから、全裸で泳いだところで問題ないし」

「あるわよ。羞恥心ってものはないの?」

「同性しかいないここで羞恥心とか語られてもね」


 と朱里の前で言うや否や、キリカは堂々と服を脱ぎ棄て始めた。本気で? と朱里が驚いた顔を浮かべるが、服の下にはきちんと青い競泳水着を着用していた。まるで、プールが楽しみでしょうがなかった子どものように。


「何だかんだ言いながら、きっちり水着を着てるじゃない」

「当たり前。私は痴女じゃないし」


 朱里の前で悠々とキリカは泳ぎ始める。だが、朱里はカナヅチにかなり近しい存在だ。黙って、キリカが泳ぐのを眺めるしかない。


「ふふ、こっちに来たら?」

「……ふん」


 不機嫌に鼻を鳴らすとキリカは愉快そうに笑い、


「コンバットスーツを着れば泳げるでしょ。スーツ着たら?」

「戦闘服で水泳だなんて冗談は……」


 と朱里が呟いた矢先、あまりにも警告がうるさかったのでセーブモードにしていた右眼が喋り出す。

 ――警告。ビーストが接近中です。ハンターは今までの経験を鑑み、適切な武装と的確な戦術で――。


「スーツを着なさい、朱里!」

「わかった!」


 キリカが海からダッシュして戻ってくる。朱里も急いで基地に戻りコンバットスーツを着用した。

 キリカも赤いフード付きの特殊戦闘服に着替える。水着は適当に放り捨てられていた。下地に下着を着用し、フードをかぶってクロスボウを担ぐ。


「狙撃銃は?」

「使えない。出てきた奴はきっと――」

「――これは?」


 キリカの話を中断するように、歌のようなものが聞こえてくる。思わず聞き入ってしまいそうな綺麗な歌だが、ちゃんとしなさいと朱里は諭された。

 右眼も無断で説明を始める。――この歌声は人型ビースト、ローレライです。ハンターを幻惑する効果があります。


「悲劇の人魚姫様か。――手品がわかればどうってことないわ」

「カナヅチに相性いい敵だとは言えないけどね」


 キリカは朱里に水中用のアサルトライフルを手渡した。水中で撃てるように改良された特殊銃は、ソ連が冷戦時代に発明したとされており、ヴィネが手掛けたこの銃もかの特殊銃と同じように銛のような先端の鋭い特殊弾薬を使用している。推察するに、これも何らかの魔獣から採取した素材が使われているのだろう。


「カナヅチじゃないわよ」

「だったらこっちと交換する? 技術が必要なクロスボウと。普通の銃じゃ水中で効果が薄いわよ。どうします? 泳ぎが得意な朱里さん?」

「くそっ。いいわ、こっちを使う」


 得意げな顔をするキリカに、悔しさを顔に滲ませる朱里。例え特殊な製法で作られたヴィネウエポンだとしても、水の中では性能を十分に発揮できない。手品を使えるのは魔獣だけで、銃は結局銃でしかないのだ。適材適所、使い分けていくしかない。

 キリカに追従して外に出ると、波打つ岩にマーメイドがヒロインよろしく座っていた。このまま恋愛物語でも始まれば朱里も文句はなかったが、好戦的な笑みを浮かべてローレライは海の中へと入ってしまう。

 そして、歌が聞こえ始めた。朱里は耳栓を装備していたが、どうやら意味はなさそうだ。敵の幻惑が強力過ぎて、一瞬朱里は水中用マスクを付けないまま水の中に潜りそうになって、寸前のところでハッとした。


「気を抜くと溺死するわよ」

「精神干渉系は大っ嫌いよ」


 朱里の文句を聞いた後、キリカは先行した。朱里も嫌がりながらも、意を決して泳ぎ出す。

 コンバットスーツの身体強化で泳げはするものの、その動きはぎこちない。圧倒的に技量が足りなかった。あえて水場での狩りを断っていたのが仇となっている。嫌がらずにスイミングスクールにいけば良かった、と朱里は心の中で後悔した。


『水中で酸素マスクを外さないでよ?』

「外さないわ。敵はどこ?」


 無線で通信が飛んでくるが、キリカは敵を見失ってしまったようだ。もしくは、敵の幻惑によって気付けていないだけか。朱里は右眼を駆使して探索しようとするが、右眼が上手く動作してくれない。PHCから独断で離れたために、データリンクが途切れたせいだ。

 流石にフリーズして停止することはないが、発見や探知の精度に難がある。――現在問題を解決中です、などというアナウンスが流れて、朱里は歯噛むことしかできない。


「ッ!」


 潜水した朱里に向けて、四方八方から歌が聞こえ出した。周囲を見回すが、人魚の姿を発見できない。ダウンロードしていたデータを引き出して、朱里はローレライの特性を把握する。


(魚には擬態能力を持つ種類も存在する。ローレライは幻惑の歌声だけではなく、ステルス能力も獲得しているのか。加えて、こちらの動きは制限され、敵の動きは素早い。銃の威力も落ちる。確実に敵の術中ね)


 今の朱里とキリカは、飛んで火に入る夏の虫だ。敵の姿は見えず、一方的に攻撃を受けている。だが、これはチャンスにも変えられる。有利な状況だと獣も人も油断しやすい。この状況を打破できれば、ローレライをあっさりと狩ることができるはず。


