第3話 怪物の目覚め
『降下地点を確認。ハンター両名は降下準備せよ』
機内アナウンスは素人である朱里の気持ちなど露知らず、無茶なことを通告してくる。
しかし、無知な朱里を補うように、博識な右眼はわかりやすく教えてくれた。どうやって、作戦地域に降りるか。その方法は至極単純だ。
「来てください、アカリ。降りますよ」
開いた後部ハッチの前で、白い髪を風になびかせながらネフィリムが促してくる。彼女の後方には、銀色に輝く月が見えた。しかし、朱里に月の美しさを愛でる時間はない。
朱里は特別な装置を身に着けることなく、ハッチの傍まで進み出た。下にある街は遥か遠い。かなりの高度だ。高所恐怖症でなくても震えあがってしまうだろう。
「さぁ、降りましょう」
「ま、待って」
朱里はネフィリムを呼び止めた。まだ適応できない朱里に気遣った視線をネフィリムが向ける。
だが、これは朱里が素人だからでも、勇気がないからでも、知識が備わってないからでもない。
常識を問うシンプルな疑問だ。朱里が怯えるのは、降下そのものではなく降下方法だった。
朱里は何も装備していない。空挺部隊なら普通身に着けるはずのパラシュートバックパックはここには存在しなかった。
ではどうやって降下する? 降下用ロープで滑り降りるのだろうか。
いや……違う。飛び降りるのだ。命綱なしの飛び降りを敢行しろと右眼は催促していた。
――タカミヤ・アカリ。これ以上の待機は認められません。即刻、後部ハッチから出撃してください。
右眼は何度も同じ言葉を繰り返す。朱里もまた幾度もそんなことは無理だという想いを巡らせる。
だが、朱里の輸送係は苛立ち、機内放送を使ってさっさと降りろと怒鳴ってきた。ネフィリムに助けを求めるが、彼女もまた飛び降りは当然と言うようにきょとんとしている。
降りなければならない。ジャンプして。朱里は言葉を失って、その事実を受け入れた。
「エスコートしますので」
ネフィリムはそう言って何の躊躇いもなく飛び降りる。
ごく、と息を呑む。恐怖のあまり冷や汗を掻き、口の中に唾液が溢れている。
「ッ!!」
意を決した朱里は、目を開けたまま飛び降りた。
ひゅうひゅうと風が唸る。遠かった地面にどんどん近づいていく。眼下には街が広がっていた。
右眼が喋る。――着地には三点着地が有効です。右手と両足を用い、綺麗な着地を決めましょう。
だが、朱里はそんな訓練を受けていない。
小さい悲鳴を上げながら、視界の端に表示される高度カウントへ意識を集中。
残りは二百メートルほど。まともな滞空をできてない朱里は後数秒足らずで地面に激突する。
「く、うッ!」
朱里は眼に教えられた通りに、三点着地の体勢を執った。
直後、轟音。足元にしっかりとした地面の感触。
砂埃が舞い、朱里の視界は悪かった。そこへ一筋の風が。朱里の姿が露わになる。
月と星は、三点着陸を決めた朱里を照らしていた。
「成功……した?」
「はい。着地成功です」
次いで、体勢を戻した朱里に彼女はどう戦いましょうと訊いてきた。
「ど、どうって……」
無論、朱里は戦い方など知らない。ネフィリム頼りだ。
だが、頼れる先輩であるはずのネフィリムは、右太もものホルスターに差してある朱里の拳銃を指さし、
「その銃ではビーストを狩れないのです」
という衝撃の事実を朱里に告げた。
「えっ!? どういうこと!?」
意味の解らない朱里は声を荒げる。理解しているネフィリムは、九mm拳銃では、と解説を始める。
「九mm拳銃は対人兵器です。ビーストに対して有効な銃器だとはいえません。考えてみてください。一般的な軍に出回る銃器がビーストに有用なら、私たちは不要だとは思えませんか?」
銃に対しての知識がある人間ならば、考えるまでもないことだろう。九mm弾は威力が低い拳銃や短機関銃に用いられる弾丸だ。各国の軍隊や犯罪組織、民間でも使用されている。九mm弾を使用する拳銃のほとんどは子どもでも撃てるぐらいに反動は弱いが、その分殺傷力も低い。
人を殺すには十分。しかし、獣を殺すには不十分。
だが、朱里はただの高校生だ。そのような専門知識など持ち合わせていない。
