第2-2話 悲痛なる愛犬の叫び、殺処分ゼロへの道は遠く。

 その頃、大崎夫妻は、ダックスフントの、マー君をお風呂に入れたり、ペットトリマーに連れて行ったりして、マー君を宝物のように扱った。


 かわいくてかわいくて仕方なくて、犬をふとんの上で寝かしつけては、座敷犬として家の中で振る舞わせた。


 ポチと違って、よく甘い声をだして鳴くマー君は、おねだりするのも、人に甘えるのも、とにかく上手だった。 


 子犬の成長はめまぐるしい。昨日まで赤ん坊みたいに思えた子犬が、半年もすれば成犬になり、表情も豊かになる。


 大崎夫妻は既にポチのことなんて頭になくて、ときどき思い出すものの、完全に過去の人(動物)となっていた。ポチはボロボロの、ぼろ雑巾みたいになって、よたよたと夜の田舎道を歩き、まったくの別世界を生きようとしていた。


 街灯もまばらな田舎道は、孤独を感じるのに十分な場所だった。

 森や川原で休み、昼間、明るいうちに距離を稼ぐ。


 見ず知らずの人は、そんなポチをみてかわいそうに思ったのか、おにぎりを食べさせてくれたり、水を飲ませてくれた。


 3日ぶりのごはん。

 肉や魚が食べたいと思ったけれど、贅沢は言えなかった。

 食べられるだけ、ましだった。


 あるとき、ポチは親切な村の人に出会った。

 「おまえ、まだいたのか? 行くところがないみたいだな。そう思って食べ物を持ってきてやったぞ」

 歳が50歳くらいの、にやついた中年は、ポチの前に盛大な、ごちそうの山を広げた。


 タマネギと肉の炒め物。にんにくのタレをこれでもかとかけたステーキ。ドライフルーツにビーフジャーキー。なす。銀杏。チョコレート。するめいか。


 犬が食べてはいけない物。

 NGフードばかりをポチの目の前に並べ、ポチにすすめた。


 ポチはもう3日も何も食べていなかったので、腹に入れられるだけ、まし。そう判断して、なりふりかまわずそれらを腹にかき込んだ。


 そして1時間後、原因不明の食あたりで動けなくなった。

 畑にうずくまるポチ。


 動こうにも腰が抜けてしまい、身動きが取れなかった。そうこうしているうちに、土砂降りの雨で、びしょびしょになり、泥の中で死んだようにうずくまった。


 ポチはその場所で2日を過ごした。

 泥まみれになり、雨水に濡れ、ポチはその場で動けずにいた。

 腸が、よじれるような腹痛で、体を丸め、うずくまり、どうにもこうにも体の節々の痛みで動けなかった。


 体重が5キロ落ち、下痢が続き、ポチは今更とはいえ骨と皮ばかりになった。肋骨がすけ、みるからに不健康そうで、病み上がりの病人みたいになった。


 そんなポチをみかねたのか、畑の持ち主が犬用のゲージを作ってくれた。親切な人だったが、やはりこの人もポチを飼ってくれるわけではなかった。


 「おまえ自分の家を探しているんだろう? 元の飼い主に会いたいんだろう? だったらこんなところにうずくまってちゃいかんがな。はよ元気出せ」


 ポチは、そこに2週間居候し、元気を取り戻したと同時に、その場を追い出された。そうさ、人間は善なる生き物なんだ。愛にあふれた生き物だ。


 オレの飼い主様は、今頃どこで何をしているんだろう?

 オレがいなくて寂しいだろうな。


 ポチはこれから自分の身に降りかかる残酷な運命も知らず、心に太陽を思い描いた。さすらいの旅が、また始まろうとしていた。


 元気を取り戻したポチは今度は進路を南に取ることにして歩き始めた。

 体の調子もよくて、足並みも軽かった。

 5時間も歩くと、むかし車で訪れた、伊勢原市にあるキャンプ場に辿り着いた。


 そのキャンプ場は、忘れもしない、昇がポチに鮎を5匹食べさせてくれたワンダホーな場所だった。


 ここにいれば、もしかしたら大崎夫妻と再会できるかもしれない。

 ポチは淡い期待を胸に抱いた。

 キャンプ場は連日連夜、夏休みということもあり、家族連れで賑わった。


 バーベキューで食べ切れなかった肉や魚、釣った鮎やニジマス。ヤマメをポチは何度も利用客から食べさせてもらった。


 食うに困らない日々が続き、ここで一生暮らすのも悪くないな。

 ポチはそんなことを考えるようになっていた。

 1ヶ月が足早に過ぎた。


 しかしこの地区一帯では野良犬の権力闘争が起きていて、ポチを可愛がってくれた老犬のボス犬が、こちらも群れを追われる羽目になった。その煽りを受けたのが、ポチだった。ポチも群れを追われるようになり、ついで、間髪入れず、人間の手で野犬狩りが行われるようになったのもあり、ポチはその場をあとにした。ポチはキャンプ場を追われた。


