第2章 迷い犬、ポチの涙。

第2-1話 愛か死か!家族の絆、殺処分についてのお話。


 《第2章 迷い犬、ポチの涙》 


 大崎夫妻はお昼の煮魚定食を食べ終え、デパートのペットショップの前、ショーケース前で佇んでいた。


 透明なガラスケースの中には、生後、間もないダックスフントが寝そべっていて、布でできた小さなボールで遊んでいた。


 ほかには鼻のつぶれたフレンチ・ブルドッグ。

 きれいに毛を刈りそろえられたヨークシャー・テリア。

 銀塩の体毛を持つ、プードル。

 頭にピンク色したリボンをつけたメスのシーズー。

 コリコリをむしゃむしゃ食べているチワワ。


 白い体で左目の周りだけが黒いブルテリアがそれぞれ、ショウケースに入れられ、時間をもてあましているかのような目で通り過ぎる買物客を眺めていた。


 白いマルチーズは眠っていて、大崎夫妻の問いかけにも応じないほど、熟睡していた。


 その中に1匹。

 見るからに人なつこそうなダックスフントがいた。 


 「あっ、かわいい。こっちを見てる」

 祥子が言い、昇の顔をまじまじと、のぞき込んだ。


 大きな愛らしい瞳で祥子の瞳を見つめるダックスは、元気もりもりで寝転がり、まだら模様の、ちょいポチャな腹を横にして、シーツの上で遊んでいた。


 「飼いたいな~」

 祥子がもう一度、昇の瞳をのぞき込む。

 

「うちにはポチがいるだろ」

 昇が、すかさず駄目出しをする。


 祥子は老犬のポチを頭に思い浮かべ、

 「ポチか。私、ポチきらい」

 何やらひとり言を言った。


 隣町の川原で拾ってきた、老犬、ポチは、うちに来て既に15年経過していた。見るからに老いぼれていて、人間でいえば70歳くらいか。雑種で、人間の問いかけにも応じないほど、耳も目も、既に、もうろくしていた。


 「ねえ、あのダックスフント、飼おうよ。さっきからじっと私の目を見てる。なんか運命、感じるな」

 祥子は言い出したら聞かない性格をしている。


 大崎夫妻は結婚して20年を迎えた。

 結婚記念日に、犬を買おうというのが、祥子の提案だった。

 2人に子供はいなかった。


 「ポチの弟か。悪くないけど。犬、2匹もいらないんじゃね」

 昇はショーケースに貼られたプレートの情報から、ダックスフントがオスで、産まれて2ヶ月であることを知った。愛くるしい眼差しで祥子を見つめるので、祥子は既に、メロメロだった。


 「私、ポチきらい。なんかちっともなつかないもの。飼うなら小型犬がいいって前から決めてたんだ」


 「そんなこと言って、ポチどうするんだよ。老犬だぜ」

 祥子の言いたいことが昇には飲み込めなかった。


 「ポチが死ぬまで飼っちゃいけないっていうの? それまで大好きなダックスフントを飼えないなんて生き地獄だわ。こっちが、おばあさんになって、2度と動物を飼うことができなくなってしまう。いい考えを思いついた。どこかにポチを放してあげない? 犬も死ぬ間際くらい自由を味わいたいんじゃないかしら。いつも鎖につながれて自由を奪われる生活なんて、かえって残酷じゃないかしら」

 その日はそれで終わった。


 翌週、昇と祥子は、懲りもせず、またペットショップのショーウインドウを眺めに行った。隣にいたコーギーは販売予約の札がついていて、お目当てのダックスフントは相変わらず布製のボールに、じゃれて遊んでいた。


