第17話 悪魔の憂鬱

 ネフィリムが帰ってきてから、朱里はシルフィードとネフィリムを同行者にして狩りを行うようになった。シルフィードがちょっかい出そうとするたびにネフィリムが叱るので、二人だけの狩猟とは違い大がかりなイタズラはできなくなった。

 相も変わらずネフィリムは朱里のことをマスター扱いしている。シルフィードのことも敬っているが、明らかに朱里とは態度が違い彼女は不満げだ。


「アメリカ支社ではあれほどよくしてくれたのに……」

「……何のことです?」

「あーやっぱいいや。何でもない」

「何の話をしているの?」


 トイレから戻ってきた朱里がシルフィに訊いたが、彼女ははぐらかした。つれないわね、と呟きながらソファーに腰を落とす。

 ネフィリムが各々の前にカップを差出し、朱里は温かい紅茶を飲む。不意に携帯が振動して、朱里はさっと画面を流し見た。


『警戒しろ。敵の動きが不可解だ』

「……敵って誰よ」


 ぼやきながら携帯を仕舞う。敵とは魔獣のことか? 悪魔のことか? PHCのことか? 朱里には全部敵に見える。

 この世には絶対敵は存在せず、相対敵だけがいるという。一時的な敵。歴史を振り返れば明らかだ。少し前まで同盟を結んでいた国が敵対し、しばらく経てば味方となる。世界の相関図だけを見るとため息を吐きたくなってくるが、人間とはそういうものだ。

 では、悪魔はどうだろうか? 悪魔にも勢力や派閥が存在するのだろうか。


(もしそうだとすれば――奴らも取るに足らないってことね)


 手品は驚異的だが、種と仕掛けさえわかれば問題ない。むしろ自分よりも圧倒的に強いくらいがとても――興奮する。

 敵は強くなくてはダメなのだ。朱里は弱敵ではなく強敵を望んでいる。同時にそんな相手と戦って、自分は生きていられるかどうかという疑念が巡る。


(でも、雑魚狩りをしていても強くなれないし)


 生憎、経験値を積み重ねてレベルを上げるRPGのようにはいかない。いうなれば、狩りはアクションゲームなのだ。キャラクターの能力値も重要だが、一番求められるのはプレイヤースキルだ。いくら朱里の能力が高くても、朱里自身がそのスペックを生かしきれなければ意味がない。まともに動けなければ、雑魚敵にだって殺されてしまう。

 しかし、レベルが上がらなくても経験は大切だ。だから、朱里はなるべく自分の力で敵を狩ることにしている。狩りとは、自分自身との戦いだ。

 だったら問題ないよね、と心の中で呟いた朱里は、また無意味にニュースを眺め出す。


「ニュースなんて見ても面白くないよー。アニメでも見よう」

「大したもんやってないでしょ」

「そんなことないよー? ジャパニーズアニメは恵まれてるんだから。アメリカ支社でも大人気だったよ。カーラっていうオタクのトモダチがいたんだけど、彼女は軽く引くぐらいアニメーションオタクでさ。興味ないって言うのに勝手に観させられたんだよねー。でさ、つまらないわけじゃないから、段々と私もハマっていくじゃん?」

「いや、知らないわよ」


 情報操作されているニュースを、朱里は推測しながら見ていく。PHCに来る前はただボーッと受け入れているだけだったが、情報操作されているとわかれば視方も変わってくる。例えば、今流れている貨物機のコンテナ放出事故は――。


「えい」

「ちょっと」


 朱里の推論が終わる前に、チャンネルが変わってしまった。黒ずくめの服を着た黄金銃を使う少女が、超能力者と戦うバトルアニメへ切り替わる。


「朱里ちゃんはどのジャンルが好き? バトルモノ? 日常モノ? それとも、恋愛モノとか?」

「あなたに言う必要がある?」

「あるわよ、バディでしょ?」


 さも当然のように言ってきて、朱里は嘆息する。ここで黙っていてもいいのだが、それはそれで面倒くさくなるということを、ここ数日シルフィードと過ごして学んでいる。


「昔は確かに恋愛モノのドラマとか見ていたわね。でも、今はバトルが好き」

「わー朱里ちゃん男の子ー」

「はぁ……」


 言っても面倒くさくなることを失念していた。シルフィードの目的はからかいなのだ。三つあるジャンルの内、どの選択肢を答えてもこうなることは明白だった。そして、それを朱里は嫌がっていない。


