第3-2話 達也が残した最期の言葉、お母さんありがとう。

 今朝、無情にもバス会社から、バスの修理代の請求書が届いた。

 修理代の160万円は、到底払える金額ではなかった。


 そして、翌日。

 事故後、3日目を迎えた朝だった。

 達也は意識を取り戻した。


 一命を取り留めたのだ。

 医者は言った。

 「奇跡が起こりました。まだまだ予断を許しませんが、ひとまず安心でしょう。脳に損傷を受けていますので、もしかすると後遺症が残るかもしれません」


 切開手術を受けた頭部の経過は思わしくなかった。

 頭部の出血は、いまだ治まらず、状況がどう転ぶか先が見えなかった。


 「頭が痛いよう。頭が痛いよう」

 時折くる猛烈な頭痛で吐き気を催し、達也は胃液をこれでもかというほど吐いた。意識障害の兆候も続いた。


 達也は母親を見つけるなり、

 「ごめんなさい。ごめんなさい」

 そう言って泣き崩れた。


 「頭が痛いよう。頭が割れるように痛いよう」

 「なんであんなことしたの? お母さん、バス会社から訴えられてるんだよ」

 光代の頭にあったのは、お金の心配だけだった。


 ドッチボールのようにパンパンに腫れ上がった達也の顔。

 瞼は紫色に変色し、目は真っ赤に充血していた。


 達也は懸命に目を見開こうとして気付いた。

 右目の視力がない。


 「お母さん、どこ? どこにいるの?」

 「どうしました? 大丈夫ですか? お母さんはここにいますよ。どれ、私の指が見えますか?」

 居合わせた医者が達也の視力を調べ始めた。


 光代はさすがに医者を前にしてまずいと思ったのか、達也の手を握り、優しい言葉をかけた。


 「かわいそうな達也。この子はいったいどうなってしまうのでしょう」

 光代は医者の前で嘘泣きを繰り返した。


 そして2時間が過ぎた。


 「お母さん、あの人と結婚するの?」

 光代の方に顔を向け、達也が言った。

 光代は頷いた。


 「もうじき、おまえのお父さんになるんだよ」

 「そう、よかったね」

 達也は苦しそうに顔をゆがめながら、そう言った。


 「これでぼくも安心だよ」

 そして、ふーっと息を吐き、光代に向けて微笑んだ。

 親子水入らずで話をするのは、本当に久しぶりのことだった。


 「お母さん、いつだって、ぼくが味方だよ」

 達也は、あふれた涙を拭おうともしなかった。

 何かを伝えようと必死だった。


 「お母さん、ぼく、生まれてこないほうがよかったの?」

 達也は震える唇で言葉を紡いだ。


 「お母さん、ぼく、死んじゃうの? もうだめなの?」

 達也が咳き込む。

 それと同時にコップ一杯ほどの血を吐いた。


 血だらけになりながらも、達也は懸命に母親に何かを伝えようとしていた。

 光代は慌ててナースコールのボタンを押した。

 「もういいから、何も言わなくていいから」

 達也は、やめなかった。

 しゃべるのをやめようとしなかった。


 ぶるぶると寒さに震えながら、精一杯の言葉で母親に何かを伝えようとした。

 「お母さん、ぼく、星になる。ぼくは星になってお母さんを照らすんだ。ぼくがお母さんを守る。じいじと、ばあばが、こっちにおいでって言ってる」

 達也の祖父母は昨年の夏、達也が3才のときに亡くなっていた。


 達也は啓介の連れ子のことを気にかけていた。

 啓介には達也と年の変わらない連れ子が1人いた。


 「ぼく、お母さんの子供でよかったよ」

 達也は涙を浮かべていた。


 「ぼく、もう行かなくちゃいけないね」

 1つの小さな命が、終わりを迎えようとしていた。

 達也の手から力が抜けていく。


 光代が握った達也の手から、力が抜けていく。

 光代は言葉をかけることができなかった。


 「お母さん、いままでありがとう」

 それはそれは小さな、かき消されるような声だった。


 何かを言おうとして達也は言葉を飲み込んだ。

 そしてまた、血を吐いた。

 看護師が慌ただしくベッドを移動し始め、光代もそれに付き添う形で廊下を足早に歩いた。


 「お母さんの手、あたたかいね」

 光代は握りしめた達也の手を何度もさすった。

 その手が思った以上に冷たくて、体の一部でないようにさえ思えた。


 達也が手術室へ入っていった。

 《ぼく、生まれてこないほうがよかったの?》

 達也の言葉が胸に響いて仕方なかった。


 光代は電話で啓介に報告した。

 そして達也の命が燃え尽きようとしていることを正直に伝えた。


 「達也、ごめん」

 光代の瞳からひと筋の涙がこぼれた。


 私は母親である前に、1人の女でいたかった。

 私は子供を愛せなかった。


 もちろん精一杯の努力はした。

 でも別れた夫の思い出であるあなたを許せなかった。

 その、何がいけないというの。


 自分に正直に生きて、何が悪いというの。

 私にはこうするしか道がなかった。

 だからあなたに辛く当たった。


 別れた夫と似ているあなたが、どうしても許せなかった。

 「達也、ごめんね」


 光代は病院のソファーで一夜を過ごした。

 静かに、ただゆっくりと時間が流れた。

 これほどまでに静かな時間を光代は経験したことがなかった。


 思えば、いつもイライラしていた。

 何かに当たり散らさずにはいられなかった。


 光代は病院のソファーにもたれ、目を閉じた。

 いろいろなことが思い出された。