そのためのネフィリム。だが、ヴィネ武器店に同伴していた彼女は、何の助言もくれなかった。
それだけではない。ヴィネのところへ赴く前に出会った男。あの男にも騙されたのだ。
一気に噴出する人間不信。朱里はネフィリムに不信感を募らせる。
一歩下がった朱里に向けて、ネフィリムは言い訳のように口を開く。
「てっきりアカリに考えがあるものかと」
ネフィリムは朱里に歩み寄る。ゆっくりと、だが確実に。
「か、考えなんてあるわけないでしょ!」
語調を強めて言い返す朱里。余裕のない表れだ。怯えるように一歩下がる。
「そう、ですか。そうでした」
朱里の背中が壁につく。コンクリート製のひんやりとした壁だ。
逃げ場を失った朱里に、ネフィリムが接近。ひっ、と悲鳴を出した朱里に向けて彼女は、
「殴ってください」
と言って、跪いた。
「え?」
「殴ってください、存分に。あなたの役に立てなかった私を、あなたのストレスを発散するために使ってください」
ネフィリムはさも当然のように口走り、朱里はぽかんとして彼女を見下ろしていた。
そうすることが……そうされることこそが、使命。強い信念のようなものがネフィリムにはあった。
いくらネフィリムに不信を抱いた朱里とは言え、流石に殴ろうとまでは思わなかった。
それに、あの場で自分はネフィリムに意見を求めていない。冷静に思い返してみると、ネフィリムを責め立てるのは筋違いだ。
確かに、助言は欲しかった。しかし、過ぎたことを責めても仕方ない。自分にも非はあるのだ。
「ご、ごめん。ちょっと……追い詰められてて」
「あなたが謝ることなど何一つありませんよ。これは私の責任ですから」
ネフィリムは笑う。
しかし、朱里にはその笑顔が別の意味を持っているように思えた。
「敵について、教えて」
朱里は居た堪れなくなって問いかけた。ネフィリムははい、と首肯して、
「今回の狩猟対象はケルベロス……の分離体です」
「分離体?」
朱里が疑問符を浮かべると、右眼が即座にデータを表示した。
視界の半分が黒い体表の大きな犬に占拠される。
朱里の動悸が早まった。自分の右眼と右腕を奪った忌まわしい怪物だ。
「この犬……」
「そうです。ケルベロスがどんな敵かはご存じですか?」
「いや……っ」
朱里が驚いたのは、また勝手に右眼が話し出したからだ。
――ケルベロス。地獄の番犬と言われるかの魔獣は三つの頭を持つ魔物として世間に知られています。PHCが観測したデータでは、ケルベロスは複数の個体から構成された複合生物であり、個体によっては数十から数百の首を持つ魔獣であるとされています。今回狩猟する分離体は、その中のはぐれた一体です。
耳触りの良い声で解説され、朱里は敵の知識を手に入れた。
不慣れなものの、右眼の便利さを受け入れ始めている。必要ないと言っていたのに。朱里は気を取り直すように首を振った。
「て、敵は一体だけなの?」
「いえ。数体は確認されているようです。ですよね、サツキ」
ネフィリムが右手を右耳のイヤーモニターに当てながら訊く。すぐに応答があった。
『はい。偵察ドローンは分離体を数体確認しています』
「もっと明確には……」
という朱里の問いかけに対しては、
『……マニュアルの対応外です』
との不機嫌な返答だった。
サツキはマニュアル通りの対応しかしませんよ、とネフィリム。しかし、朱里は納得できなかった。
声を荒げようとして、聞く。オペレーターであるサツキの声でも、ネフィリムの声でもない。
犬の遠吠えを確かに聞いた。
「っ」
「来ますよ、アカリ。私がライフルで狙撃しますから、あなたは
「す、スポッター」
困った瞬間に響く声で、朱里は
ネフィリムは狙撃に相応しい場所を見定めるため、周囲を見回した。釣られて朱里も辺りを見つめる。
朱里はやっとここが廃墟街であることに気付いた。取ってつけたようなブリーフィングでネフィリムが戦場を隔離地域だと言っていたことを思い出す。
日本政府が入ってはダメ、と指定した総数二百ほどある隔離地域。その内の一つに朱里は立っている。
「ねえ、ネフィリム」
気になった朱里が質問する。
「何ですか?」
「ここって何で隔離地域に……」
ネフィリムはすぐに返答はせず、しばらく周囲を見渡した後に答えた。
