第1-2話 人が生きていくうえで小さな無数の命が犠牲になっていること忘れないでほしい。

 ぬるめのお湯を浴びた牛は、それはもう夢見心地で、早くごちそうを食べさせてくれと、せがんで鳴いた。


 牛は次々と狭いゲージに順番に並べられ、まだ解体の終わっていない50頭の牛の後ろに並んだ。


 辺りには生肉のなんともいえない生臭い匂いと、甘い血の香りが立ちこめた。尋常じゃない悲痛な叫び声を上げる子牛もいた。


 少しずつ牛が前に進み、15分くらい間隔を置いて5メートルほど前に進む。牛たちは自分たちが死の行進をしていることに気付くこともなく、ただ赴くまま自分の順番が近づくのを待った。


 牛が気を失って、どすんと倒れる音が10分おきくらいに響き、時々いやな叫び声がこだました。


 やがて4時間が過ぎ、とうとう花子の順番が巡ってきた。

 狭い通路のダーティーゾーンに押し込められた花子は、通路を前に歩くように従業員の男に促された。


 目の前を歩いていた牛がドスンと倒れる音がして、花子は後ずさりした。


 グギー。

 ギャー。


 半狂乱の声が2メートル前の通路から聞こえてきて、花子は首を振っていやいやをした。殺されるかもしれない。いやだ。わたしは死にたくない。


 半狂乱の花子は、ついたてを蹴り飛ばそうとして場外に出ようとしたけれど、金属でできた鉄の板は、びくともしなかった。


 鼻ぐりを誘導レールにつながれた花子は、狭い鉄製の囲いの中に、ぎゅうぎゅう詰めに押し込められ、手足の自由を奪われた。気絶させるために狭い通路に追いやられる花子。


 花子は狭い空間に閉じ込められ、そこで数分を過ごした。

 待ち時間に怯える花子。


 これから、何が起きるのだろう?

 しかし、もはや、ここまできてしまっては、どうにもならなかった。


 目の前には目が血走った40代の若者がいて、手に黒光りする銃のようなものを持っていた。その男が麻巳子と離婚したばかりの長尾政だった。


 身動きが全くとれない状態で、花子のひたいに銃があてがわれた。

 花子が懸命に、いやいやをする。


 「悪く思うなよ、エイメン」

 政が短く、さよならの言葉を告げ、やがて運命の時が訪れた。


 牛はノッキング・ガンでノッキングされ、花子は手足を痙攣させて、その場で床に崩れ落ちた。ものすごい音がして、やはり後続の牛も後ずさりした。


 花子の後頭部、延髄の部分に素早くナイフがあてがわれ、血があふれかえるように吹き出た。流れ出る血液はヤケドするほど熱く、ものの数分で花子は失血死、即死した。


 動脈を切られた花子は放血し、床に血のかたまりをつくり、手足をピクピクと痙攣させた。


 前足と角を電動ノコギリで瞬時に切断され、後ろ足を天上のレールに吊すような形になった花子は、もう既に息をしていなかった。


 手をだらんと下げ、下向きに吊された花子は、哀しいかな、コンベアーの流れ作業に乗った。


 むかしはハンマーで鼻を叩いて失神させたり、鉄の棒が飛び出すピストルで鼻を撃ち抜いたそうなので、それを思えば気を失った一瞬で精肉される牛は、痛みも少なく、よいのかもしれない。


 花子の手足は、まだブルブルと震えていた。

 大きく足をばたつかせて歩くような仕草を繰り返す花子。


 四肢を痙攣させ、それでも歩くような仕草を懸命に繰り返した。これは脊髄反射によるものらしく、既に意識はなく、苦痛も感じていない状態らしい。


 動脈切開の際、消化器官に入っている未消化のエサが逆流しないよう、食道バンドで消化器官を二重に、くくった。これから先は、牛は両足を吊された状態で作業が進められる。


 床や壁には一切触れないので、雑菌がつく心配はなかった。吊された牛は、すぐさま、エアーナイフで皮をひんむかれ、スチームバキュームで洗浄され、次の工程であるクリーン・ゾーンに送られた。


 チェーンソーで首を落とされ、落とした首から脊髄を吸引し、頭部はすぐさまBSE検査に回された。


 肛門をナイフで裂き、腸の先をまたバンドでくくり、更に次の工程に回す。これは腸の内部にある糞が、外部に流れ出るのを防ぐためで、次いで内臓を摘出する作業が待っていた。


 白物と呼ばれる胃や腸を全摘出し、次いで赤物と呼ばれる心臓、肝臓、肺を体から取り出す。こちらも焼き肉店用に卸され、貴重な食材となる。


 そして最後に花子は電動ノコギリで背割りされ、真っ二つとなり、枝肉、精肉となった。その間、わずか35分の出来事でした。


 ひんむかれた牛革は、ベルトコンベアに乗せられ、鞄や靴などをつくる製造業者へと格安で引き取られていく。皮は、ひんむかれたというのに、まだピクピクと動いていて、何か不思議な生き物を思わせた。


 無駄なものは何ひとつなかった。

 すべて食料、油、革製品。


 食べられない部位は猫の缶詰。ドッグフードに生まれ変わった。

 ナイフを扱う作業なので、ときどき誤って人間が指を切断したり、骨折したりすることもあったけれど、それは稀な出来事で、滅多に起きることではなかった。


 花子は残留毒素の検査を受け、肉から医薬品、過剰なホルモン剤が検出されなかったのを確認したあと、翌日、食卓に並ぶことになった。


 乳牛は肉が固いので、ハムやソーセージの原料になるが、花子は黒毛和牛なので加工されず、そのまま精肉となり、店頭に並ぶことになった。


 メタボぎりぎりに育てられた北京ダッグやフォアグラのように。

 霜降り和牛も、牛にとっては、甚だ迷惑な話なのかもしれない。


 運動をまったくさせてもらえず、ただ高カロリーな食べ物を際限なく与えられ、人工的に、メタボぎりぎりの霜降り肉を作り出す。


 肉を軟らかくさせるために牛は去勢され、扱いやすいようにという理由で、人間が怪我をしないためにつのを切り落とされる。


 やがて人類は癌や病気から身を守るため内臓移植用にクローン人間を1人1体、持つ時代が訪れるという。


 胃がんや肝臓癌を患ったオリジナルである患者が、言葉をしゃべれない自分のクローンから肝臓、胃、目玉などを取りだして移植する日が,近々訪れるのではないかと医療従事者の中では言われている。


 誰の世話にもならず、誰にも迷惑をかけず。自分の力だけで今を生きる。そう思うのは勝手ですが、それは思い上がりというものではないでしょうか?


 生きたくても生きられない命があるということ、犠牲になる命があること、心の隅でいいから知っておいてほしいと思う。


 動植物の悲しい宿命。

 死を直前に控えた悲痛な叫び声。

 それらが、けして無駄にならないためにも、命ある限り人生を諦めないでほしいと思う。


 あなたの命を明日へとつなぐために、犠牲になる無数の命がある。

 人は何かの犠牲の上に成り立っていること。

 人は生かされていること。

 どうか忘れないでください。


 花子は成仏した。

 人々の記憶に残ることは、ありませんでしたが、人々の血や肉となり、その魂を受け継がれた。


 《第1章、完…第2章 迷い犬、ポチの涙へと続く》

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