どこまでも突き抜ける、カオスな話!!
婆雨まう(バウまう)
第1章 屠殺場、牛殺しの政。
第1-1話 人の為に犠牲になる牛、牛が殺処分されるまでの短い記録。
《第1章… 屠殺場、牛殺しの政》
生き物は生まれてこの世に生を受けたからには、いつか死を迎える。
有名な僧侶や神の使い手でさえ、あらゆる手を使っても死を回避することはできない。
もし生まれながらにして死期が数ヶ月後に定められていたら、人はどんな気持ちに浸るのだろうか?
この世に生を受けた、わずか9ヶ月の命。人間の胃袋を満たすために飼育され、命と引き替えに最後は肉となり死を迎える、牛の子供たち。
人間のために、その身を捧げ、人間のために魂まで喰われる運命。
この物語は食べるために飼育された家畜、牛や豚たちのレクイエムである。人の手によって殺され、生かされ、そして最後に食べられる運命にある牛や豚たちに捧げる
彼らが自分の命を感じられるのは生まれてから出荷されるまでの、ごくわずかな期間。たった9ヶ月の間だけだ。
許可された食肉解体場以外で牛を解体することはできない。法令で定められているからだ。
屠畜場法の対象になるのは牛、馬、豚、ヒツジ、ヤギの5種類。猪や鹿、クマなど、狩猟の対象となる動物は、屠畜場での解体が困難として、対象としていない。この物語は1匹の牛が育てられ、そして食肉になるまでの短い記録である。
人間のエゴを笑うがいい。
運命を呪うがいい。
人間は生きるために魚を殺し、牛を殺し、植物の命を断って今を生きてきた。
それらすべて人の為、未来の為。
人間が子孫をつなぐために、牛や豚、にわとりは犠牲にならざるをえない。
ご存じの通り、犠牲の犠の字。犠牲の牲の字も牛偏です。
牛は広く、古代は日本の魏志倭人伝の時代から、またユダヤのソロモン王の時代から、祈りを捧げるための儀式に用いられ、そのたびに命を奪われ、神様に生き血を捧げてきた。
身も心も捧げる交換条件として、辛うじて今日まで遺伝子をつないでこれたのも、食用として、家畜として飼育されてきたからだ。猫や犬のようにペットとして、もっと小型化して生まれてきたなら、どんなによかっただろうと思う。
人の世の中は諸行無常の響きに満ちていて、ひとえに風の前の
「もうあなたとは一緒に暮らせません」
「オレだって好き好んでこんな仕事してるんじゃない。誰かが
「なぜ今まで黙っていたんですか?」
またこの話しか。長尾政は日本酒をちびりちびりあおりながら
「オレは、たしかに牛や豚を殺している。1日に数百頭。いや数千頭。肉にするために家畜を殺している。すべては人の為だ。人の為に、私が汚れ役を買って出たにすぎない。感謝される、いわれはあっても、非難されるおぼえはない」
政は、ついこの前まで妻に仕事内容を伝えていなかった。あえて仕事の内容まで語る必要はないと思っていたし、若い妻が理解するには、少し荷が重すぎると思っていった。
あるとき、些細なことがきっかけで、妻に仕事の詳細を語ってから、夫婦喧嘩が絶えなくなった。
「私はね、子供を宿した
政は少しうんざりして、よく冷えた日本酒をあおった。
「あなたは1日に何百頭という牛や豚の命を奪っている。なんの罪もない牛や豚をその
政の月収80万円に惹かれたのは麻巳子の方だ。麻巳子の猛烈なアタックに遭い、結婚を決めた政だったが、いつしか夫婦の関係は修復できないくらい冷え込んでいた。
政がこの仕事に就いたのは今から15年前のことで、れっきとした東京都の職員、国家公務員として採用された。
麻巳子の美貌に、ひと目ぼれしたのは政のほうだった。
政のプロポーズで、2人の結婚は成就した。
200万もする指輪を婚前に贈られては、プロポーズを断る理由など、どこにもなかった。麻巳子は即答した。
欲しいモノは、すべて買い与える。
洋服も、ブランド品も、靴も、旅行費用も、政がすべて支払ってくれたので、麻巳子にとってみれば、金のなる、打ちでの
月収80万円の収入がある男性。
しかも公務員。
この男性からのプロポーズを断れる方が異常だろう。
