第30話 ゆきの迷い

自分で自分のことが、

良くわからなくなってしまうことも多々あるけれど、今回は嫌と言うほど良くわかっていた。


たぶん3日間は、「またね」と手を振ってくれた小栗くんの笑顔と、おそらく私のために歌ってくれた歌が、頭の中を何度も行き来する。


どうしても二度と会わないことを選ばなければならなかっただろうかと、未だに諦めきれずにいた。


こうなるだろう事は良くわかっていて、なぜこうなってしまったかはわからない。


月曜日だったから、金曜日までは仕事も忙しくて、おかげで少しは助けられた。

夕さんも忙しくて、夜もなかなか会えない日が続いたことで、またほんの少し助けられていた。自分で整理ができる。無理矢理押し込むのではなくて、ゆっくり丁寧に、自分でしまうことができる。


明日は土曜日で、そろそろ気持ちを切り替えないと、夕さんに不快な想いをさせてはいけない。


心が焦るだけで、何も変わらない…。


大きく息を吐いて、一人の部屋でテレビに目を移す。

明るい向こう側の世界が、実情はそんなに華やかな業界でなかったとしても、今は羨ましく思えてしまう。

小栗くんの歌声が頭の中に流れると、もしかしたらテレビの中にいたっておかしくない人だとさえ思える。


だとしたら、出会えた事だけでも、それだけでもありがたい。


あの声で、私のために歌ってくれた。

あの声で、あの表情で、好きだと言ってくれた。


どんなに寂しくても、

出会わなかった方が良かったとは、少しも思わなかった。



次の日は朝から雨。


目を覚ますと隣に夕さんはいなくて、でも帰ってきた気配はちゃんとある。


髪の毛をヘアクリップで止めてからリビングに向かうと、久しぶりにしっかり目の朝ごはんの支度が整っていて、夕さんはキッチンでコーヒーに砂糖を入れていた。


「おはよう、ゆき。今起こしに行こうかと思ってた。いいタイミングだね。」


「おはよう。相変わらず過保護だね夕さん。ありがとう!いい香り。」


コーヒーを持ってきてくれたゆうさんと一緒に食卓に座る。


目の前の夕さんも、さらさらの前髪で、Tシャツとスウェットで、私も軽く髪をまとめただけで、ルームウェアにしているワンピース一枚にノーメイク。

これで向き合っていて恥ずかしくないのも、二人の関係がそう言う関係だからだ。


決して気持ちが変わったわけでは無い。


耳までちゃんとバターを塗ってくれたトーストを食べながら、夕さんの顔を見上げる。


「大丈夫?疲れてる?私の方が早く帰っているのに、何もしてあげなくてごめんね。」


「何時に帰るかわからないのに、何かして待っていてくれたら心苦しいから、別にいいんだよ。」


「今朝ぐらい早く起きれば良かったね。」


「そんな風に気を遣わないで。私は好きでやってるだけだから。」


言葉の選択も、表情も、声の高さも、何か良くない雰囲気を含んでいた。


そんなに気に触ることを言っただろうか。

何となく息苦しくなって下を向く。


「ゆき、昨日お昼に、会社に来客が来た。」


「うん。」


良くない話だ。直感でそう思った。

防衛本能で体が固くなる。緊張していることに気付かれたくないと思っていても、それはおそらく無駄な抵抗で、私は明らかに悪いことをした子供が嘘を隠すような顔をしているだろう。


「受付から呼ばれて言ったら、見たことのない女の子が待ってた。ゆきと、小栗さんの写った写真を見せられて、手を組みましょうと言われた。」


「萌さん?」


「多分。受け付けには、全く違う名前の名刺を出してたけれど、黒髪でおかっぱの…。」


「萌さんだ。それで、どうしたの?」


「丁度、お昼の時間だったから、喫茶店で話をしたんだけど。ねえ、ゆきは、萌さんと会って以降、小栗さんと会っているの?」


一回は山田さん家で偶然。一回は小栗くんの気持ちを知っていて、会いに行った。


今のこの雰囲気の夕さんに、それをどうやって伝えたらいいだろう。


体が冷えていく。また、到底わかってもらえないだろうという、不安しか無い濃霧のなかに立ちすくむ。


「写真は、ゆきたちの後ろに、そういった類いのホテルが写っているものだった。ゆきが今、何も言ってくれないと、何も情報がない私は何を信じれば良いかわからなくなるんだけど。」


「え?何のこと?夕さんの言っていることが全くわからない。」


今の私の感情は恐怖だ。


目の前の夕さんは見たこともない冷静な顔をしている。

写真って何?いつ、誰が、どうやって撮ったの?

