我心引涙(KAC9)
四千字以内
カクヨム三周年記念
お題は『おめでとう』
〇
毎年桜が開花する季節になると、ハチ公前では、スクランブル交差点に流れる上映中の映画や、アーティストの新譜なんかの広告映像に紛れて、初々しい声が響く。卸したてのスーツに身を包んだ社会人や、スマホで地図を確認しながら歩む学生たちによる春の報せは、ある意味で、人を孤独にしてやまない。
彼女はその雑踏に混じって、鞄から取り出した黄色い手鏡で前髪を直していた。熱心に、幾度も幾度も付け根から毛先にかけて、指先でひょいとつまんでは、――スススとなぞっていく。しかしそんな徒労も、協調性のない春一番が吹いたとともに、また、尻切れトンボに終わってしまうのだった。
風に遊ばれている彼女があまりに可愛かったから、思わず男は一早く声をかけなければならぬ使命感から離反して、やはり春風と同調する様に、ちょいと離れた『青ガエル観光案内所』の傍から、口に拳をあてて、クスクス笑って楽しんでいたのである。
彼女は、軽く、右にカーブするように垂れた前髪の、一体どこが気に入らないと言うのだろう。角度か、束なりか、こだわりどころは未だに男にはわからぬが、最初に出会った時も、思い返してみれば彼女は前髪を気にしていたようだった。
しかしいよいよ諦めたのか、手鏡に代わってスマートフォンを手に取った。
男は予感して、ポケットから彼女の着信を確認した。
『遅い! 今どこにいるの?( ゚Д゚)』と書いてあったから、『ゴメン。今日行けそうにない。ハチ公前で何度も髪の毛いじってるかわいい子見つけちゃったんだ。ナンパしようか迷ってる』と返した。
彼女は文面を確認したのか、キョロキョロ辺りを見渡して、男と目が合ったら恥ずかしそうに近寄ってきた。
「ひどい! 何時から見てたんですか!?」
「――うーん。五分くらい前かな。ごめんごめん。そんなに怒らないでよ。それにしても、風、強いね」
「ヘアスプレーしてきたのに崩れちゃうんです」
「そんな事ないよ。今日もかわいいじゃない」
照れ隠しなのか、彼女は視線をそらしては、また、前髪を触りだした。
二人が出会ったのは、品川で行われたパーティの一席であった。互いに有益な情報交換をする為、人脈を形成しておくのは投資家として最低限のスキルである。新たな市場となった仮想通貨にいち早く注視した投資家の、その誕生日を祝う一席で、男は彼女に一目ぼれをした。
彼女はというと、知り合いの伝手で、言ってしまえば場を盛り上げるコンパニオンとして参列していた。こう言った華やかな会場に、人気の風俗嬢が呼ばれる事は、とりたてて珍しくもない。彼女は投資家のお客を持つキャバクラ嬢の、更に友人のキャバクラ嬢と言う立ち位置で、つまりは、会場内で殆ど知るものがいない身で、この食事会に参加していたのである。
当然ながら参加費はないもので、それでも会場は品川の一流ホテルを貸切って、希望があれば部屋までもを用意して、それでいて出される料理は超高級であり、23区で夜の仕事に就く彼女は、所謂金持ちと呼ばれる人間との交流こそあったものの、彼らですら大衆扱いされてしまう本物の集まりに、興奮しながらも、やはり場違いであったと、会場の隅っこで萎縮していたのだった。
そんな折に声をかけてきた四十代の男は、スーツをしっかりと着こなして、時計も、ベルトさえも隙を見せなかった。それでいて話を合わせてくれ、けれども口を開けばやはり別世界の王子様であり、惹かれてしまうのも無理のない話だった。
年の差こそあれど、彼女は子供っぽい同世代の学友とは輝きの違う、非の打ち所がない紳士に、心底惚れてしまったのだった。
彼女はその夜に連絡先を聞き出しては、以来こうして月に一度程、男が忙しくとも二月に一度は、顔を合わせて一緒に食事をする様になっていた。
彼はタクシーを止めると彼女を先に後部座席へ乗せて、六本木のリストランテへ車を走らせた。
店に着くと彼は常連なのか、店員はなにかを察したようで、奥にある個室へと二人を案内した。本来ならば上座には男性が座るべきなのだろうが、男はレディファーストに徹して、椅子を引いては彼女をそこに座らせた。
「コースでいいかな?」と男は尋ねたが、どうせメニューを読んだところで、かろうじて食材がわかる程度の彼女は、気を使ってくれていることを忖度して、迷うことなくコクリと頷いた。
「どう? 最近、学校の調子は?」
いつも決まって、この話題から食事は始まる。
「無事に進級できました。最近仕事減らしたおかげかな。単位もばっちりですよ」