 酒池肉林のような生活は、いっときだから楽しいのかもしれない。

 それが毎日続くとなれば不思議と飽きてしまうから不思議だった。


 適度に不自由を感じ、適度に快適さを感じるから、生き物は溌剌とするのかもしれない。天国みたいな生活だったけれど、こんな生活が未来永劫続いたら、きっと犬も痛風になってしまうだろう。


 ポチは老体にムチを打ち、またしても、とぼとぼと歩きだした。

 それから、やはり食べ物に困る日々が続き、体重は激やせしていた頃に、すぐさま戻った。


 1日30キロ歩くものの、かつて見慣れた風景には一向に巡り会えず、それでもポチはひたすら歩いた。歩くことしか、今のポチにはできなかった。


 ポチを飼ってもいいという人は一向に現れないばかりか、疲れ切った容姿から拒否反応を示す若者も多かった。


 毛が抜け変わる季節を迎えた。

 いつしか季節は夏から秋に変わり、木々も色彩を深めた。

 鳥が、せわしなく宙で、さえずり、もうじき訪れる冬の準備をしているかのように、ポチの目には映った。


 もうじき冬が訪れる。

 雪降る冬が訪れれば、寒さで体が思うように動かなくなるだろう。

 今歩けるうちに距離を稼ごう。

 歩く距離を2倍に増やすことにした。


 ポチの現在地は大崎夫妻の家から50キロの距離まで迫っていて、そのまま北東にまっすぐ行けば、かつて知ったる集落が現れるはずだった。


 ポチは西に歩き東に歩き、そして南に下り、時には北を目指し、大崎の家に少し近づき、そしてわずかばかり離れ、探り当てそうで、できない場所をぐるぐると彷徨った。


 冬が本格的に押し迫る11月の晩、またしても偶然、むかし行ったことのある大型スーパーに辿り着いた。


 かつて連れて行ってもらったことのあるその駐車場では、来場者にフランクフルトを振る舞っていて、ポチはおじいさんからフランクフルトを3本食べさせてもらった。


 「随分、人なつこい犬だな。どこから来たんだ? かなり汚れているけど一応首輪してるじゃないか。迷子にでもなったのか?」


 ポチは、くんくんと声を出して鳴き、人間の言葉が話せないことを呪った。

 ポチがちぎれんばかりに尻尾を振る。


 【大崎という、40代の夫婦知りませんか? 大きなワゴン車に乗っています】

 何度もおじいさんに話しかけるけれど、おじいさんは一向に気にも留めず、フランクフルトを焼く手を休めなかった。


 「もっと食べたいのか? でも、もうやれないよ。もっと食べたいなら財布でも拾ってくるんだな。ここ掘れわんわん言うてな。千両箱のありかでもオラに教えてくんな」

 おじいさんはポチに言った。


 ポチはお腹を満腹にして今来た道を舞い戻ることにした。

 右に曲がり左の急傾斜の坂道を上り、いつか見たことがあるような景色に辿り着いた。


 富士山が見え、かつて車で行った、割と近場の公園で見た景色と同じ光景が、眼前に広がった。ここから大崎の家まで近いことが、なんとなくではあるけれど、わかった。


 1ヶ月が過ぎ、そして12月に入り。

 状況は何も変わらず、ただ歩くだけの日々。

 放浪の生活にも慣れ、1日のリズムが、掴めるようになった。


 よし。

 あともう少しだ。

 今日もがんばろう。


 歩き疲れたポチは、その晩、小さな公園で野宿した。

 そして朝を迎えた。


 何やら予感めいた感情が胸の奥底から何やら突き上げてきて、心がはやって仕方なかった。


 この感情は何だ?