「じゃああなたはどれが好きなのよ」

「私? 私は――何でも好きかな」

「優柔不断」

「あはは。そう、私は優柔不断なの。だって、どのジャンルも面白いでしょ? だったら全部観なきゃ損じゃない」


 シルフィードの言葉は一理あったが、認めると負けるような気がして、朱里はふんと鼻を鳴らすだけ。シルフィはネフィリムにも訊ねて、私はテレビを観ませんという回答に落胆している。


「ちぇー味気ないなリムちゃんは。もっと個性豊かにいこうよ」

「味見してみますか?」


 と冗談のように白腕を伸ばしたネフィリムへ、がぶ、とシルフィードが噛み付くしぐさをした。


「うんうん、リムちゃんはおいしいよ」

「何をしているの」

「カニバリズム」


 真面目な顔で答えるシルフィード。朱里は呆れて、チャンネルを戻した。

 ニュースの話題は家族サービスに使える観光地特集になっている。消そうか悩んだが、朱里は結局特集を見続けた。

 シルフィードが何か言いかけて、口を閉じた。ネフィリムも黙って朱里の背後へと移動する。


「あなたの命令とあれば、必要な措置を講じます」

「だったら、私の傍にいて」

「承知しました」


 朱里が望むのは、これ以上誰もいなくならないこと。

 しかし、それが不可能であるということを、他ならぬ朱里自身が知っている。




 夢は嫌いだ。PHCに来てからというもの、まともな夢を見たことがないからだ。

 だが、朱里がいくら嫌いと思っていても、夢は無断でやってくる。朱里の許可なく放送を開始し、見たくないのに見せられる。

 今日の夢劇場の出演者は、家族だった。主演は朱里と弟だ。

 朱里は弟に右手を伸ばすのだが、その右手は突然千切れ飛ぶ。手がなくなって、朱里は弟に触れられない。いつものように頭を撫でることができず、自分そっくりの偽物が弟の頭を撫でる。

 家族には触れられなくなったから、今度は新しく友達を作るのだが、すると部屋に弟がやってきて、お姉ちゃんは僕たちを見捨てたんだと言う。違うの章久、私はあなたに逢いたいの! と過剰な演出で朱里が泣きじゃくって、それを傍観者である紫の少女に笑われる。

 うんざりだった。涙を流す自分を見つめるのは。


「いつまで続けるつもり? いるんでしょ?」

「あなたの精神が崩壊するまで」


 気付くと朱里はテーブルを挟んで悪魔少女と二人きりで座っていた。朱里の前には紅茶と拳銃が置かれている。少女の前にも紅茶と古めかしい古式銃が置いてある。


「それは」

『フリントロックピストルです。先込め式の単発ピストルで二百年もの間活躍した素晴らしき銃ですよ』


 ヴィネの声で解説が闇の中に響く。どういった手品? と朱里は動揺することなく訊く。


「編集よ。あなたの中にデータはたくさん詰まってるし」

「悪魔もデジタル化してるの? これからは情報の時代だと」

「そうそう。だって、面白いもの。無知な人間はネットワークに秘める本音を書きこむ。普段なら絶対口にしない本音を。力を使って哀れな羊を探すのは楽だけど、あえて不完全な代物を使って検索するというのも楽しいわよ」

「人間をなめているの。慢心ではなく意図的に」


 その通り、と少女は笑いながら紅茶を啜る。


「勝ち続けて、悪魔の心は涸れている。敗者には理解できない勝者の悩みよ」

「うざいことこの上ないわね」

「だって、あなたたち弱いんですもの。こちらが何もしなくても、勝手に自滅していく。確かに、人間界にちょっかいを出す悪魔は多いわ。まぁ、二度の嵐を終えて、ほとんどは向こうに閉じこめられたんだけど。でも、大抵の人間は悪魔が干渉しなくても勝手に堕ちていく。自分から、悪魔に助けてくださいと縋ってくるの」

「人間社会に問題がある、と」

「ご明察。少し前までそういうのを避けようと暗躍していた組織があったけど、今は完全に消滅してしまったから、張り合いがないのよ。私は敵が欲しい。あなたの欲求と同じね」

