side3 氷に閉じ込めた花

 わたくしは春宮妃になるはずだったのに。

 そしていずれは中宮となり、国母となるはずだったのに。

 人々の羨望の眼差しを受け、女性として最高の地位を得るはずでした。


 それなのに父が持ってきた縁談相手は春宮さまではありませんでした。

 結婚相手は4歳も年下の男子でした。しかも皇族から臣下に下った貴族です。わたくしたちのように藤の一族でもございません。


 わたくしは藤原一族の長女に産まれ、春宮妃として後宮に上がるために育てられました。必要な行儀作法、教養も身につけました。


 わたくしが春宮妃となり皇子を産みまいらせ、その皇子がいずれ帝位につくことになれば、何よりもこの家の繁栄につながります。

 女性のわたくしにできる父や家を栄えさせる方法です。


 そのための努力は惜しまなかったつもりです。


 いつから春宮さまの元に嫁ぐ予定ではなくなったのでしょう。

 主上うえさまと父とのあいだでお話があったのでしょう。

 春宮さまのすぐ下の弟である二宮と結婚することになったのです。

 しかもその二宮は皇族を離れ臣下に下ったのです。


 必要以上に華美ないでたちに整いすぎている顔立ち。

 皆から人気があることを自分が一番知っている。

 才能にも美貌にも恵まれていて、自分に好意を抱かない人間などこの世にいないと思っているのでしょう。


 どうして?

 どうしてわたくしがこの少年と結婚しなければならないの?

 4歳も年下の12歳だなんて。

 妃にも中宮にもなれない。

 家を栄させることも父の役にも立つこともできない。


 わたくしたち貴族は、特に娘は自由に恋愛などできません。家長の決める相手に嫁がねばなりません。


 愛は必要ないのです。背の君に添い、支えて、家の繁栄に尽くすだけです。


 とはいえこのような少年にどう接すればいいのでしょう。まだ12歳なのです。くったくのない笑顔で話しかけられたりしても答え方など知りません。たとえ花の咲くような微笑みで、歌うような声であっても。


 東宮妃になるはずだったのです。

 年下の少年のお守りをするのではありませんでした。


 結婚したとはいえ、通い婚なので夫のいない日もあり、正直そんな日はほっとします。

 夫と過ごしたくない言い訳を考えなくて済みます。


 夫は宮中で暮らしていたので、何かと宮中の話をします。華やかな儀式や行事のこと、仕える人々の優美な様子などです。


 わたくしが入内して上がるはずだった宮中です。

 もうそんな行事や宮中など見ることも叶わないのに。聞きたくもありません。

 わたくしが自室に籠もったあとは女房達が話し相手をしています。見目麗しい評判の光源氏のそばに仕えることができるのを女房達は喜んでいるようです。楽しそうな歓談の声が聞こえてきます。

「とてもお優しい方ですよ。姫様もいらっしゃればよろしいのに」

 そんな風に女房達が言いますが、今さら歓談の輪に交じるなどできるはずもありません。


 通例として主上さまはじめ皇族も貴族も多重婚です。夫にも他にも通いどころがあるようです。わたくしのところにも噂は聞こえてきます。先の春宮さまの未亡人や身分の卑しい町の女などの他に最近は夫の自宅の二条院にも囲っている女性がいるようです。

 愛人が何人いようともかまいませんが、自宅に住まわせている女性とは結婚するつもりなのでしょうか。わたくしはカタチばかりの正室でそちらを愛しているのでしょうか。いずれはその女性を正室にするのでしょうか。わたくしは「通いどころ」になってしまうのでしょうか。


 春宮妃になることも叶わず一貴族の正室になり下がったのに、その正室という立場すらも追われることになるのでしょうか。しょせんわたくしとは親同士が決めた結婚でそこに愛など存在しないのでしょう。お互いに。


 12歳だった少年もいつしか大人の男性に成長しました。美しい顔立ちはますます光り輝き、微笑みも会話もどこか甘やかで、華やかな雰囲気は女房たち女性だけでなく人びと皆を魅了しています。

 そっけない態度でいるわたくしにも彼は話しかけてきます。けれどももうその頑なさを崩すことができません。どんな風に受け答えすればいいのかわかりません。

「もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないですか?」

 そんな風に言われれば言われるほど優しくできるはずもありません。優しくするということはどういうことなのでしょう。女房達のようにはしたなく笑うことでしょうか。愛人達のように簡単に肌を合わせることなのでしょうか。


 父や兄との宴で披露される夫の琴の音が聴こえてきます。魂が揺さぶられるような音色です。とても美しいのです。心に、染みわたってきます。あの琴を、私の前で弾いてほしい。あなたの琴を聴かせてほしい。そう素直に言えたなら少しは私達の関係も改善されるのでしょうか。

 でもそんなことは言えません。

 何がいけなかったのでしょうか。

 どうしたらよかったのでしょうか。


 春宮妃だとか正室だとかそんな立場や身分にこだわらず目の前にいる夫とひとりの人間同士として接すればよかったのでしょう。優しく話しかけてくれていたのにわたくしは応えようとしませんでした。

「絵はお好きですか?」

「めずらしいお菓子を取り寄せましたよ」

 わたくしとの接点を探ろうとしてくれていたのにどんな声かけも拒み続けました。


 今夜は父の催す宴会に夫も来ておりましたが、わたくしのところには立ち寄らず帰ったそうです。今頃は愛人のところでしょうか。それとも自宅の女性のところでしょうか。結婚当初は夫が来ない夜は安堵していましたが、今は苦しくてなりません。そうかといって来訪があったらあったでまた苦しい想いをするのです。

 何にも応えずすべてを拒み、わたくしは彼に背を向けるのです。


 たったひとつの望みさえ口にできません。




 勇気を振り絞って切り出してみたら……。

 あの人は願いを叶えてくれるでしょうか。


 琴のことを。

 あの人はわたくしの為に琴を奏でてくれるでしょうか。

 



 ふわりと舞い降りる雪が庭の白い牡丹の花に積もります。

 ふわり

 ふわり

 わたくしの小さな世界を白く覆い隠し冷たく凍らせます。


 いつまでもわたくしの心は冬のままです。


「姫様、殿が今夜参られます」

「体調がよろしくないのでお会いできないとお伝えして」


 春の訪れることのない

 氷下の蕾


 花開くことは

 おそらくきっとないでしょう。





 ◇サイドストーリーⅢ   葵の上side

 氷に閉じ込めた花

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