5-5 俺は全てを諦めた

「ならば覚悟せよ。想いだけで全てを越えられると思うな。いかなる姿にも心を揺らさぬ決意を持て」

 雫の脳内に、かつて春野彼方から授けられた言葉が蘇る。それほどまでに愛する人はこの日中で憔悴していた。

 言葉を絞り出す要の頬はこけ、目は落ち窪み、隈が濃い。だがそれでいて、目の光だけは異様に鋭かった。

(こんなの、要兄じゃないよ)

 雫は言葉を失った。それほどまでに衝撃的な姿であった。幽鬼のように彼女を見つめる要の姿は、あまりにも恐ろしかった。


「大島、もう少し寝てろ」

 その様子に危機感を覚えた遙華がそっと間に入り、二人を引き剥がす。その手に押され、雫は下着もあらわに尻餅をついたのだった。


「まー……、なんだ。私等じゃ腹を満たすか愚痴の相手にしかなれないんだが……。んー」

「姉さん。取り敢えず俺達じゃどうしようもないと思うんだ。これは先生達の問題だよ」

 引き剥がされ、居間に連れ戻され、雫はそのまま床に倒れ込んだ。恐らくは緊張の糸が途切れたのだろう。そんな姿に困惑を隠せない遙華を尻目に、大介は雫のために作ろうとして無為になった、フリーズドライの味噌汁を啜っている。

「お前冷静だな……」

「うん? だって姉さん。押しかけた身でこれ以上何かできることってある? 取り敢えず先生が起きるまで留守番するぐらいでしょ」

「むー……」

 ロングスカートにも関わらずあぐらをかき、ムスッとした顔を隠さない遙華。

 詰め襟の学生服に身を包み、とにかく冷静な大介。二人は他人の部屋でこの後、二時間に渡りもどかしい時間を過ごす羽目となった。



「……申し訳ない!」

「申し訳ありません!」

 示し合わせたかのようにほぼ同時に意識を復活させ、しかる後に頭を下げる家主と同居人。

「……」

「姉さん。病気と看病疲れは仕方ないよ。いえ、お二人が無事でよかったです。本当に」

 それを受ける姉弟。姉は相変わらず憮然とし、弟はそれをなだめつつ謝罪を受け入れる。それに続いて姉も口を開いた。

「まあ、アレだ。せめて私達にも何を思い出したか教えろ、大島。それでチャラにしてやる」

「姉さん!」

「いや。どうせいい機会だ……。雫、済まないがお茶を頼む」

 サラリと要求に乗った要。その目は異様に据わっていた。



 全ては春野彼方への告白の後だった。この時点では要も告白の顛末を覚えていた。実にきっぱりと、彼女らしく断られたこともあって彼に未練というものは全く無かった。

 しかし。

 彼女の取り巻きにおいてその理屈は通用しなかった。『抜け駆け』と断じ、要に敵意を持つ者が少なからずいた。そして、事が起きる。

 白昼堂々だった。大学構内であった。それまで友人だと思っていた男の襲撃。警備隊が駆けつけて無事に済んだものの、事件が彼の心を叩き折るのは容易であった。

 しかし、不幸は続いた。卒業を前にした春野が、大学に来なくなっていたのもそれを加速させた。

「アイツは春野さんに一人だけ取り入ろうとした。許せない」

 事実の歪曲や、悪意に満ちた雑音が彼を取り巻いた。


「なんでこんな所にこんなビラが!?」

 要の過去の事実――どこから調べたのか、遙華や雫の事まで含まれていた――を捻じ曲げ、中傷するビラが大学構内に貼られていたこともあった。


「俺が一体何をした!?」

 有象無象の嫌がらせ、子どもじみた悪戯や物的破壊、精神的攻撃。そういった悪意に晒されて。



「俺は全てを諦めた。この部屋に引きこもり、怠惰に身を染めたのだ。そうしていつしか、全てを忘れていった。雫が来るまでな」

 高熱にうなされ、体力を消耗した。それにもかかわらず、彼は一時間近くかけて顛末を語り切ったのだった。

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