「毒ガスです」
「え?」
「近くに化学工場がありまして、そこから有毒なガスが漏れ出たというシナリオで――アカリ?」
ネフィリムが首を傾げる。それもそのはず、朱里は今更手遅れだというのに口を塞いでいた。
真っ青な顔でネフィリムを見上げている。大丈夫ですよ、とネフィリムは微笑む。
「隔離地域は全部嘘です。日本政府のデタラメですよ」
「う、ウソ?」
「はい。ビーストの発生地点だったり、誘導地点だったりする場所。それが隔離地域です。社長も説明してくれたはずですよ」
朱里は忌々しい記憶を思い返す。話半分で聞いていてすぐには思い出せなかったが、確かにそんなことを言っていた。
「言わばここは狩場です」
ネフィリムは歩道橋を見つけ、そこに向けて歩き始める。
「狩場……」
朱里は複雑な胸中のままその背中を追う。
つまり、自分を喰らった魔獣は狩場から抜け出したということだ。朱里は自分から隔離地域に侵入したりしていない。必死になって逃げる途中で迷い込んだのだ。
ますますPHCに怒りを募らせる。とは言え、ネフィリムは別だ。彼女がいなければ自分は死んでいたのだから、感謝こそすれ怒りはない。
「では、狩りを始めましょう。アカリ」
「……う、うん」
歩道橋まで辿りついたネフィリムはにこりと笑った。笑顔でいなければならないと定められているように。
※※※
オペレーションルームで席に座る
彩月の仕事はもうほとんど済んでいる。手前のコンピューターには、自分の担当する二人組、朱里とネフィリムが写っていたが、彩月に助言するつもりは全くなかった。
「マニュアルの範囲外だし」
独り言を呟く。彩月はマニュアル人間だった。マニュアル通りに行えば、例え失敗してもマニュアルが悪いことになる。彩月の責任ではない。文句はマニュアルと作成者に言えばいい。
だから、彩月はマニュアルに書かれていることしか実行しない……一部の例外を除いては。
「調子はどうかい?」
「っ!!」
彩月が驚いて小さく跳ねる。
振り向かなくてもわかった。その声の主は間違いなく例外だった。
心拍数があがり、冷や汗を掻き、小刻みに震え出す。悪寒すらした。
青ざめた顔で、震える声で問題ありませんと応える。
「何一つ、問題は、ありません! 滞りなく狩りは進行しています!」
「そう怯えなくてもいいのに」
黒スーツに身を包んだ西洋人の男――PHC社長は彩月の肩をポンと叩いた。
ぴくりと身体が反応する。恐怖が彩月を支配する。
社長は前方にある巨大モニターを目視した。オペレーションルームでは、各オペレーターにあてがわられた個別のモニターとは別に、全体の狩場を俯瞰する大型モニターが設置されている。
社長はそのモニターを顎で指し、
「見辛いからアレに映してくれないかな」
と言い、彩月は二つ返事で了承した。
モニターに朱里とネフィリムが出撃したD-3地点が表示される。
ネフィリムは狙撃銃を構え、ケルベロスの分離体が姿を現すのをじっと待ち続けていた。
対して朱里は、対人用のピストルを握りしめて不安そうな面持ちだ。
ふぅむ、と唸った社長はもういいよと画面を戻させ、
「彼女の中の怪物……目覚める前に死にそうだ」
呟きながら彩月を見直す。彩月はがたがたと震えていた。
「彼女には借金があるんだ。人は誰しも怪物を飼っている。目覚めて死ぬなら当人の資質の問題だ。そこはどうしようもない。しかし――」
社長は彩月に微笑んでみせる。恐ろしい笑みだった。
「目覚める前に死んだら、一体誰が責任を取るんだろうね」
「ひ、ぁ、ぅ」
もはやまともに声を発せなくなった彩月を残し、社長はオペレーションルームから出て行った。
彩月は凍えているかのように震えている。怖かった。恐ろしかった。
耐え切れなくなって、机の横に置いてあったごみ箱に嘔吐する。気絶しかかる勢いだったが、まだ残る仕事のため気を失うことだけは避けた。
※※※
敵が来たら教えてくれればいいのです。ネフィリムはそう言って朱里を歩道橋の下に待機させている。
どうやら今回は何もしなくて良さそうだ。ネフィリムは狙撃の名手らしいので、敵が接近する前に撃ち抜けるはずだった。