 「このままじゃ、マー君、売れちゃう。どうしたらいいの?」

 「マー君って誰?」

 昇が祥子に問いかける。

 祥子は小型犬ダックスフントに既に名前をつけていて、飼う気まんまんだった。


 「ポチはさあ、山に放してあげようよ。それがさあ、一番幸せだと思うよ。鎖につながれて自由を奪われて。こんなの幸せとは言えないんじゃないかしら?」

 昇も、それもそうだな、と半分納得して祥子の次の言葉を待った。


 「で、どうしたいの? うちにはお金もないし…」

 昇は正直な感想を述べ、それで会話を終わらせようとした。


 「残念だな。ペットを買うお金がないもの。こればっかりは…」

 わっはっは~。昇がわざらとしく声に出して笑い、少し意地悪な笑みを浮かべた。祥子には、それが挑発に思えた。祥子が表情を緩めた。


 「何を言っているのよ。こういうときのために、私のへそくりがあるんじゃないの。それを使わせてもらうわ。それなら、いいでしょ? これならみんなハッピーになれる」


 祥子はぺろっと舌を出し、来週買いに来て、もしマー君が売れていなかったら、マー君を飼うつもりでいた。あとは売れないことを願うばかりだった。


 1日過ぎ、3日過ぎ、祥子は毎日のように夕方、買い物のついでにマー君を眺めに行った。マー君は終始退屈していて、布製のボールにも飽きたのか、寝てばかりいた。


 4日過ぎ。

 1週間が過ぎ。

 とうとう約束の日が訪れた。


 大崎夫妻はデパートを訪れ、ようやく念願のダックスフントを手に入れた。狂犬病の予防接種をしてから犬を昇夫妻に引き渡すため、受取りは3日後となった。


 祥子がレジで8万円をブリーダーに支払い、マー君は晴れて大崎家の一員となった。物語はここからが始まりだ。ポチの苦難が幕を開けた。


 ポチは、とうとう用済みとなってしまい、3日後、丹沢のふもとに捨てられることに決まった。今まで食べたことのないようなステーキが3日3晩、ふるまわれ、牛乳が毎日、大きな皿に与えられた。


 ポチは異変を感じ取ったのか珍しく祥子に、なつく仕草を見せ、祥子の体にすりより、ふだん舐めたりしないのに祥子の頬を舌でなめようとした。そのたびに、イヤな顔をされて、邪険にされるポチ。


