第3話 俺の聴覚は諸刃の剣だぜ

 久しぶりだな。チワワのわびすけだ。

 気がつけば前回のつぶやきから陽気はがらりと変わり、俺はすっかり換毛期を終えた。

 羊毛のように柔らかな下毛アンダーコートは密度を増してふわっふわになり、夏にサマーカットとやらで刈られた自慢の胸毛も、くるんくるんの巻き毛としてようやく復活を遂げた。

 冬支度は万全だ。


 久々のつぶやきが許されたのは、ご主人がレンコンをやっと食い終わったからだとかなんとか言っていたな。

 まあ、固いレンコンを食うのに時間がかかるのは仕方ないとして、せっかくの俺のつぶやきの場を放置しすぎなんじゃないかといささか不満に思わなくもない。


 さて、放置されている間、次に何をつぶやこうかと考えを巡らせていたが、今日は俺の武器とも言える、犬並みはずれた聴覚について話すぜ。


 散歩の話でもつぶやいたが、俺は犬のくせに鼻が利かない。

 だから、散歩でもマーキングはよっぽど気が向いたときだけするし、他の奴との挨拶に相手の恥部を嗅ぎまわるという破廉恥なこともしない。

 しかし、犬にとって鼻が利かないということは、ご主人がおやつやフードの袋を開けたときの臭いや、ダイニングテーブルの下にガキがこぼしたわずかな食べかすの臭いを探知する能力に欠けるという死活問題でもある。

 だが、一つの感覚が鈍いと、それを補う感覚が研ぎ澄まされる場合が往々にしてある。

 それが俺にとっての聴覚ということになる。


 俺がどれくらい優れた聴覚を持っているかの実例を話そう。


 ご主人がキッチンで料理をしている。

 俺はウォークスルークローゼットを隔てた寝室でまどろんでいる。

 ご主人が人参を調理しようと冷蔵庫の野菜室を開ける。

 その音で夢と現実の間を揺蕩たゆたう俺の意識が戻る。

 しかしこれはまだ序の口だ。

 ご主人は野菜室から人参を取り出すと、次にキッチンの引き出しを開ける。

 ステンレス製のピーラーをそっと取り出すと、薄くて細い二枚の刃がシャリンと微かに揺れる音がする。


 この音が5メートル以上離れた別室にいる俺の耳には届くのだ。

 俺は三角形の耳をそばだてて、さらに感覚を研ぎ澄ます。


 ご主人が人参にピーラーの刃を当てて、すっと下へ引く。

 シュッと薄い音がする。

 大根でも、じゃがいもでも、きゅうりでもない。

 この人参ならではの音を聞き分けて、俺はキッチンへ猛ダッシュする。


「わびは人参剥いてる音がよくわかるねぇ」

 ご主人は毎度のように感嘆の声を上げて、一片ひとひらのオレンジ色の帯のような皮を俺に差し出すのである。


 俺はそれをくわえてキッチンマットの隅っこに陣取ると、チュウイングガムを楽しむようにくちゃくちゃと味わう。

 大根やきゅうりも悪くはないが、噛みしめて味わうならばやっぱり人参の甘みが最高だ。


 俺の聴覚の鋭さが発揮されるのはこの時だけじゃない。

 留守番を任され、ひねもすのたりのたりと過ごす室内犬にとっては、一日のうちでも希少かつ重要なイベントである”ご主人のお出迎え”にも功を奏するのだ。


 俺の耳がご主人の足音や話し声をとらえると、俺は一目散に玄関に走って行く。

 玄関マットの上で、さもずっとここで待ってましたよと言わんばかりのお座りをして待機する。

 ほどなくして玄関の鍵が開き、ドアが開いてご主人の顔が見えると、俺はできる限り瞳を潤ませてご主人の帰宅を健気に待っていた忠犬を演じる。

 そんな俺を見ると、ご主人はまんまと騙されて「わびちゃん、ずっとそこで待ってたの!?」と感激のもふもふタイムにすぐさま突入してくれるのだ。

 これには俺も(しめしめ)とほくそ笑まざるを得ない。


 …とまあ、ここまでは俺の聴覚によってもたらされる恩恵を挙げたわけだが、実はこの鋭敏な聴覚というのは俺にとって諸刃の剣でもある。


 微かな音に気づくということ。

 それはまた、大きな音が鼓膜を震わせるときには、その振動がとてつもない威力となって俺の内耳神経を直撃しているということでもある。


 金属やガラスなどの硬質なものが落下したりぶつかったりしたときの衝突音。

 風船が割れる破裂音。

 ご主人の実家に行ったとき、ご主人の父親が突然発する大きなくしゃみ。


 こういった突然の騒音に襲われると、俺の内耳神経はビリビリと破れそうな鼓膜の振動を瞬時かつダイレクトに脳に伝え、脳が揺さぶられたかのような衝撃を味わう。

 体がビクンと強ばったかと思うと、ストレス物質が体のいたるところから噴き出し、瞬時に後ずさりしてしまう。

 他の犬がさして驚いている様子を見せないときですらこんな調子なのだ。

 そんな様子を見た奴らが俺をビビリだと思って鼻で笑うのが癪に障る。

 俺は断じてビビリなのではない。

 聴覚が敏感過ぎて、あまりの刺激に生存本能が働くだけなのだ。


 そして、こんな俺の生存本能をもっとも脅かす出来事も、また聴覚が大きく関係している。


 俺がこの世で最も恐怖を感じる瞬間――

 それは、ご主人の怒号がとぶ時である。


 最近は俺も丸くなって叱られることも減ったが、とんがっていた頃はちょいちょい声を荒げて叱られることもあった。

 俺は空気の読めるタイプだと自負があるので、ご主人が不機嫌そうな声を出しているときにはすでにヤバイ雰囲気を十分察知して身構えている。

 しかしやはり「こらーっ!」と一喝されると、聴覚を通して音によるダメージが真っ先に与えられてしまうのだ。

 体を硬直させ、耳を後ろに倒し、背中を丸め、できるだけ視線をそらす。

 これが俺の防御の姿勢であり、これ以上の怒号は勘弁してくださいというアピールなのだが、怒りの頂点に達したときのご主人にはまったくもって通じない。

 そんなとき、俺はたいがい体をひっくり返されてご主人にマウントの姿勢をとられてしまう。

 丸い目をさらにひんむいて目を反らす俺をのぞきこみながら、ご主人は「ウウー」と母犬の真似をして唸る。

 この唸り声もまた鼓膜にビリビリと響くと同時に、俺が幼い頃にブリーダーの元でしのぎを削っていた頃の記憶を思い起こさせる。

 いずれにせよ、怒号も唸り声も俺の聴覚と精神に多大なるダメージを与えるのである。


 それほどまでにご主人の怒りは俺にとって恐ろしいものなのだが、なぜ俺は同じ過ちを繰り返し、そのたびに叱られるのか?

 それはもう、男のさがとしか言いようがない。

 男というのは謝罪はしても反省はしない生き物なのだ。


 まあそんなわけで、俺は今日もこの諸刃の剣を耳に携えつつ、一見穏やかな生活の中に緊張の糸を張りながらハードボイルドに生きているのである。


*****


(ご主人注:わびすけが勘違いしているレンコンとは、カクヨムの恋愛小説コンテストのことです。おかげさまで『うんりょーのコイビト♡』完結いたしました!←プチ宣伝)




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