 ポチは動物の第六感で、この町を中心とした10キロ四方に何かがあると確信した。


 これは予感なんかじゃない。

 予言みたいなものだ。


 ある確信めいた第六感が、ポチの心を突き動かした。

 そうだ。

 こうしちゃいられない。


 びんびん伝わってくる、シグナルをもとに、ポチは再び走り出した。

 ポチはとりあえず進路を北に取り、そこでかつて知ったる散歩コースを目のあたりにした。


 近い。

 それもかなり近い。


 心がはやり、今にも昇、祥子に会えることを想い、駆けだした。

 たしか、こっちの方角だと思うが思い出せない。


 30分走ると、ようやく眼前に郵便局が現れた。

 ここから200メートルほど下れば、大崎の家に辿り着けるはずだ。

 息をするのも忘れて、ポチは走った。


 そうだ、この町並みだ。この風景だ。

 この壁の色。

 電柱。


 そしてとうとう念願の大崎の家。

 かつて自分が住んでいた犬小屋に辿り着いた。


 無我夢中だった。

 やった~。やっと辿り着いた。

 大きな溜め息と安堵の気持ち。


 犬小屋は既に廃墟となっていたけれど、なかにはあの日のままタオルが数枚敷かれていた。


 見慣れた、アヒルのゴム人形……。

 そうだ、この町だ。この匂いだ。

 何もあの日と変わらない。


 そうだ、やっとオレは帰ってきたのだ。

 我が家に辿り着いたのだ。


 よかった。

 本当によかった。


 今日まで生きながらえたのは、このときを迎えるためだったのか。

 誰も使った形跡がない犬小屋を前に、ポチはへたれ込んだ。

 そして、くんくん鳴いて、安堵のため息をもらした。


 しばらくして、家の中から小型犬の鳴き声が聞こえた。

 今まで聞いたこともないようなキュートな声で、ポチの知らない犬の鳴き声だった。


 ポチは混乱した。

 きっと自分がいなくなって昇も寂しかったんだろう。

 寂しさを紛らすため、新たに犬を飼ったのかもしれない。


 ポチは、自分が捨てられることになった原因が、まさかこの犬にあろうとは夢にも思わなかった。


 今日は月曜日で、祥子はパートの勤めに出てるはずだった。昇は夕方7時を過ぎなければ帰ってこない。


 ポチは、今までの苦労も忘れ、勝手知ったる犬小屋で眠ることにした。

 うつらうつらしているうちに、やがてあたりは暗くなり、冷え込んできた。

 祥子が帰ってくる時間になり、ポチは犬小屋から出て、祥子の帰りを待った。


 自転車を15分こぎ、買い物袋を下げた祥子が、やがて電子機器メーカーの部品工場から帰ってきた。そしてポチを見つけ、腰を抜かしそうになった。


 自転車を所定の位置に置く祥子。

 「あらやだ、びっくりするわね。ポチじゃないの? どうしてここがわかったの? どうしてここにいるのよ? 本当にポチなの?」 

 なにやら悲しげな瞳を向けた。


 ポチはうれしさと喜びで祥子の足元を何度も飛び回り、そして跳ね回り、素直に感情を表現した。


 ポチが喜べば喜ぶほど、祥子の心は複雑だった。

 幼い子犬のように、はしゃぐポチをみて、祥子は困惑した。


 ポチの目を見て祥子は言った。

 「ポチ、よく聞いてね。私は、あなたを飼うことができないの。わかるでしょ? 大人には大人の事情があるのよ。でも1週間だけ時間をあげる。あなたに家族団らんの思い出をあげましょう」


 しばらくすると祥子は、いつもの祥子に戻っていて、すき焼き用の牛肉を150グラム、そして好物の冷凍物、肉団子を7つ焼いてくれた。ポチは、がつがつと差し出された祥子の手料理を食べ、失った時間を取り戻そうと必死だった。


 これで家族団らん、しかも水入らずで過ごせる。

 牛肉でできた肉団子は、レトルトだったけど、ポチの胃袋を満たすには十分だった。


 そうこうしているうちに昇が帰ってきた。

 車のエンジン音に興奮して、ポチは失禁した。

 のどを鳴らすポチ。


 かつて聞いた、犬の野太い鳴き声に、昇も興奮して、

 「ポチか。本当にポチなのか? サチ、どうしてポチがここにいるんだ?」

 状況が飲み込めず、昇が祥子に何度も尋ねた。しどろもどろになる祥子…。 


 「そんなの、ポチに聞いてくれる? 何がなんだか、私にもよくわからないの。家に帰ってきたらポチが犬小屋の前に座っていて……」

 昇が何度もポチの頭をなでた。

 喜ぶポチ。


 その優しさがポチをのちのち苦しめることになる。

 優しさは、時に苦しさを生む。

 それから新しい家族、ダックスフントのマー君を囲い、家族の団らんが始まった。


 ポチは、なんだか複雑な気持ちで、ダックスフントのマー君の鼻の匂いを嗅いだ。自分と比べてまだ若く、仕草も初々しくて、たしかに可愛い、マー君は、誰に対しても屈託がなく、愛嬌があった。


