4-5 今日はもう、疲れたよ

「……。リテイク」

 僅かな沈黙の後に発された雫の声は、意外にも無慈悲なそれであった。

「ホワイ?」

 思わず英語で問い質してしまう要。だが、雫は容赦なく言葉を連ねる。

「中途半端なの。神楽坂さんはまあ良いかもしれないけど、春野さんは? 要兄、簡単な話だからよく聞いて」

「あ、ああ」

 思わず要は身を起こそうとしたが、それは雫に制止される。そこで彼は初めて、今自身が置かれている状況に気が付いた。前方に、二つの山。

「膝枕だったのな」

「うん。でも今はそうじゃない。要兄は春野さんに告白をしたでしょ? だったら答えを。きちんと」

「……」

 要は膝に頭を預けたまま、しばらく考え込んだ。


 思えば春野彼方にとってハグは挨拶で。

 あの時彼女は告白と関係なく常のような対応に徹してくれていた。

 つまり、自分はまだ。答えを得てはいない。


「なるほど」

「うん。そしてもう一つ。要兄、今自分で生計立ててる? それとも、学校行ってる? 私になんて言いました?」

「あっ」

 答を見出したはずの要に襲い掛かる雫の二段構えの刃。それは確実に。

「ごめんなさい」

 要の心臓を貫いた。


「はい。そういう訳で要兄は色々と決着をつけて、さっぱりしてからもう一度。お願いしますね?」

 要の肩が、ポンと叩かれる。それを合図に彼は起き上がった。そこで彼はふと気づく。

「なあ……。俺をここまで運んだのって」

「この間上半身見られてるし、おあいこだと思うの」

 その表情は、はっきりと赤く、染まっていた。


「じゃ、私はもうちょっと入って来るから」

 要が雫に見えないように着替え終わった後、彼女はそう言って風呂へと戻って行った。ふと腕時計を見れば、一時間も経過していなかった。

 重い体を引きずって自分達の部屋へと戻れば、既に布団が敷かれていた。二組の布団が隣り合わせで置いてあったことに、要は少しだけ安堵した。

「……今日はもう、疲れたよ」

 彼は布団の上に倒れ込み、そのまま意識を手放してしまった。



 まとめ髪。うなじは白く、まばゆかに。

 長い黒髪をゴムとバレッタで纏め上げ、旅館の浴衣に身を包む。そんな雫が部屋に戻って来た頃には、要は既に布団の上で寝息を立てていた。

「……お疲れ様」

 彼女はそっと呟き、彼に布団を着せてやった。そして、自身も潜り込む。愛しい人の背中を抱き締め、その匂いを脳髄に満たした後。ポツリ、ポツリと雫は言葉を紡いだ。


「要兄。ごめんね? 本当は、『好き』って言ってくれて、嬉しかったの」

 聞こえない。そう分かっていても、雫は謝りたかった。大きな背中が、心の壁に変わらないうちに。

「だけど……。要兄が私を不安がるように、私も要兄が不安だったの」

 抱き締める手に、力が篭った。それはきっと、離したくないからで。

「だから私も、突き放して背中を押すの。前を向いて欲しいから。私の好きな要兄でいて欲しいから」

「だから、おやすみ」

 雫はそっと、名残惜しげに要から離れた。寝室の電気を消し、隣の布団に身を委ねた。その顔には、うっすらと涙の跡があった。



 翌朝、雫が朝の日差しで目を覚ました時。既に要の布団に人影はなかった。荷物は纏められていたが、肝心の本人が忽然と姿を消していた。

「よう……にい?」

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