「アカリ、前方に敵を発見しました」
朱里が分離体を目にした時にはもう死体となって、道路を転がっていた。
ネフィリムは正直教育係に向いているとは言えなかったが――今の朱里にはありがたい。
戦い方などわからない。銃の撃ち方すらおぼつかない。
チュートリアルもなしに、いきなり本番へと放り出されたのだ。ゲームならば説明書なしにやるかもしれない。しかし、現実でそんな荒唐無稽なことをする奴はただのバカだ。
「この調子なら、アカリの助力を借りずに済みそうです」
「それでいいよ。戦い方なんて、わからないし」
せめてきちんと訓練してから実戦を――と朱里が願った瞬間、右眼が警告を発した。
――ケルベロスの分離体が後方から接近中。ハンターは装備品を用い、狩猟対象を――。
……討伐する間もなく、ネフィリムがケルベロスの頭部を撃ち抜く。
朱里はほっと息を吐いて、望遠モードでケルベロスを注視した。グロテスク。その一言で片づけられる。
犬の頭に精確な弾丸が撃ち込まれていた。素人視点だが恐らく即死だろう。ネフィリムは魔獣にも慈悲を与える戦闘スタイルのようだ。
「大丈夫みたいだね」
自分に言い聞かせるように呟く。
ネフィリムは三百六十度全方位を警戒していた。前、横、後ろ。どの方角も抜かりなく、監視の目は行き届いている。
朱里は手持ち無沙汰の状態で、何となく左手に持つ拳銃を見下ろす。黒光りの
朱里の中をやりきれないものが巡ったその時。
またもや右眼が、警告を叫んだ。
――警告。狩猟対象が接近中。至急迎撃されたし。ハンターは装備品を用い、最適化された戦略で――。
しかし、ネフィリムは周囲を目ざとく見回しているのみ。接近する敵に気付いた様子はない。
朱里も慌てて辺りに目を走らせた。だが、どこにも姿はない。加えて、右眼はそちらではありませんなどと親切に教えてくれている。
前でも横でも、後ろでもない。では一体どこにいる? 朱里が問いを投げると、
「えッ!?」
「アカリ!?」
アスファルトを掘り起こして現れたケルベロスの分離体が、朱里の右腕に食らいついた。
「は、離して!」
朱里が抵抗。分離体の拘束から逃れようと奮戦するが、大型犬よりも大きい超大型犬は、朱里の右腕を喰い挟んで離れない。
蹴りを何度か当てたが、放してくれない。さらに最悪なことに分離体は朱里を咥えたままどこかへと走り出した。
「うわッ!! ねふぃ、ネフィリム!!」
混乱しながら朱里が叫ぶ。しかし、ネフィリムはスコープで分離体を捉えたまま動かない。
撃てないのだ。朱里が密着しているせいだ。狩人同士の誤爆を避けるため、武器には特殊なロック機構が備わっている。
「アカリッ!! 離れてください! 銃! 銃を使って!!」
「……ッ!!」
言われてやっと、朱里は左手に握る拳銃の存在を思い出した。
無我夢中でケルベロスへと銃口を向け、思いっきり引き金を引く。カチリと音。不発だった。
――セーフティが掛けられたままです。
今更ながら右眼が指摘。朱里は安全装置を外していなかった。
「ッ、何で、何で!!」
理由が理解できたまま朱里は叫ぶ。疑問は安全装置だけではない。世界の、朱里を巻き込んだ全てへの問いだった。
何で、こうなっているの。朱里は恐怖に駆られたまま思考を続ける。
なぜ、なぜ? なぜ! 朱里の思考が進むごとに、ケルベロスもスピードを上げ、ネフィリムの狙撃範囲内から離れていく。
追撃を仕掛けようとしたネフィリムだが、新しく現れた分離体によって妨害されていた。サブマシンガンで歩道橋に昇ってきたケルベロスを穿つ。迎撃に適した
ネフィリムがケルベロスを穴だらけにした時にはもう、朱里は視界から消えていた。
「アカリ! 応答してください、アカリ!!」
ネフィリムが通信を飛ばしても、朱里からの返信はなかった。
朱里はケルベロスに連れられて、爆発か何かで抉れたアスファルトの中にいた。
「ひ、ぃ!」
怪物はあの時と同じように、右腕を食らっている。
右眼は無事だ。きちんと見える。右腕だって問題はなかった。そもそも、問題が起こるはずもない。
もうとっくに、右眼も右腕も喪われているのだから。
「あ、あ」
どう対処すればわからなくて、ただじっと化け物が右腕を噛むのを見つめていた。