 その多くは、達也を叱り飛ばしている場面だった。


 光代は、なかなか眠ることができなかった。

 そして明け方近く、達也は冷たい体になって戻ってきた。

 ひどく青ざめた顔をしていて、苦しんだのか、口元がゆがんでいた。


 「4月23日、午前2時20分、死亡を確認しました。ご臨終です。精一杯手を尽くしました。達也君は頑張りました。医療の力が及びませんでした。お悔やみ申し上げます」

 医者が光代に頭を下げた。

 1つの命が今、燃え尽きた。


 達也は遺体安置所に移され、光代は自宅へ帰ることを許された。

 達也が死んだという実感はなかった。


 光代はタクシーに乗り、自宅であるアパートに戻った。

 部屋に入るなり達也の机の前まで歩む。

 そして机の上を静かになでた。


 読みかけの幼児雑誌が机の上に数冊置かれていて、いつ達也が戻ってきても大丈夫なようになっていた。


 光代は何か達也に伝え忘れているような気がして、机の引き出しを開け、中に入っているものを1つずつ取りだしては手で優しく包んだ。


 色鉛筆。

 消しゴム。

 定規。

 ハサミ……。


 引き出しの中は殺風景で、底には新聞紙が敷き詰められていた。

 引き出しの奥から《知恵の輪》が3つ出てきた。

 達也がよく遊んでいたおもちゃだった。


 光代は3つの知恵の輪をポケットにしまい、タクシーを呼んだ。

 そして、すぐにまた病院へ向かった。


 遺体安置所で眠る達也は、苦しんで、苦しんで死んだ人のような表情をしていた。光代は《知恵の輪》を1つポケットから取りだし、静かに達也の横に置いた。


 残った《知恵の輪》のうち、1つは棺桶の中に入れ、1つは形見として取っておくつもりだった。


 遺体安置所を出た光代は、葬儀屋に連絡し、葬儀の手はずを取った。

 荼毘に付すのは2日後と決まった。

 どんなに愛されたくても愛してもらえない子供がいて、子供を愛したくても愛せず、十字架を背負った女がいる。光代は、何をどうすればいいのか、わからなくなっていた。


 気付くと《知恵の輪》が手の中にあり、光代はそれで遊んでいた。

 光代は達也が産まれたばかりの頃のことを思い出していた。


 家族に望まれて誕生した達也。

 いつからボタンを掛け違えたのか。


 光代も我が子を大事に育てる、ごく普通の、ありふれた母親だった。

 それがいつからだろう。

 自分は変わってしまったのだ。


 「たっちゃん」

 光代は、つぶやいた。

 生まれたばかりの頃、光代は達也のことをそう呼んでいた。


 あの頃は幸せだった。

 待望の長男が生まれて、家族団らんで、夫も優しかった。

 貧しかったけれど、互いにいたわり合って、みんなが家族を1番に考えて、そこには切っても切れない絆が生まれていた。


 親は子供を愛し、子供も親の期待に応えようと必死だった。

 それがなぜ……。


 病室の整理を終えた光代は、ふと手を止めて病室を見回した。

 もう詰め込むものがないというのに、なぜかここから離れたくない思いでいっぱいだった。


 病室に差し込む太陽の光が光代の横顔を照らした。

 一輪挿しの黄色い花が、太陽の光と重なり、一瞬輝いて見えた。


 光代の瞳からひとしずくの涙がこぼれ落ちた。

 どうして涙がこぼれるのか。

 そのことにどんな意味があるのか。

 自分でもよくわからなかった。


 別れた夫に未練があるのは確かだ。

 好きだからこそ結婚したわけで、けれどもうまくいかず、裏切られたという気持ちだけが強く芽生え、その思いが息子を不幸にした。


 たっちゃん、もう苦しまなくていいんだよ。

 光代は目を閉じた。

 そこにあるのは優しいまなざしをした、かつての夫と、達也の姿だった。


 光代は過ぎ去りし日に思いをはせた。

 初めて気付かされることが幾つもあった。


 夫に対して思いやりがなかったこと。

 子供と向き合おうとしなかったこと。

 どれ1つを取っても後悔しか浮かばない。


 夜を迎えた。

 空に三日月が浮かんでいた。

 それは哀しい色をした帽子のような月だった。


 達也は《お母さんの子供でよかった》と、最後にそう言って光代を慰めてくれた。家に戻った光代は、ずっと、上の空だった。


 テレビをつけても、その音が雑音のように感じられて、なぜか時間をもてあました。心の中がざわつきだし、達也が部屋にいるようで息苦しくなった。


 達也がなぜあんなメッセージを自分に向けて残したのか。

 その理由ばかり考えていた。


 光代はその夜、数年ぶりに、かつての夫と連絡を取り合った。

 達也が事故死したことを告げ、2人で葬式の打合せをした。


 達也の形見となった真っ赤な三輪車。

 それを光代は玄関に飾った。


 居間に戻った光代が明かりを消し、窓を開ける。

 夜の風が室内をゆっくりと巡っていく。


 人はいつか滅する。

 死を迎えた達也がなぜこれほどまでに自分に影響を与え、苦しめるのか、光代にはその理由がわかり始めていた。


 暗闇の中で瞳を閉じる。

 朝を迎えようとしていた。


 ただ感じるままに光代は天を仰いだ。

 夜の闇にまみれてカーテンだけが静かに揺れていた。

 光代が達也を感じた瞬間だった。

 《3話へ続く…ここで終わりではありません》

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