 「汚いわね。あっち行って」

 時、既に遅かった。

 祥子の心はすでにマー君に傾いていて、ポチに、付け入る隙など、あろうはずがなかった。


 「誰か拾ってくれるわよ。心配いらないって。かわいそうだと言って、誰かがポチを拾ってくれるわよ。親切な人がきっと現れるわ」


 祥子は、いやがるポチを無理矢理、車の後部座席に乗せ、自宅から80キロ離れた丹沢に向かった。


 車は1時間かけて東名高速を走り、それから2時間、市道、山道をただひたすら、くねくねと西へ走り、やがて丹沢のふもとに辿り着いた。

 時刻は夕方を回っていた。

 車を小さな駐車スペースに停めた。


 「ポチ、おりなさい。今、エサをあげるからね。疲れたでしょ」

 鳥肉、豚肉を油で炒めた肉料理を皿の上に、これでもかというくらい盛りつけた祥子は、改めてポチの顔に見入った。


 今まで見たこともないようなごちそうに、ポチは舌鼓を打ち、餌に、がっつく。

 何も知らないポチが、エサに食らいつく、そのすきに、2人は、その場を離れる寸断だった。何も知らず、餌をむさぼるように食べるポチ。


 「さあ、行こう。ポチが我に返ったら行きずらくなる。行くなら今だ」

 昇が祥子の背中に声をかけ、先に車に乗り込んだ。


 祥子も、さすがにかわいそうに思ったのか、

 「捨てるのやめる?」

 昇に言った。


 「今更、無理だよ」

 昇が運転席のドアから顔を覗かせ、ゆっくりと車から降り、ポチの頭を数回なでようとした。これが今生の別れだ。おまえの顔を見る最後になる。


 「今までありがとう。元気に暮らすんだぞ」

 「元気でね、ポチ」

 こうして別れの時、運命の瞬間が訪れた。

 ポチは相変わらずエサをむさぼり食らっていて、自分の置かれている状況を飲み込めずにいた。


 「これだけあれば3日は生きられる。悲しいけど、これも宿命だ。オレ達を恨まないでくれよ」

 再び、車に乗り込む昇。

 祥子が続き、2人は車の内部から、外部を見下ろした。

 窓を開け、ポチを見おろす祥子。


 ポチを見たのは、これが最後だった。

 ポチは山盛りの肉を5分で平らげ、食べ終えたときには、一人ぼっちだった。

 隣に盛られた山盛りのドッグフードに口をつけたとき、ポチはふと我に返り、昇と祥子がいないことに気付いた。


 何かいやな予感がして辺りを見回したものの辺りは既に薄暗く、他に誰もいなかった。30分待った。そして1時間が過ぎた。


 昇と祥子が戻ってくるものだとばかりに思って、ポチは3時間を同じ場所で過ごした。その場にしゃがみ込み6時間待ったとき、自分が捨てられたことに初めて気付いた。


 ポチは山に向かって何度も遠吠えを繰り返したが、周りからの反応は何もなかった。静かな闇が、ポチを包む。辺りは、淡泊なほど何もなく、深く茂った木々が静寂を保った。


 その場で朝まで過ごしたポチは、翌朝、別の皿に盛られたドッグフードでお腹を満たし、とぼとぼと東へ向けて歩き出した。


 朝日が昇る方角を目指し、とにかく歩くことにした。

 長距離を歩いたことがないポチは、すぐに肉球から出血し、それでも前を向いて、とぼとぼと歩いた。


 歩くことをやめるわけにはいかなかった。

 進路を東に東に、ただ思いつくまま、気の向くまま東へと進んだ。


 1日が過ぎ、2日目には雨が降り、とうとう3日が過ぎてしまった。

 ごはんに3日もありつけず、途中道ばたで見つけた犬のふんを食べて空腹をまぎらわせたものの、大柄なポチには空腹が堪えた。


 雑草でお腹を満たし、道路脇の水たまりの、茶色く濁った薄汚れた水を飲み、夜も昼も忘れて、ただひたすら東に向かって歩いた。


 犬の第六感で、こっちに歩けば昇の家に辿り着けるような予感がして、ただひたすら歩くことにした。


 自分を捨てた理由を聞くまでは、死んでも死にきれない。

 昇に、もう一度、逢いたい。


 祥子の目を見て、自分を捨てた理由を尋ねたい。

 心が、はやって仕方なかった。


 1週間後、ポチは熱でうなされ、神社の境内にうずくまっていた。

 栄養失調と水分不足からくる脱水症状で、熱は平熱を5度も上回った。

 偶然ポチを見かけた近所の人が鳥の骨を持ってきてくれて、ポチは、がつがつとそれを食べた。


 世の中には親切な人もいるものだ。もしかしたら自分を飼ってくれるのではないか。淡い期待は夢に終わった。


 こんなに薄汚れた老犬なんて、誰も見向きもしないだろう。

 そこにあるのは愛ではなく、情だ。

 くたびれた犬への、わずかばかりの、お情けなのである。


 こんな老犬を飼ってもいいというほど、人は気持ちが優しくない。

 ポチは、そのことにまだ気づけずにいた。


 ポチは、ようやく元気を取り戻し、神社を出て旅を続けた。

 目指すは大崎夫妻の家だ。


 みんなでまた仲良く暮らしたい。

 もう一度、昇の腕に抱かれたい。

 思えば思うほど、老犬のポチには空腹がこたえて、ひもじさを募らせた。


 どうして自分を見ず知らずの土地に置き去りにしたのだろう。

 もしかしたら自分を車に乗せるのを忘れて、車を発車させたんじゃないか?


 ドジな祥子のことだ。

 十分、ありえる話だと思った。


 ポチは理由を探ろうとしたが、考えれば考えるほど、何やら楽しい思い出ばかりが脳裏をよぎって涙がこぼれた。


 昇が自分を捨てるわけがないじゃないか。

 あんなに毎日、一緒に散歩をしてくれたのに。


 毎日、ごちそうを食べさせてくれたのに。

 それなのに……それなのに。

 なぜ?


 何かの思い違いだと言って欲しかった。

 単なる勘違いだと、笑ってほしかった。


 15年来の家族なのに、姥捨て山みたいに自分を捨てることなんてありえるのだろうか?


 自問自答してみたけれど、やはり答えには辿り着けなかった。

 足早に2週間が過ぎた。 


 畑が広がる集落に入り、ポチは危うくお百姓さんに鍬で殴られそうになった。エサをもらおうと近寄ったポチを見て、自分が襲われると勘違いした農家の長男は、ポチの頭めがけ、黒光りする鍬を思い切り振りおろした。

 

「しっ。あっちいけ。しっしっ」

 泥で汚れた体は、いつしか、ばさばさの毛づやで、見るからに野犬の風貌をしていた。


 その頃には栄養失調から皮膚病にかかり、体の至る所から毛が抜け落ち、体調も最悪だった。


 ポチは首輪をしていたので野犬狩りにあうことはなかったけれど、相当ひどい身なりをしていたと思う。


 栄養失調。

 脱水症状。

 どこに行けば食べ物がもらえるのかもわからず、ただ歩くだけの日々。目は、くぼみ、体からは異臭が発し、いつしか歩くのも困難になっていた。


 朝、散歩ですれ違う犬たちはみな幸せそうで、人に飼われることがいかに満たされていて平和なことか、ポチにもようやくわかり始めた。


 今までの自分は自由でないことをいつも嘆いていた。

 鎖につながれ。

 そしていつか鎖から解き放たれ、自由になりたい。

 そればかり願い、そして思いは現実になった。


 もう少し祥子に、なつけばよかった。

 もっと尻尾を振って、喜びを表現すればよかった。

 そう思ったけれど、あとの祭りだった。


 ポチは、ようやく念願の自由を手に入れた。

 でもそれは自由なんかじゃなかった。

 苦悩の始まりだった。


 飼い主から愛され、食べ物を与えられ、好きなだけ眠ることができた、あの生活は、今思えば天国のようなものだった。


 寝る場所に不自由することなく……。

 食べるものの心配をすることもなく……。

 ポチは現状を嘆いた。

 自由とは、これほどまでに制約を受けるモノで、不自由だということが身をもって自ずとわかった。


 人間の手から離れたい。

 犬だけのユートピアで暮らしたい。

 そう思い、若かりし頃、何度脱走しようと試みたことか。


 実際に手に入れた自由というものは、それはもう残酷なまでに過酷で、すべてが不自由で、エサにありつくことさえ困難を極めた。


 ポチは、

 「これで終わりか。ここで死んでしまうのか」

 何度もそう思い、動くのをやめ、目を閉じようとした。


 けれどもう一度、もう一度だけ、自分を愛してくれた家族と暮らしたい。離ればなれになった理由を知りたい。その思いに強烈に駆り立てられ、死への恐怖を払拭した。

 《2話へ続く…ここで終わりではありません》

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