「対戦欲求」

「そう、私はゲームがしたい。死んじゃうかもしれないと追いつめられる恐怖のゲームが」

「ねえ、あなた」

「何かしら」


 朱里は一幕おき、紅茶を飲んで悪魔に告げる。


「ドMでしょ。引いちゃうくらいのマゾヒスト」

「かもしれないわね。サディストでもある。ああ、サド侯爵はとても面白い逸材だったわ。フランス革命も愉しかった。色々な方面にちょっかい出すだけで、国ってのはああも簡単に瓦解するものなのね」

「戦争や暴動、革命はあなたたち悪魔の仕業ってこと?」


 朱里が問うと、悪魔はいいえと首を横に振った。それは全部あなたたちが原因、と。


「言ったでしょ、勝手に暴走するって。私たちはやり方を教えてあげるだけ。まさかあなた――人殺しを武器のせいにする類ではないでしょう?」

「ええ。重要なのは殺意の有無で、道具でも方法でもない。けど」

「けど?」

「癪よね、とても。あなたたちが関わっていた、というのは」


 朱里は右手で拳銃を掴み、少女へと突きつける。少女もあは、と楽しそうに笑って古めかしいピストルを朱里へと向けた。


「現代銃と古式銃、どっちが強いか勝負する?」

「重要なのは武器の強弱ではなく、当てられるかどうかよ」

「そうね。あなたなら、例えフリントロックを使っても、自動小銃に撃ち勝てる。気にするべきは銃の良し悪しではなく射手の性能。あなたの怪物は順調に育っている。どう? 私とトモダチにならない?」


 問われて、初めて、朱里は笑みを浮かべた。にやり、と不敵に笑いながら引き金を引く。


「生憎――トモダチはもう事足りてるのよ」


 少女の額に穴が開いて、椅子ごと後ろに斃れ込んだ。しかし、少女はすくっと立って、頭に触れる。傷口がなかったことになり、少女は魅惑的な笑みをみせた。


「ふふふ。朱里、やっぱりあなたは愉しいわ」

「私は全然愉しくないけどね」

「いいの、それでいい。嫌いで嫌いで大っ嫌いな私に縋るあなたがみたいから。アハ、アハハハハッ!」


 悪魔は消える。笑い声だけを残して、消える。



 ※※※



「トモダチは大切にしなさい、ってママに言われてるの」


 シルフィードは朱里のベッド隣に立って、眠る朱里に語りかける。

 愛おしそうに、朱里の頬を撫でる。朱里がどう言おうとどう思おうと、彼女は朱里を新しい友達だと認識していた。

 実際、ここ数日いっしょの時間を過ごして、朱里の態度は軟化している。シルフィードは平等主義者でロマンチストでもあるので、例え過ごした時間がほんの少しでも、分け隔てなく大切にする。

 それが死んだ母親との約束だから。自分が殺してしまった両親との繋がりだから。


「でもね、朱里ちゃん。ここは外の常識が通じないところなの。私も世間知らずの口だから、あまり偉そうなこと言えないけど、これが違うってことはわかってる」


 シルフィードが手に持っている銀色がきらりと輝く。

 台所から持って来た包丁だった。本来なら肉や魚、野菜などを切り刻むそれは、人体すらも容易に解体できる。正式な殺し用具であるナイフのように丁寧な殺しはできないものの、命を奪うことは可能だった。アメリカが銃社会なら日本は刀社会なんだよーっ、と日本にあこがれを抱いていた友達の言葉がよみがえる。


「だけど、これが、このやり方が……トモダチを大切にすることだって、私は思うんだ」


 シルフィードが包丁を振り上げる。朱里は気付く様子もなく寝息を立てている。ソファーで寝ているネフィリムも目を覚ます気配はない。こっそり、睡眠薬を混ぜていたからだ。義眼が検知しないように細工するのは大変だった。


「さよなら、朱里ちゃん」


 シルフィードは朱里の首元へ向けて、包丁を振り下ろす。

 血が飛び散り、ベッドが真っ赤に汚れる。朱里が帰らぬ人となる。


「……ッ」


 なんてことはなく、後ほんの一ミリというところで、包丁は止まっていた。最後の最期で躊躇して、シルフィードは朱里を殺せなかった。


「くそッ」


 小声で毒づいて、シルフィードは台所に包丁を仕舞う。

 ソファーで寝ていたネフィリムが薄目を開けてその様子を一瞥し、再び目を閉じる。


「ダメね、私。本当にダメダメ」


 自嘲気味に呟きながら戻ってきたシルフィードが床に敷いた布団にもぐり、眠り始めた。


「…………」


 ベッドの上で寝ていた朱里が左眼を開き、しばらく天井を見つめて、また眠りに落ちる。



 ※※※



『本日の狩猟目標はゴーレムです。ガーゴイルのように擬態している可能性があります。注意して討伐してください』


 輸送機内に彩月の説明が響く。今日は珍しく忠告が流れて、朱里はへぇ、と感心すらした。だが、今気になっているのはマニュアルオペレーターではなく、対面席で船を漕いでいる妖精だ。これから狩りを行うというのにシルフィードは居眠りしていた。