 「祥子、どうする? オレは2度も同じ犬を捨てに山には行けないよ。それでなくてもかわいそすぎる」


 ばさばさの毛づや、皮膚病で肌がむき出しになったポチの目を見て、昇が悲しい瞳を向ける。


 「そんなこと言って、マー君に病気が移ったらどうするの? あなた責任持てるの?」


 「ポチがここに辿り着くまで、そりゃあもう悲しい日々を過ごしたと思うよ」

 その言葉を真っ向から遮り、祥子が反論する。


 「そんなこと言って、ポチを飼えるほど、うちは裕福じゃないし。マー君を取るかポチを取るか。この際、はっきりさせましょう」


 ボロボロになった老犬とマー君。

 結果はおのずと知れていた。


 「ポチには1週間だけここで過ごしてもらい、1週間後、ポチを保健所に引き取ってもらいましょう」

 祥子の答えは決まっていた。


 「かつての家族だぞ。おまえ、ポチに死ねっていうのか?」

 昇が悲壮感漂う瞳で、祥子を見る。しかし、そんなことくらいで、ひるむ祥子ではない。

 

 「ほかに方法がある? あるなら教えて。生きていたっていいことが何もないのよ。どこにも行くあてがないなら、せめて、それが優しさってものじゃない? ポチには1週間の間にたくさん思い出をつくってもらいましょう。そして、つらいけど、さよならしましょう」


 昇もそれ以上、口にできなかった。

 ただならぬ雰囲気に、ポチは尻尾を丸め、クンクンと鳴いた。


 2人がケンカしていると思ったポチは、まさか自分のことを話しているとは夢にも思わなかった。

 

 上目遣いで2人を見つめるポチ。

 こんな夫婦を見るのは、実に久しぶりのことだった。


 せっかく帰ってきたというのに、何かの理由で2人がケンカしている。

 険悪な雰囲気の中、ポチの知らないところで話は大きく動こうとしていた。


 「おれには無理だよ。今度は保健所に連れて行けというのか」

 それでも祥子は頑として考えを曲げなかった。


 「もともと懐かない犬だったし。人に可愛がられないペットじゃ、ペットの意味なんてないでしょ?」


 悪いのはポチだと言わんばかりに、祥子が言う。

 次の日も次の日も、今まで食べたことのないようなごちそうが振る舞われた。いい加減おかしいと感じたポチも、まさか2度も家族から捨てられるとは思わなかった。


 しかし悲しいことだが、それは、またしても現実となった。

 雨降る12月の、とある日曜日。


 ポチはお風呂に入れられ、体を清められてから保健所に連れて行かれた。

 そして犬用の50センチ四方のゲージに入れられ、再び自由を奪われた。


 そこはかつて知ったる病院のベッドとは少し趣が異なっていて、野犬や捨て犬、くたびれた老犬であふれていた。


 泣き虫の犬。

 ノイローゼ気味の犬。

 統合失調症の犬。

 野犬のボス。


 吠えたり、くんくんと飼い主を懐かしむ犬が所狭しとゲージに詰め込まれ、クソも味噌も一緒に飼い慣らされた。


 食事はドッグフードが少量。

 病気で死のうが精神が崩壊しようが、そんなことは知ったこっちゃあなかった。


 ポチは最初、何がなんだかわけがわからなかった。

 てっきりここが犬用の病院だとばかり思っていて、まさか保健所という、動物たちに恐れられている場所だとは露程にも思わなかった。


 ゲージから連れ出される犬が2度と同じ場所に戻ってこないことから、ここが死を宣告された場所だということをポチは遅れて知るのである。


 毛並みの悪い、薄汚れた犬ばかりが、来る日も、次の日も明くる日も保健所にやってきた。どこか獣くさい犬ばかりで、満足に食事を与えられていない、ガリガリにやせ細った犬も多かった。


