第4話 腹に背は代えられないぜ

 またしても久しぶりのつぶやきになったな。

 チワワのわびすけだ。


 最近はお天道様の昇る位置が低いせいか、家の中で日向ぼっこができるようになり、寒い冬でもそれなりに快適に過ごしている。

 その代わりと言ってはなんだが、散歩で外に出る時にはあまりの空気の冷たさに毛が逆立つことも多くなってきた。

 年寄りの俺にとって、過度の気温差は体に障る。

 したがって、最近の散歩のベストタイミングは正午を境にプラスマイナス2時間というところだ。

 この絶妙のタイミングで散歩に行けないときには俺の足取りは重くなり、散歩の楽しさも半減する。

 日が傾いて冷たくなったアスファルトの上を直足で歩くよりも、温められた家の中でぬくぬくと日向ぼっこを楽しむ方が何倍も幸せだ。


 靴や靴下を履けばアスファルトでも冷たくないじゃないかって?

 あんなものは犬が身に着けるものじゃない。

 犬と言うのは全身の感覚を常に研ぎ澄まし、歓迎すべきもの、歓迎すべからざるものを瞬時に見分けて対処するという、集団生活の一員たる使命を負う立場にある。

 己の肉球から伝わる感触、温度、湿度もろもろはその重要な判断材料の一つとなるのだ。


 おっと、また俺の持論を熱く語るところだった。

 肉球の話はまた別の機会につぶやくとして、話を元に戻すとしよう。


 散歩のベストタイミングを厳密に設定している俺だが、俺の設定時間内にいつもご主人が散歩に連れて行ってくれるとは限らない。

 日が傾きかけていたり、薄暗くなったり、俺が気乗りしないようなタイミングになることも往々にしてある。


 本来ならば、そんな時は俺としても拒否権を行使したい。

 玄関先でリードを見せられ、「わびすけー!お散歩行くよー」と声をかけられてもシカトして、ファンヒーターの前でまどろみ続けていたい。

 しかし俺にはそんなご主人の一方的な誘いに抗えない悲しいさががある。


 諸君は「パブロフの犬」という言葉を知っているだろうか。

 そう。犬というのは学習能力の高さ故に、条件反射が顕れやすい生き物なのである。


 俺が何に条件付けされているかって?

 それは“床をトントン叩きながら俺の名前を呼ぶ” というご主人の行為に対してだ。


 俺にいつからこの厄介な条件付けがなされたのか、それは俺にもよくわかっていない。

 ただ一つ言えることがあるとすれば、ご主人に撫でられること、それこそが常に俺にとっての至高であるということだろうか。


 先ほども言ったが、俺は常々犬としてのプライドを持って全身の感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、日々をハードボイルドに生きている。

 肉球にかぎらず、それは体全体の皮膚感覚にしても同様である。

 そんな俺のデリケートな皮膚感覚にこの世で最も優しく応えてくれるのがご主人の手だ。

 温度、湿度、肌触り、マッサージの強さ、すべてにおいてご主人の手に勝る恍惚を俺の皮膚に与えてくれるものはないと断言できる。

(ただし冬場はご主人の指先が少しかさついているせいか、軽い擦れを感じることもままあるが)


 一日に数度、ご主人が俺にスキンシップという至福のひとときを与えてくれる時間がある。

 ご主人が「わびすけ」と俺を呼び、床(カーペットやマットの上が多い)を指でトントンと軽く叩くときがその合図だ。

 そのようにして「ここへ座りなさい」と促された時、俺の脳内にはすでにドーパミンやらセロトニンやらエンドルフィンやら、さまざまな幸福ホルモンがあふれ始める。俺は耳を後ろに倒し、背中を丸めながらもいそいそとご主人の指先が触れた場所まで歩みをすすめる。

 ご主人の腕が伸びてくるのをみとめると、俺はお座りの状態のままご主人にくるりと背中を向ける。するとご主人は、まず俺の長い赤茶色の背毛に指をうずめてマッサージを始めてくれるのだ。