「ネフィリム」

「はい」


 シルフィードの隣に座るネフィリムが彼女の頬をぺちぺちと叩く。シルフィはハッと目を覚まし、緑色のコンバットスーツがかちゃりと音を立てた。


「ちょ、まだついてないじゃない。寝かせてよ」

「何でそんな寝不足なの」

「誰かさんが私を床で寝かせたせいでしょ」


 とシルフィードは文句を言ってくるが、


「ですが、布団で寝るのを所望したのはシルフィードです」


 というネフィリムの横やりにう、と言葉を詰まらせる。


「だって、日本人って布団で寝るもんじゃないの? 何で洋式になってるのよ!」

「あなたが日本に夢見ているだけ。あなたの想像する日本は間違いだらけよ」

「ニンジャがトーキョーを駆け回り、カラテで悪を滅しているのが日本じゃないの!?」

「違うに決まってるでしょ」


 ちぇーつまんないの、とシルフィは口を尖らせて矢筒に矢を差し始めた。

 ゴーレムは防御力の高い魔獣なので、火力の高い矢が必要なのだ。朱里も今回は破壊力のある単発式のスラッグ弾を装填している。ヴィネ曰く、散弾よりも射程は確保されるらしかった。


「ネフィリムは後方から狙撃、シルフィードはフライトユニットでかく乱、私は前衛でゴーレムと直接対決する……」

「堅実な作戦ね、朱里ちゃん。実は物足りないんじゃないの?」

「ええ、確かに。でも、ゲームじゃないからね。我慢するわ」

「あら朱里ちゃん欲求不満? 帰ったら癒してあげよっか」

「言ってなさい。そろそろ着くわよ」


 朱里はより凶悪となった散弾銃モンストルを背負い、先に飛び降りていく。ネフィリムも続き、シルフィードが最後に残った。


「難しいわね。そう思わない? キリカ」


 トモダチの名前を呟いて、彼女もまた狩場へと落ちていく。



 ※※※



「こちらでも降下を確認しました。C-8地点のハンターを回収後、帰還してください」


 オペレーションルームで、彩月は輸送機のパイロットに指示を出した。PHCでは、狩人の出撃と回収のため、複数の輸送機が運用されている。彼らを管理するのも彩月を始めとするオペレーターの業務だった。これはマニュアルにも載っている。

 だから彩月は間違うことなく正確に対応してみせた。そうしないと殺されてしまうから、マニュアル通りに全て行う。逆に言えば、マニュアルに書いてないことは一切しない。余計なことをすると殺されてしまうからだ。

 なのに、彩月はシルフィードにマニュアル外の対応をしていた。彼女が言うに、トモダチなら当然のことらしい。


「トモダチになんてなった覚えはないのに」


 無線を切って、思わずぼやく。友達だの仲間だの、薄っぺらい絆は嫌いだった。ここでは、そんなことを言ってる奴から死んでいく。

 だが、シルフィードにはとある逸話がある。噂では、彼女は死神らしいのだ。彼女とトモダチになった狩人たちは一人残らず死んでいる。行方不明という例外も一つだけあるが、その狩人も死んだものとして処理されている。

 その噂を耳にしてから、彩月は恐ろしくてたまらないのだ。あろうことか、朱里に相談しようか悩んだほどだ。だが、もし朱里の口からシルフィードへ伝わったらと考えると、彩月は恐怖で胃が破裂しそうになる。

 無言で脅されている気分だった。心臓を素手で掴まれている感覚。今にも握りつぶされそうで、彩月は気持ち悪くなってくる。


 ――可哀想ね、彩月。


「でしょう、私、可哀想でしょう? 旅行中の船が嵐で転覆して、男の人に助けられて、一生分の運を使い尽くしたと思ったの。……本当にその通りだった。自分が何のために生きてるかわかんない」