「キリカ、一度海から上がって。グレネードで釣りをする。ダイナマイト漁よ」

『……構わないけど、あなたはどうするの?』

「私にはアンカーがある。爆発する前に脱出できる」


 誰かが海の中にいなければ、ローレライは油断してくれない。釣りをするにはエサが必要だった。擬似餌ではなく、新鮮で、食べごたえのあるエサが。

 朱里というエサを吊るし、グレネードの竿を使って釣りをする。陸上へとキリカは泳ぎ始め、朱里はパニックに陥ったフリをして水中アサルトライフルの銛弾を乱射する。


『こっちは準備できたわ。いつでもいけるけど……』

「さっ、さっさとやって……ッ!?」


 朱里が頭を左手で押さえながら応えた。聞く者を魅了する甘美な歌声が朱里の頭を混乱させる。いつの間にか、朱里は陸地に立っていた。前には弟がいる。朱里が好きな野の花を摘んで来て、笑顔で差し出してくる。


「お姉ちゃんの大好きなお花、つんできたよ」

「ふふ、とっても綺麗よ……あき、ひさ……」


 なぜだか、身体が重い。息も苦しくなってくる。朱里は違和感に震えた。近所の公園に立って弟と遊んでいるはずなのに、呼吸ができない。辛い、苦しい。解放されたい。

 死にたい死にたい死にたい死にたい――。


「ちょーっと待った。せっかく命を投げ出して守ったのに、溺死はカッコ悪すぎるでしょ」

「――ッ!?」


 どこかから懐かしい声が聞こえて、朱里は意識を取り戻す。


『朱里! 早く退避して!』

「間に合え――!」


 朱里は浜辺にアンカーショットを打ちこんだ。既にグレネードは朱里の横で沈んでいる。アンカーが引き寄せられて朱里が海から出るのと、グレネードが起爆し波を打ち上げるのはほぼ同時だった。

 朱里は爆風に背中を押されて、浜辺の上であちこち身体を打ちながら転がった。仰向けに倒れて、横にはさっき見つめていた白い花が咲いている。


「とっても綺麗よ、章久。幻じゃなければもっと良かった」

「その幻をみせた張本人がびちびち跳ねてるわよ」


 朱里が身を起こすと、ローレライが必死に砂の上を跳ねていた。両手を使って海に戻ろうともがいているが、砂の熱さに耐え切れずまともに移動できないようだ。


「確かに、人魚の話は悲話ね。砂遊びもできないみたいだし」

「魚部分が変身して人化するんじゃないかと期待したんだけど、無理みたいね」


 立ち上がった朱里は、水中銃を構えて哀れな人魚へと近づく。人魚が関わる話は悲劇が多い。悲しいことね、と呟いて、怯えるローレライの眉間へ銃を突きつける。

 銛が穿たれ、ローレライが赤い血を迸らせた。ぐったりと砂浜に倒れこむ。魚類特有の生臭さに朱里は嫌悪感を示しながら、その最期を看取る。

 なぜ人型なのに同じ人を惑わすのか。朱里は疑問に感じたが、同じ人間同士何千年も戦争している。仕方のないことかもしれない。

 平和の大使になるつもりはないし、資格もない。平和が大事だと偉そうに説教するつもりも毛頭ない。しかし、自分の前で無益な争いをするのなら――。


「――容赦はしないわ。戦争したいなら、私のいないところで勝手にやってなさい」

「正義の味方は人を救えるけど、悪魔は倒せない。たっぷり休息も摂ったし、そろそろ敵について勉強を始めましょうか。たぶん、時間もないしね」


 キリカは遥か上、空を見上げながら呟いた。朱里も何か見える気がして頭上を見上げる。でも、何も見えない。しかし何か起こる予感だけが渦巻いて、基地の中へと戻っていった。



 ※※※


 

 モニターに映るレーダーから反応が消え失せて、彩月は震える声で隣に立つ社長へ報告した。


「び、ビーストの反応が消失しました……。す、すみません。だから、お仕置きだけは……」

「しないよ。君はよくやってくれている。僕はきちんと仕事をする人間を無意味に罰したりしない主義だ」


 だがそれは、逆に言えば仕事をミスすれば手痛いお仕置きが待っているということだ。彩月は震えあがって画面へ目を移す。今一度PHCの所有する衛星から送信された情報を確認する。しかし、やはり新しい反応はない。


「もう十分だ。休んでいいよ、彩月」

「そ、それは言葉通りの意味ですか……? それとも」

「疑心暗鬼になり過ぎだな。言葉通りの意味だよ」

「あ、ありがとう、ございます……」


 彩月は青い顔でオペレーションルームを後にする。前々から対応はマニュアル通りという機転の利かないオペレーターだったが、もはやはいとしか言えない傀儡へと成り下がっている。脆いね、人は。社長は独り言を呟いて、マップに目を落とした。


「だが、君は簡単には壊れない。壊れてもいいが、もう少し頑張ってくれ。僕を、最期まで愉しませてくれよ」


 社長は邪悪に笑いながら、出撃命令をチャーチに下す。急場しのぎの生体兵器だが、彼女相手ならもっとも効果のある兵器だ。これで倒せないなら……直接対決しかないだろう。


「ふふ、僕を本気にさせたのは、君が二人目だよ。あれは十九世紀の頃だったかな……」


 思い出に浸りながら、社長はチャーチと通話する。

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