 俺の小さな背中を両手で包み込むようにして、ご主人は肩甲骨まわりを丹念にほぐし、背中の皮膚を上下に動かすようにマッサージをする。

 俺の喉からは図らずも「ぐうぅ」という異音が漏れ、こうべは無意識のうちに下へ下へと垂れていく。

 腿や尻尾の付け根辺りまでくると、俺はたまらず足を崩し、腰をひねりながら床に落として足を開く。それにつられるように上半身も開き、床に仰向けの状態に寝転がる。


 …なんだか官能シーンをつぶやいているような気がしてきたな。

 しかし、これはあくまでも飼い主と犬との間における濃密なスキンシップの描写であることを忘れないでいただきたい。


 俺は生来股関節がやわらかいらしく、仰向けになると両足がきれいに外側に向かって開く。

 ”アジの開き”ならぬ”ワビの開き”状態である。

 その開きの状態になると、ご主人の顔が俺の顔に近づいてくる。

 時に囁きながら、時に口づけながら、ご主人は俺の胸元の巻き毛に指を沈めたり、毛の薄い腹の辺りをやさしくさすったり、脇や耳の付け根辺りを指先でこまかくこすったりする。

 特に俺は四肢の付け根が弱いらしく、そこをマッサージされると自然と手足がピンと伸びて「ぐうぅ」と声を漏らしてしまう。

 もはや俺の目の焦点は定まらず、抜けた歯の隙間から舌が出てくるほど体中が弛緩している。

 こうなると、本来ならば犬が触れられるのを良しとしない脚や指先を触られても、いくらでも好きにしてくれと抵抗する気も起きなくなる。


 こうしてご主人が俺の全身状態を確かめながらスキンシップを終え、静かに俺から離れた後も、俺はこの快楽の余韻に浸り、しばらくは”ワビの開き”のまま虚空を見つめる。

 このまま午睡に入ることも少なくないくらい、俺の心は幸福で満たされるのだ。


 この家に連れて来られてからほぼ毎日、俺はこのような至福の時間を与えられているのである。

 ”パブロフの犬”に成り下がるのはもはや抗いがたい運命にあると言えよう。


 だから今日も明日も明後日も、どんなに日が陰ろうが風が吹きすさぼうが――。

 リードを手にしたご主人に「わびすけ」と呼ばれて床を叩かれれば、俺は脳内に幸福ホルモンをまき散らしながらご主人の指先まで歩み寄ってしまうのだ。


 ここまでを読んだ諸君は、パブロフな俺を嘲笑していることだろう。


 だがな、俺が一筋縄ではいかないチワワであることを忘れちゃいけないぜ。


 俺はちゃんと仕込んであるのだ。




 そう。

 ご主人にも ”条件付け”  をな。




 パブロフなご主人が無意識に反応してしまう条件。


 それは、俺がご主人の目の前で”ワビの開き” になることだ。


 これが発動すると、ご主人はどんなに忙しいときでも抗うことができずに、俺の腹に手をのばしてマッサージを開始してしまうのである。

 特に、ご主人が洗濯物をたたんでいるときなどに至近距離でこれを発動すると、「もぉ~!わびちゃん邪魔しないでよぅ」とぼやきながらも、ご主人は例外なくスキンシップタイムに突入してくれる。


 毎日のスキンシップタイムがあるからこそ、俺はこうして自分の望むタイミングでご主人を誘導することができるようになったのだ。

 俺自身にも多少の条件付けがなされたのは致し方ないとも言える。

「背に腹は代えられない」とはよく言ったものだ。


 まあ、俺の場合は背中よりも腹をマッサージしてもらう方が格段に快感であるから

 わびすけ流に言うならば、「腹に背は代えられない」というところだな。





 *ご主人注:「パブロフの犬」や「条件反射」の解釈について、お詳しい方からは異論が出るかもしれませんが、チワワのつぶやくことだと笑ってお聞き流しくだされば幸いです。


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