side2 光ふりそそぐ橘
今年も橘の花の季節がやってまいりました。
「花散里」と彼が私を呼ぶようになったきっかけの花でございます。
柑橘の爽やかな香りが部屋の中まで漂ってまいります。
今夜は彼が来てくれるようです。
彼と過ごす年月もずいぶんと長くなってまいりました。
わたしの人生のほとんどは彼と共にありました。
そうは言ってもわたしは彼の正室ではありませんし、彼が足繁く通ってきてくれるとも言えません。ほほ、別に卑下しているわけでもひがんでいるわけでもありませんのよ。
誰もが憧れる光る君。
誰もが恋する光る君。
わたしには特に自慢できる容姿や才能がございません。
染物だけは褒めてもらえることはありますが、その程度です。
そんなわたしがあの光り輝く彼と人生をともにするだなんて、思ってもいないことでした。
優雅で美しい彼の奥さまがたを見るにつけ、よくぞ同じ六条院に妻として住んでいるものだと自分で感心してしまうほどでございます。
わたしの姉は桐壺帝に入内した
わたしも姉の側におりましたし、彼もその頃は桐壺で暮らしていましたが、だからといって接点などあるはずもなく、皆が憧れ褒めそやす彼をそうっと遠くから眺めているだけでした。
彼が姉のところにご機嫌伺いに来る折などに雲の上の存在の彼と話をするようになりました。すると貴公子の彼にひとりで抱えている陰のようなものを感じるようになりました。美貌にも才能にも恵まれた彼には人に打ち明けられない陰がある。哀しみがある。そばにいてあげたいと、守ってあげたいと思うようになりました。
それに臣下に下ったとはいえ、帝の皇子であるにもかかわらず、高貴な人にありがちな気取った感じや高慢な態度が彼にはなかったのです。とても親しみやすいお人柄で楽しいひとときを過ごしていると、ふと彼の身分や凡人であるわたしと不釣合いなことなども忘れてしまうほどでした。
一緒にいると楽しくて
一緒の
彼が帰ったあとも幸せで
また逢える日まで楽しみで
そんな風に幾年も過ごしてまいりました。
彼が大豪邸六条院を落成させたときに、まさかわたしをその中の御殿に住まわせてくれるとは思いもしませんでした。春の御殿主は誰もが「一の人」と認める紫の上さまです。秋の御殿は彼の養女である秋好中宮さまの
夏の御殿を賜るなんて本当に驚きました。彼のお子である夕霧さまの母親代わりをさせていただいたいるからかな、とは思いますけれどね。
夕霧さまは彼にそっくりのお顔立ちなのです。お若い夕霧さまはまるで出会ったころの彼そのものでした。わたしのことを母と慕ってくれます。わたしには実子がおりません。彼は子どもの成長を見守る幸せまでわたしに与えてくれました。
菖蒲の青が泉のほとりを縁取り呉竹の笹が風の音を奏でます。また橘の香りが流れてきました。
「殿がお渡りです」
先導の女房がやってきたようです。
何年経っても
やはり胸が高鳴ります。
何をお話しようかしら。
こうして彼を迎える幸せ。
また彼は「あんまり来れなくてごめん」だなんて言いながら入ってくるんだわ。
とっても嬉しいのに。
謝ることなんてなにもないのに。
「あんまり来れなくてごめんね」
想定通りの彼の来訪にわたしはとびきりの笑顔で出迎えます。
「なにがそんなに可笑しいの?」
うふふ。笑わずにはいられないわ。
「あまりに幸せだからよ。光る君」
ふふふふふふ。
これ以上ないくらいに幸せよ。
わたしも少しはあなたに幸せを差し上げることができているのかしら?
わたしにはなくてはならない光。
いつまでも。
この光がふりそそがれますように。
いつまでも。
この花の香りを届けられますように。
◇サイドストーリーⅡ 花散里side
光ふりそそぐ橘
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