HS-27は堅牢な義手だ。ケルベロス程度の咀嚼で砕かれるようにはできていない。
しかし、いつまで持つだろうか。この犬が左腕なら噛み千切れると気付くのはあとどれくらいか。
(どうすれば、いい)
朱里は自分自身に問いかける。返答を返すのは自分ではなく右眼。武器を使って魔獣を殺せ。ただそれだけだった。
だが、朱里が求めるのはどうすれば銃を使って殺せるのかだ。この拳銃カットスロウトは対人用だと言う。体表に撃っても弾丸は跳ね返されると。
ではどこを狙えばいい。朱里は考える。どうやって魔獣を殺すのか思案する。
(敵、ビースト、どうやって殺す? 身体は撃っても効かない。下手に撃てば左腕に狙いが変わるかも。だったらどうする? 殺すには、私が生き残るには)
不思議とどんどんアイデアが出てきて、朱里は取捨選択しながら最適解を探していた。
そう、探しているのだ。思い浮かべているのではない。
朱里は計算しているわけではなかった。方法を読み解いてるわけでもなかった。
穴埋め方式で答えを選んでいる最中だった。リストにはいくつか方法があり、朱里にはどれがどうなってどうすれば生き残れるか、手に取るようにわかった。
右眼が答えを与えているのか? いや、違う。朱里自身が導き出した殺獣方法の数々だ。
「こうすれば、いいんだ」
朱里は他人事のように声を漏らし、右腕をぐっとケルベロスの口元へ押し込んだ。
口に腕を押し込まれて、たまらずケルベロスが拘束を解く。だが、また噛みつこうと襲いかかってきた。
朱里はケルベロスを義手で殴り飛ばし、右手で拳銃の銃杷を握り絞める。左手を使って、セーフティを解除。襲いかかってくるケルベロスに一発撃つ。弾は外れたが、それでいい。
ケルベロスは怒り狂って朱里を喰らわんとしてきた。朱里はあえて右手を差し出す。拳銃を握った右手を。ケルベロスが拳銃ごと義手を咥えこむ。
想定通りだった。朱里は喉奥へと銃口を向けて、闇雲に引き金を引いた。
銃弾がケルベロスの喉を裂きながら内臓物をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。何発撃てばいいかわからなかったので、朱里は弾切れになるまで引き金を引き続けた。
ケルベロスは悲鳴と血を吐き出して、力なく斃れる。スライドの開いた拳銃と血濡れた右腕が露出した。
朱里は呆然と立ち尽くしていた。じっと黙ってケルベロスの死体を見つめていた。
――身体の表面に効果がないなら、内部から破壊してしまえばいい――。
そんな強引な殺しの業を朱里は思いついた。他にあげた殺しの候補の中から選び取った。
ただの少女である彼女が。子どもだった自分が。
「アカリ! 大丈夫ですか!?」
ネフィリムが駆けつけて、朱里が反応する。
月明かりに照らされた顔には、返り血が付いていた。ネフィリムが微笑む。
「ああ、大丈夫そうですね、アカリ。そうやって笑えるのなら、問題はないでしょう」
指摘されて初めて、朱里は自分が笑っていることに気付いた。
自分に五億を請求した男の言葉がよみがえる。
――人は誰しも怪物を飼っている。君の怪物が、君の価値が、僕の想像以上であることを祈るよ。
「ああ、そっか」
朱里は言葉を漏らす。
誰でもない他ならない自分に、言い聞かせる。
「これが私の“怪物”なんだ」
ネフィリムを見やる。彼女は心の底から嬉しそうに笑っている。
彼女は異常者の類だった。いくら生き残れたことが嬉しくとも、ここまで満たされたような笑顔はみせないだろう。
そして恐らく自分も普通の皮を被った異常者だったのだ。自分の中にもおぞましい怪物が眠っていた。
だから、生き残れた。だから、殺せた。
右眼と右腕を喪った少女は、自分の中に潜んでいた怪物の目覚めを悟った。
「アハ、ハハハハハッ」
朱里も笑う。ネフィリムといっしょに。
楽しくてしょうがなかった。生まれて初めての感覚だった。これほど楽しいものなのか。
生きた獣を、自分を殺そうとする敵を、自分の手で殺すということは。
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