 ――ああ、哀れ哀れ。年中無休で働かされて、今は嵐のような少女に振り回されている。彼女は恐ろしいわ。まさにこの世に降り立った悪魔よ。人を殺すのが好きで好きでたまらない殺人鬼。このままじゃあ、あなたも殺されてしまうかも。


「いや……いや……死にたくない」


 彩月はデスクに突っ伏して、震えている。モニターには朱里を筆頭とした狩人チームがゴーレムと戦術を駆使して戦っている。

 朱里が前衛、ネフィリムが後衛。そして、シルフィードが中衛だ。

 モニターに映った彼女と目が合った気がして、彩月はひぃと悲鳴を漏らしてしまう。


 ――怯えてるのね。無理もないわ。あなたは普通の女の子。怪物がたくさんいる檻に、間違って入れられてしまった女の子。出たいのに出られない、いつ喰われるか怯えて暮らす哀れな子。


「……っ。出たいよう、逃げたいよう、こんなところにいたくないよう!」


 彩月はめそめそ泣き出した。だというのに、オペレーションルームに座る同僚たちは誰一人同情してはくれない。彩月の存在を疎ましくすら思っていない。

 本当に辛いのは罵倒でも軽蔑でもなく、無視されること。いないものとして扱われること。

 子どものように涙をぼろぼろとこぼして、彩月は泣きじゃくる。周りの音は何一つ聞こえず、業務すら中断して、無邪気に泣いていた。


「悲しいわよね、彩月。とても、悲しいこと」

「そう……だよね。悲しいこと、だよね……!」


 いつの間にか横に立っていた紫髪の少女に縋る。今やこの少女だけが、彩月の存在を知覚している。

 しかし、半分堕ちている彩月は気付く様子がない。誰も彩月を気に掛けないわけではなく、この場の時間が止まっているから認知できない、ということに。


「あなたが望むなら、私がこの檻から出してあげましょう」

「本当ッ!? ウソじゃないよね? 本当だよね!?」

「ええ本当よ、愛らしい子」


 椅子から転げ落ち、膝をついて抱き着く彩月に、少女は妖艶な笑みをみせる。

 だが、その表情は心なしか退屈そうだ。また勝手に堕ちてきた――とうんざりしているようにも見える。

 しかし、それでも彩月にとっては希望だ。少なくとも、希望に見える何かだ。


「でもね、すぐに出してあげるわけにはいかないの。私は欲しいものがあってここに来たから、それを手に入れるまでは出られない。ねえ、協力してくれない? 彩月。私の協力者となってよ」

「はい、はいはいはい! 何でもします! ここから出してくれるなら私、どんな願いだって聞きます!」


 元気よく答えた彩月の頭を、少女は聞き分けのいい子、と言いながら優しく撫でる。彩月は嬉しそうな顔をして、完全に屈服していた。これほど従順な狗はなかなか見つからないだろう。だから彼女はここにいるのだ。とても便利な――奴隷だから。


(奴隷がいたころは面白かったわね。簡単に堕とせて、張り合いのある敵もいたから。でも、今は違う。自分の敵は自分で創らないと。世界は随分平和になってしまったから)


 と少女が想いを馳せていると、彩月は何をすればいいですかと聞いてきた。尻尾を振っているのではと勘ぐってしまうほどに従順だ。主に刃向かうことがなく、ただ与えられる命令のままに動く。本来の犬だってもう少し我儘だろう。

 そうねえ、と少女は熟考し、作戦モニターへと目を移した。そこには朱里とシルフィード、ネフィリムが写っている。三者三様、形こそ違えど遜色ない怪物たちだ。

 いいこと思いついた、と独りごちて、少女は彩月に命令する。


「あなたには、普段通りの仕事をしてもらいましょう。ただ、出撃メンバーと出撃地点を設定してくれるだけでいいの。面倒なことや複雑なことは一切ない。ね、簡単でしょう?」

「はい! はい!」


 もはや彩月ははいとしか頷かない。NPCでももっと複雑な反応をするわ、と少女は苦笑しながらモニターへと手を伸ばす。


「ああ、早くあなたが欲しいわ。堕ちて来て、堕ちて来ないで。アハハ、アハハハハッ」


 矛盾した言葉を口にしながら、忘れ去られし悪魔が笑う。

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