 ポチはなぜ自分が大崎夫妻から疎まれ、あろうことか2度も捨てられることになったのか、そればかり考えて過ごした。


 自分に悪いところがあるなら教えてほしかった。

 改善するから僕を見捨てないでほしい、心からそう思った。


 大崎夫妻は、ポチを保健所に預ける際、ポチの頭を数回なで、ポチを抱きしめるそぶりをした。 


 今になってはそれが悲しくて、胸が張り裂けてしまいそうだった。

 ダックスフントのマー君を飼うため、仕方なく僕をお払い箱にしたのか。


 そうか。

 そういうことだったのか。

 ポチには、すべてがわかってしまった。


 せめてここで最期を迎えろというのなら、僕は愛されていたという証を胸に抱いたまま最期を迎えたい。ガス室に送られる日がいよいよ明日に迫った。 


 悲しんでも悔やんでも、不平不満を言ったところで、今まで過ごした日々が何一つ変わらないというのなら、ならばいっそのこと、楽しかった思い出を胸に抱いて死のうじゃないか。


 そうか。

 自分はこの冬を越せないのか。

 ここで最期を迎えるのだな。

 色々な思いが頭をよぎった。


 何も、どこも悪いところがないというのに、人間の一方的な都合で最後通告され、そしてお役御免となった。


 ポチは覚悟を決め眠ることにした。

 永遠の眠りに就くとはどういうことなのだろう?

 様々な思いが錯綜した。


 昨日までの自分が果たして幸せだったのか?

 自分は産まれてくるべきではなかったのではないか?

 自分を責めることで、何かの糸口をつかもうとした。


 自分は愛される資格がなかったのではないか?

 生きているだけで、息をしているだけで迷惑な存在だったのか?


 今まで大切に育ててくれてありがとう。

 たとえ一時でも、僕は幸せだった。

 そう思おうとしたが、どこかで納得できない、もう一人の自分がいた。


 ポチは翌日、クリスマスを1週間後に控えた朝。

 ガス室へと送られた。

 

 「とうとうこの日がきちまったな。それにしてもなんて悲しい目をしていやがる。そんな目でおいらを見つめないでくれ。胸が張り裂けちまうじゃないか。頼むからオレを恨まないでくれよ。これも仕事なんだ。好きでやってるんじゃないからな」


 何も知らない、ただ尻尾を振り続けるポチを保健所の係員が誘導し、ポチは畳2枚分ほどの狭いガス室に閉じ込められた。辺りには死臭が漂っていた。


 大型犬、小型犬。

 大小様々な犬が小さなガス室に押し込められ、ここから出してくれとばかりに泣き叫ぶ。


 それでも懸命に尻尾を振り続けるポチ。

 もしかしたら、ここから出してくれるかもしれない。

 ポチは淡い期待を胸に最後の望みをつないだ。


 ポチが尻尾を振る。

 「今更、人間に愛嬌を振りまいたところで、どうにもならないんだ。それにしても人なつこい犬だな。オレを恨むなよ」

 係員が最後通告した。


 「おまえは捨てられたんだ。飼い主から見放されたんだ。だから明日まで生きる権利がない。おまえは生きているだけで老害だったんだ。迷惑だったんだよ。これも運命だ。受け止めてくれ」