政は3000万貯蓄したら、すっぱりこの仕事をやめるつもりでいた。
「牛や豚の肉、麻巳子も食べるだろ?」
「私は食べません」
「なら魚や菜っ葉はどうだ?」
充血した目を血走らせ、政は妻の麻巳子に言った。
「魚や植物だって、もとは生き物だ。オレ達は生き物の命をいただいて生活しているんだ。仕事にキレイも汚いもないだろ?」
政が食い下がるが、それでも麻巳子は納得しない。2人の物言いは、いつも平行線に終わった。
残業はほぼない。そればかりか早く帰れることが多く、肉も食肉センターで安価で新鮮なものを購入することができた。家計にも優しく、願ったり、適ったりだった。
麻巳子は、いつからか肉類を全く食べなくなった。というより食べられなくなってしまった。
政は次から次へとやってくる牛の
頭蓋骨に1センチほどの穴を銃で開け、牛が失神している、気絶しているわずかなすきに脳への酸素供給を断つ。
牛の延髄を大型のナイフでえぐり、素早く後頭部から血液を抜き、そのあと牛の解体作業が始まる。
裂いた肉片から吹き出す血液は、まるで熱湯のように熱く、まるでお湯のように湯気だっている。
12年ほど前は、ハンマーで鼻の頭を強打する方法が採られていて、その頃は、さすがの物怖じしない政も、ノイローゼ気味になった。
牛の、この世のものとは思えない悲痛な叫び声。グギー。ギャーという悲鳴のような叫び声が、しばらく耳にこびりついて離れない時期も確かにあった。
夜、
牛の鼻を鉄のハンマーで強打する方法は、あまりにも残酷だということで、電気ショック法を採用するようになり、そして最終的にノッキングガンが採用され、今となり落ち着いた。
どちらにせよ牛は痛みを感じることなく、気を失っているほんのわずかなすきに、解体が手際よく進められることになる。
牛の辺り一面に広がる血の匂いと加工された生肉の匂い。
ドスンと倒れる牛の地響きで、順番待ちする牛も何かを感じるらしく、懸命にグギー、グギー。ギャー。懸命に、いやいやをして鼻にかけたロープを振り切ろうとする。
けれど運命を覆すことはできない。
皮をひんむかれ、胴体を左右均等、真っ二つに切断され、首を切り落とされ、やがて加工された精肉となる。素早く血抜きしたあとは悲惨だ。床が辺り一面、血の海となる。
それを1日、牛で350頭。豚で1200頭、ただひたすら繰り返す。常人でもよほど気を確かに持たないと気がふれそうになる。でも誰かがやらなければ、牛や豚の肉が食卓に並ばないのである。
政がこの仕事を打ち明けたのは酒の勢いも手伝い、また妻、麻巳子にだけは自分を理解してほしいという
公務員の仕事に惚れた麻巳子だったけれど、それがまさか
麻巳子は複雑な気持ちを抱いたまま、政の子供を果たして産むべきか、それとも子供を堕胎すべきか決断がつきかねていた。
自分は悪魔の子供を身ごもっているのではないか? 五体満足でない子供が産まれたらどうしよう。麻巳子は気が変になってしまいそうだった。
不幸は不幸を呼ぶ。
一抹の不安は、悲しいかな現実となった。
麻巳子はその年、妊娠8ヶ月で2階の階段から足を滑らせ、1階まで、ころげ落ちた。
破水が起き、救急車で病院に運ばれた。
股から大量の出血があり、ただごとではないと思ったが、案の定、無残にも流産を宣告された。
麻巳子は病院のベッドの上で、気が狂ったように政を責めた。
責めなければ、自分が、どうにかなってしまいそうで、不安で不安でいたたまれなかった。
「これは天罰だわ」
「そんなことないって」
「天罰じゃないというのなら、これは何なの? 何の仕打ち? 私が何をしたって言うの?」
こんな殺気だった麻巳子を見るのは、後にも先にも初めてのことだった。
「子供は、また、
「そういう問題じゃないわ、今後、一切、私に触らないで」
政が肩に触れようものなら、麻巳子が怒鳴り散らし、威嚇した。
あの忌ま忌ましい事実を知ってからというもの、麻巳子は政に触れられるのも拒むようになった。
汚いものを見るような目つきで政を見るようになり、やがて夫婦関係は消滅した。