「学生の本分は勉強だからねえ。せっかくご両親が大学に入れてくれたんだから、ちゃあんと卒業して、親孝行しないとね」
男はまた、クスクス笑った。
しかしそれは、決して人を馬鹿にしたような笑いでは無くて、例えるなら、親が子に向けるような、換言すれば、余裕のある大人の笑みだった。
キャバクラにやってくる客は、多くは体が目的であったり、あるいは見目優秀な彼女に真剣に惚れているのだろうが、やはり好きだと言われても、付き合ってくれと言われても、嫌悪感しか感じられず相手にならない。
なぜこの男だけが特別であるのか、彼女はわからないままでいた。
そんな折出された前菜はハムの盛り合わせで、大きな皿にちょこんと、丁寧に盛られていて、一口頬張ればしっかりとした旨味と、上質な脂の甘みが口いっぱいに広がるのだろうが、やはり彼女は昨日の晩御飯に買った、コンビニエンスストアのハムサラダのハムと、区別がつかないのであった。
彼といる時間はまるで、体のみを置き去りにして、魂だけを引っ張り出し、自由をえた風船のように天に放たれた心地で、思わずなにかを叫び出しては楽になってしまいたい気配もするのだが、男の顔を見ればただ現実に戻されて、手元の料理に食器をあてがうしかすることは無いのである。メインの『仔牛のマルサラワインソース添え』を口に運ぶころには、すでに腹は一杯で、それでもどうして、いつもデザートはサラッと喉を通るのか不思議でならなかった。
彼は店員にカードを手渡して、スマートに会計を済ませると通例通り、日本橋のホテルへと彼女を連れて行った。
エレベーターで52階まで上がり、部屋に入ると解放感ある窓から遠くにスカイツリーが、その手前に東京タワーが目に入る。一泊いくらするのかなんて、怖くて彼女は聞けないままなのに、男は恐れる事無く、彼女にシャワーを浴びてくると言い放つのだった。
水の流れる音が響く室内で、彼女は窓際に立って、遥か彼方に蠢く大衆を見下ろした。彼らは自分と同じ人間で、いっそのことここから飛び降りてしまえば、一瞬で平等に立てるような気もして、深く、ため息をついて窓を曇らせた。
彼がシャワーから出ると、今度は彼女がそこに入る。アメニティグッズから剃刀を取りだして、体中のあらゆるムダ毛を処理しては、彼の気に入る姿に磨きをかけた。歯も磨いて、舌も磨いて、おまけに指でキュッキュと確認して、風呂場から出るとカーテンは閉められ、室内は暗く施されていた。
ベッドに座ると、まるで埋もれてしまいそうなくらいに柔らかく、男は彼女の肩に手をやり、軽く引っ張るように誘導しては、枕と後頭部を接地させ、ゆっくりと唇を重ねた。豆腐を崩さぬくらいに軽く唇を咥えては、そのまま優しく頭を撫でて、首筋に細指が差し掛かった時に、彼女は堪えきれずピクリと反応を見せた。小さく、「あ」と、声が漏れもした。男は舌を侵入させると、まるでそこだけが別の意志を持っているかのように、彼女はすんなりとこれを受け入れた。最中、バスタオルの結び目を弱めていき、白き布で隠されていた肌が露わになる。手をやれば、コンコンと湧き出るオアシスの様だった。
ひとしきり前戯を終えて、二人は0.01㎜越しに一つになる。互いの体温を感じながら、人間の一番弱い所を合わせ合う。決してアダルトビデオのような、野蛮な性行為ではなく、奥まで入れて、それっきり。力の緩急を入れて、相身の存在を確認し合うように、最新の注意を以てして、愛を確かめ合った。時には全く動かさず、見つめ合うだけの時間も流れる。それが彼女には、たまらなく、さらに深く、求めてしまうのであった。
事が終わり、自分の中で次第に小さくなっていく男を抱きしめながら、彼女は尋ねた。
「今度はいつ会えますか? また来月の終わり?」
男は何も言わずに彼女からそれを引き抜くと、ハンガーにかけてあったスーツの内ポケットから封筒を取り出し、フロントの揺れも収まらぬ内に、彼女に手渡した。
「――いつもより、多く入れてある」
彼女は「なんでですか?」と声に出しかけたが、それより早く、男は答えた。
「子供が生まれるんだ」
頭の中が真っ白になった気がした。それでも、いつかはこんな日が来るんじゃないかと予想しなかったわけでもない。視線は定まらなかったし、下あごは震えていたが、誤魔化すようにバスタオルで包んでは、かろうじて、一言、絞りだした。
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