 悲しい、けれど、とてもきれいな、澄んだ目をした、係員が言った。


 ポチが最後に見た人間の瞳とは、このうえなくきれいな瞳だった。

 それだけが、せめてもの救いだった。


 入り口の頑丈な鉄の扉が閉められ、犬たちは戸惑いを強めた。

 これから何が起きるのか。

 何が起ころうとしているのか。

 ただならぬ気配が漂った。


 きゃんきゃん鳴く子犬。

 遠吠えする、ドーベルマン。

 係員が静かに時計を見た。


 処置する時間まで、あと2分と迫っていた。

 犬がガス室に10匹くらい押し込まれ、やがて重く、きしんだ音のする鉄の扉がもう1枚閉じられ、室内は完全に密室となった。


 四隅の上の方から、そして下の方から、やがて無色透明な、二酸化炭素のガスが、もくもくと送り込まれ、犬たちは呼吸困難で、もがき苦しんだ。


 ぐぎ~。

 ぎゃ~。


 腹の底から響き渡る怒声が、狭い室内に響き渡った。

 犬たちが一斉に声を上げ、室内に阿鼻叫喚の連鎖が広まった。


 ここから出してくれ。

 息ができない。

 苦しい。


 あまりの苦しさに自分の舌を噛み切る犬たち。

 口から、だらだらと血を垂れ流し……。


 動物の鳴き声は扉が2重に閉められているため、外部には一切漏れなかった。


 ガラス張りの、のぞき窓から係員が室内をのぞき込んだ。

 毎回感じる、胸が張り裂けてしまうような、どこか息苦しくなるような情景が係員を苦しめた。


 苦しい。

 水が飲みたい。

 頭ががんがんする。


 5分経ち、動物たちは、やがて鳴くのをやめ、どさっ。どさっ。

 1匹倒れ、2匹倒れ。


 透明のガラス窓に目線を向け、係員の行動を見ていたドーベルマンも、やがて地に伏した。もう誰も首をもたげていなかった。


 すべての犬が床にふし、足を硬直させ、痙攣を起こしている犬もいた。

 口から泡を吹く犬。

 大きな口を開け、舌をだらりと下げた犬。


 呼吸困難で過呼吸を起こした犬。

 白目をむいた犬が所狭しと床に重なる。


 アウシュビッツのむごたらしい光景が、犬の世界で再現された。

 苦しいのは一瞬のことで、やがて意識を失い、心地よい感覚に襲われるというものの、この光景を見た者は感じるものが強すぎた。体から抜き出た魂が狭い空間をさまよい、天上へと勢いよく浮き上がった。


 「もう少しの辛抱だ」

 係員は時計を見た。

 15分が過ぎた。


 9時58分。

 何匹、犬を殺しても終わりなく。


 次から次へと犬が保健所に送り込まれ、そしてそのたびに機械的に犬は処刑され、ゴミと一緒に、燃えるゴミとして処理された。


 ガス室での出来事は一瞬苦しみをともなうものの、痛みを感じることもなく、やがて静かな時間を取り戻した。


 ポチは午前9時58分。

 空に高く太陽がのぼっていることも知らず、風を感じることなく天国へと旅立った。


 次、産まれてくるときも、大崎夫妻の子供として産まれたい。

 それだけを願い、ポチは天国へと旅立った。


 羽根のはえた天使がポチを迎えにきて、天国へと連れて行った。

 ポチは離ればなれになった兄弟と、雲の上で再会した。


 「ポチよ、おまえは頑張った。もうどこへも行かなくていいんだよ。静かに雲の上で暮らすがいい。ここは楽園だ。もう誰にも気兼ねしなくていいんだよ」


 安らかな心の声が遠くから聞こえた。

 季節は巡った。


 春が訪れ、そして夏が訪れ、やがて秋を迎え、ポチが死んだ冬が巡ってきた。

 それでも保健所には相変わらず悲しい目をした犬やネコが連日連夜、飼い主によって運び込まれ保護期限を迎えた。


 里親になってくれる人はほんのわずかで、ケージに入れられた犬やネコたちは自分の運命を知ってか知らずか、みなどこか寂しそうだった。


 人だからという理由で死を免れ、犬やネコだからという理由で死を受け入れなくてはならない現実がある。


 それはある意味、人間社会なので仕方のないことなのかもしれないけれど、彼らにも心があり、感情があることをもっと人間は知るべきだと思う。


 ポチの死は無駄ではなかった。

 そう言える日が、いつか訪れるのだろうか?


 ポチは何を思い、どう死を受け入れたのだろうか?

 ポチは多くの疑問を人間社会に投げかけた。


 ポチがもし言葉を話せたのなら、何を大崎夫妻に語っただろう。

 どんな言葉を残しただろうか?


 虎は死んで皮残し、人間死んで名を残す。

 ポチは死に、けれど何も残せなかった。


 その心は大崎夫妻には遠く届かず、親から愛されなかった子供のように、ポチは最後にユダに裏切られた。


 ポチは何を伝えたかったのだろう?

 死にゆく瞳で、何を見つめていたのだろう。


 ポチは幸せだったのだろうか?

 愛とは何なのか。

 家族とは何であるのか。

 ポチが何かを語ろうとする。

 現代社会は、それでなくとも生きにくい、サバイバルゲームのようなものだ。


 【人間は命を奪われないだけ、まだましなんだよ】

 ポチなら、そう言うかもしれない。


 ポチは死に、そして人々の記憶から完全に消えた。

 季節は巡り、輪廻は転生する。


 ポチはあの日、この世を去った。

 それを知る人はごくわずかしかいない。


 人々はキリストを想った。

 ポチよ、もう一度、蘇れ。

 たとえ、それが苦難へと続く道であっても……。


 すべての生き物が幸福を迎えることは不可能なのだろうか?

 自問してみたものの答えはでなかった。

 《第2章、完…第3章 幸福の知恵の輪、さよならは言わないでへと続く》


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