待っていたのは離婚という事実だけで、財産を半分よこせという、麻巳子の言い分を、政は、すべて聞き入れた。
政は独り者になり、またかつての独身に戻った。
悲しく、忌々しい出来事だったけど、政は、それはそれ、事実として受け入れる準備をした。
それを知る前と知った後。
政は何も変わっていないのだけれど、麻巳子の目には何かが違って見えたのだろう。霊感の強い女性だったから、彼女には何かが見えていたのかもしれない。
人間には生きていく上で多くの矛盾が存在する。
時には矛盾を受け入れなくては生きていけないこともある。
鯨を食べる食文化だって、海外では、多くの国によって否定されているし、木刀で、イルカを殴り殺す追い込み漁だって、海外からは非難が殺到している。しかし、その土地に住む、伝統を重んじる人々にとっては、それが生活の一部であり、食文化なのである。
年に数回行われる、馬の、上げ馬行事だって、南北朝時代から伝わる由緒ある行事かもしれないが、馬を激しく追い込むことにより、興奮した馬が骨折したり、安楽死を迎えることで、毎年、多くの動物愛護団体からクレームが付く。
人間は多くの矛盾を抱えている。
生命の尊さを唱える傍ら、牛や豚、魚を殺して栄養分として体内に取り込んでいる。
純血なのは、それはそれで素晴らしいことかもしれないけれど、大人になるということは、汚れを自ら受け入れることでもある。
麻巳子は心が清く、幼かったために、自分を許せなくなってしまったのだろう。心が清く、温和なために、自分を許せなくなってしまったのだ。誰も彼女を責められないと思う。彼女が悪いわけではない。
舞台は、牛を飼育する牛舎へと移った。
牛を屠殺する人がいるからには、牛を大切に育てる人がいる。
種牛を買ってきて黒毛和牛を育て、時期が来たら牛をまとめて食肉センターに手放す。近藤さんの家では黒毛和牛を50頭飼っていて、自宅でチーズの販売をし、ハムやソーセージをネットで売っていた。
近藤さんが育てた牛は政が勤める食肉センターに卸され、近藤さんは政とも顔見知りだった。ミルクを絞り、チーズを作り、9カ月、肉牛を飼育して牛を食肉センターに送り出す。
牛は人々に食されることで天命を全うする。人の役に立ち、料理の食材となることで、その役目を終える。
悲しい運命だと言われようが、それを変えることは誰にもできない。もしも種牛として育てられたなら、その他、大勢の牛と異なり、寿命を全うすることができたかもしれない。
もしも乳搾りのために飼育された牛なら、違った意味で、もう少し長く生き延びられたかもしれなかった。選ばれし牛の特権。それが牛の花子や太郎、次郎にはなかったということだ。
牛には子取り生産を目的とした繁殖用の牛と肉牛用の牛、そして牛乳用に飼育される牛がいる。肉牛用の牛にもホルスタイン牛、和牛。様々な種類があり、やはり用途に分けて出荷された。
最近では肉の固いホルスタイン牛の肉を1ヶ月かけて冷蔵庫の中で熟成させ、発酵させ腐らせ、カビだらけの肉を食すのがブームになっている。牛の肉は腐る一歩手前が1番おいしい。これは肉牛を扱う人なら誰でも知っていることだ。
腐る手前の肉牛には、グルタミン酸、アミノ酸が豊富で、うまみ成分が増すことで知られている。腐らせた肉は、発酵し、熟成するので、肉の味にまろみが出て、かなり角が取れるから本格的になる。それが食べる者の舌をうならせる。
近藤さんは、多摩の食肉センターと契約を交わしていて、毎年、ある時期になると、牛をまとめて引き取ってもらっていた。元気な牛の花子。牛の太郎も、あと2ヶ月ほどで出荷の時期を迎える。
子供達が花子、太郎、次郎に懐いていて、よく牛舎にきてはトウモロコシの葉、米ぬかの餌やりをした。
太郎も花子も近藤さんの愛情をいっぱい受けて育ち、なんの悩みなく平和な日々を送った。いつまでも続くと思われた牛の生活は9ヶ月で終焉を迎え、やがて次の命と入れ替わる。近藤さんは庭に建てた畜魂碑の石像を毎朝拝むのを忘れなかった。
「今日まで暮らしていけるのは、おっかあと、牛たち動物のおかげだ」
