農協おくりびと (57)受け止めてやる
「跳べよ。受け止めてやるから」
砂浜に立ったキュウリ農家の山崎が、自信たっぷりにちひろを見上げる。
地面まで、2メートルあまりの高さ。
だが、小路の上に立ち往生しているちひろの目は、さらに高い位置に有る。
砂浜で両手を広げている山崎が、はるか眼下にいるように思えてくる。
「無理。上に戻るから、わたしのことは心配しないで・・・」
草につかまったまま、ちひろが斜面の上を振り返る。
目に飛び込んでくるのは、絶望的な高さだ。
戻ることを拒絶しているような、絶望な急斜面の様子が目に飛び込んでくる。
(戻るのは、とてもじゃありませんが、無理なようですねぇ・・・)
生唾を呑み込んだちひろが(飛び降りるのも、正直こわい)と両目を閉じる。
「跳べよ。大丈夫だって。必ず俺がちひろさんを受け止めてやるから」
『迷うなよ、ためらうほど恐怖は増えるぞ!』下から、山崎が大きく両手を差し伸べる。
恐怖をおぼえた時。躊躇すればするほど、時間とともに恐怖心は大きくなっていく。
足元に居る山崎が、途方もなく下にいるように見えてくる。
2階どころか、3階の窓から砂浜を見下ろしているような気分になってくる。
「もとは高校球児だぜ。体力と腕力には自信が有る。
安心して跳べ。俺が全力でしっかりちひろさんを、受け止めてやるから」
「駄目。最近、わたし肥ったのよ。見かけによらず、少しばかり重いのよ」
「2キロや3キロ、増えたところで、どうってことはないさ。
多少重くても、俺が責任をもって受け止めてやる。俺を信じて、跳べよ」
「2キロや3キロじゃないのよ。増えてしまったあたしの体重は・・・」
「何キロ太ったんだ?。君の体重はいったいいま、どのくらい有るんだ?」
「50キロと・・・あっ、何を言わせるのさ、あんたって子は。
油断も隙もないわねぇ・・・まったく。
嫁入り前の女性に体重を聞くなんて、失礼を言うにも限度があるわ!」
「じゃあ、聞かねぇよ、ちひろさんの体重なんか。いいからさっさと跳べ。
いいかげん俺も、待ちくたびれた」
「いいわよ、自分でおりるから・・・」ぼそっとつぶやいたちひろが
狭い足場の上で、そろりそろりと態勢を変えながら、跳ぶための前傾姿勢を取る。
(跳び降りられるかしら、大丈夫かしら)身体の向きを、強引に変えたとき。
ちひろの尻が、草の斜面に突き当たる。
(あっ!)短い悲鳴を上げたちひろが、尻を押された形で空中へ前のめりになる。
ばたばたと必死に両手を動かすが、つかめるモノなど何もない。
覚悟を決めて、自分から空中へ飛び出す。
自分では形よく、ふわりと、空中へ飛び出したつもりだ。
だが運動不足のちひろの全身は、想いとは裏腹に、すぐに空中でバランスを崩す。
バランスを失ったちひろが、頭を下にして、そのまま砂浜に向かって落ちていく。
(万事窮す・・・ああ、わたしの人生も、これまでかしら・・・)
激しい衝撃を、とっさに予感する。
「死んじゃうのかしら、もしかして・・・」ちひろがさらに固く、両目を閉じる。
どさりと落ちた背中が、柔らかいものに包まれて衝撃が吸収されていく。
(あら・・・柔らかいショックです?。変ねぇ)激しい痛みを覚悟していたちひろが
予期せぬ軟着陸に、驚きを覚える。
砂浜にしては、柔らか過ぎる。まるでマットの上にでも落ちたようだ。
ちひろが目を開けた瞬間。背中から、かすかなうめきの声が聞こえてきた。
「ホントに重いな・・・お前。俺の全身の骨が、砕けるかと思ったぜ」
間一髪で山崎が、ちひろの下へ身体を滑り込ませた。
高校野球で鍛えてきたスライディングが、ちひろのピンチを見事に救った。
あわてて身体を起こそうとするちひろを、山崎が下から制止する。
「お願いだから、動かないでくれ・・・気持ちが・・・」
「どうしたの。どこか、怪我でもした?。
骨が折れて、気持ちが悪いのかしら。痛くない?。ねぇホントに大丈夫?」
「いや、痛いわけじゃない。
君のお尻が、とても柔らかくて、気持ちが良い。
それに、なんともいえない良いにおいがする。
お願いだ。もう少しでいいから、このままの態勢でいてくれないかなぁ。
君のピンチを救ったお礼としてさ・・・」
(58)へつづく
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