近藤さんは瞼を閉じ、動物たちに感謝の言葉を述べる日々を送った。
今日も朝4時半に起き、牛舎へと向かう。
牛たちは近藤さんが訪れるのを今か今かと待ちわびていて、モーと鳴いて、近藤さんを出迎えた。
花子は風邪気味なのか、鼻水をたらしていて、寒い寒いと目で訴えた。エサに抗生物質を混ぜることにした。
太郎は、まだ寝ぼけているようで、まだ眠たげだった。口から湯気を発しながら、エサを口に運ぶ次郎。
「おまえ達と暮らせるのも、あと2ヶ月だな」
近藤さんは少ししんみりして、次郎の鼻先を前後に撫でた。
今日は牛舎に牛が10頭、運ばれてくる日で、その中には出産を数ヶ月後に控えた種牛も2頭含まれていた。
出産してくれるのはもちろんうれしい。でも出産と同じ数だけ別れの数があるのも事実だ。動物たちを食肉センターに運ぶ際の、牛たちの姿が、目に焼き付いて離れなかった。
花子は生後7ヶ月を迎え、すくすくと順調に育った。黒毛和牛の花子は、このまま自分も歳を取り、雄牛に恋をして出産し、寿命を全うできるものだとばかり思っていた。
生育期を迎えた花子は、食べたいだけ食事を与えられ、なんの悩みもなく今日を迎えた。毎日は平凡だったけれど、いやなこと1つなく、近藤さんにも暖かく見守られた。
1週間が経ち、2週間が過ぎ。
やがて冬が訪れ、2ヶ月が過ぎた。
花子も次郎も太郎も、とうとうお別れの時を迎えた。
近藤さんがそれぞれの牛の頭をなで、
「今日までありがとうな。元気で暮らすんだぞ」
牛に祝い酒、ビールを飲ませた。牛たちに言った。
「おまえたちは今日までよく頑張った。立派だったぞ」
牛たちは自分の運命を知ってか知らずか尻尾をふり、新しい門出を喜んだ。
次の日の朝、牛は4トントラックに積まれ、多摩食肉センターへと向かった。
【これから先、何が起きるんだろう】
牛たちは、みなこれから起きる出来事を想像して思い思いにふけった。
牛に感情があるのかって?
そりゃ、おおいにあるでしょう。
ためしにストレスを与え続けた牛の肉は、固くて味もイマイチになるから、試してみるといいです。
トラックに揺られ、10頭の牛が多摩食肉センターへ向かった。
牛たちはこれからどんな、おいしいごちそうを食べさせてくれるんだろう。つかのまの楽園を夢見た。牛たちは一匹ずつ丁寧に荷台に載せられ、車で3時間かけて目的地へと運ばれた。
牛を載せた車が食肉センターの入り口で止まった。
運転手は建物の入り口にある畜魂碑の前に歩み寄り、石碑に深々とお辞儀をした。手を合わせ、南無妙法蓮華経を唱え、持っていた数珠で祈りを捧げた。
「魂よ、静まり給え。人間の為に犠牲になる牛たちよ、人間のエゴを許し給え」
運転手は一言、小さな声でつぶやいた。
今日連れてきた10頭の牛も、あと4時間もすれば皮をそがれ、頭部を切り落とされ、電動ノコギリで背割りされる。
おまえたちが生きていられるのも、あと4時間たらずだ。運転手は時計を見て、時刻を確認した。幸い納品する時間より30分早く着いたため、積荷を急いでおろす必要はなくなった。
車が、ゆっくりとゲートを抜ける。広場に車が横付けされ、車は停車した。食肉センターの従業員が2人、手際よく車に近づき、車の荷台に傾斜をつけた鉄の板を取り付けた。手慣れたもので、運転手もそれに従った。
牛たちが一頭ずつ、トラックからおろされた。
建物の出口には、ひんむいたばかりの湯気だった牛皮がベルトコンベアーに載せられ、大きな鉄のカゴに次々と重ねられていった。血の匂いをがきつけたカラスがせわしなく上空を飛び回る。
カアカアと、カラスが鳴いて、何か食べられるものがないか建物の周囲をうかがった。
10頭の牛はすべてトラックの荷台からおろされ、洗浄するためにシャワー室へ向かった。そこからは流れ作業で、鼻輪にロープをくくりつけられ、次々と前へ向いて歩かされた。
《2話へ続く…ここで終わりではありません》
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