萌さんはどうやって夕さんにたどり着いた?職場で、別人に成りすまして夕さんを呼び出すってどういう神経だ。

身に覚えの無い、そんなものを、夕さんに見せて、そこまでして誰かを手に入れたいと言う怖いほどの強い感情。


「ゆきは、小栗さんとホテルには行っていない?」


「行ってない!」


「駅前のホテルだった。前を通りすぎているだけのようにも見える。タイミング良く撮られたんだと思う。でも…」


「もう会わないでほしいと伝えていたよね。私は何も聞いてなかったし、突然職場に押し掛けられて、そんなものを見せられたらさすがにキツイ。」


「…萌さんは何て言ってたの?」


「ゆきの知りたいことではなくて、私の質問にも答えて。」


夕さんの言う通りだ。言葉が出ない。


今度は何かを言おうとすると喉元だけが熱くなる。緊張で頭の中は全く整理できない。


何を、どう話したらいいのか。

駅前の写真なら、羽山さんのお店で会った時の物だ。


「えっと、小栗くんから、少しだけ時間をくださいと言うメールが来て、今週の月曜日に、2時間だけ約束をして、お店で会いました。」


「内容は?」


「萌さんとお話ししたことのお礼と、もう、これで会うのは終わりにしましょうと言う話をした。」


「ゆきから?」


「小栗くんから。」


「小栗さんがゆきに会いたくない理由は?」


どうせわかっているんだ。だいたいどんなこともお見通しの夕さんが、私の口から言わせようとしている。

尋問みたいで段々苛立ってきた。


私は夕さんの所有物ではないし、他の男性に絶対に会ってはいけないなんていうのもおかしい話だ。


そもそも何も後ろめたいことはしていないのに、夕さんの為に、萌さんの為に、わざわざ切った関係を、こんな風に詰られるのは全く腑に落ちない気持ちになってきた。


「夕さん言い方が怖いよ。感じ悪い。」


うつむいたまま呟いた後、自分の口から出た言葉の温度に自分で驚いた。

口に出して自分の耳で聞いて始めて、それは絶対に言ってはいけない言葉だったと我に帰る。


恐る恐る夕さんの顔を見上げる。


「ごめんなさい。自分が悪いのに言い過ぎました。」


と囁くように言うと、私を変わらず冷静な目で見つめている夕さんは、テーブルに乗せられた手を、肩が震えるほど強く握った後、大きな息を吐く。

その息と同時に、


「こんな忙しい時に…。」


とこぼす。


こんな忙しい時に…


の後の言葉は

何?


面倒を持ち込むなとか?


私の事を考える暇もないのにとか?


それとも、自分が忙しい時を狙って小栗くんと会っていたと疑っているのか。


大きな声でわめき散らしたい気分だった。


そんな言い方は無いだろうと、

自分だけが忙しくて、

自分だけが被害者で、

私だけを悪者にしたような顔で見ないで欲しい。


『今のはひどい!』と叫びたい。


でも、職場まで見ず知らずの女の子に押し掛けられ、突然彼女と他の男の写真を見せられた夕さんの立場のキツさだってわからないわけじゃない。

だからまた、

私は夕さんには絶対に正面からぶつかれない。


何もしていない。


小栗くんと私は、何もしていないのに、ちゃんと回りの人たちの想いを考えて区切りをつけたんだ。


なのになんで、萌さんはそんな身勝手なことをするの?


夕さんは私をそんな目で見下ろすの?


悔しさで震える体から、ボロボロと涙が落ちる。

今泣いたら余計に良くない雰囲気になることは、何となくわかっていても、それでも我慢できなかった。


「ゆきは結局、ここまで追い詰められたって、私に対して必死で何かを伝えようとはしないんだよね。その涙の理由も、今の私にはわかってあげられない。ゆきが、何も教えてくれないから。」


「……。」


「やっぱり何も言わない。私が今のゆきの涙を脱ぐって、抱き締めてあげたら、ゆきは嬉しいのかどうかすら、わからない。」


今ここで、私が好きなのはあなただけだと、信じて欲しいと、愛してるんですって伝えたら、そうしたら何もなかったように穏やかな時間が戻ってくるの?


でも今、今の私の感情で伝えたら、それはその場をしのぐ為の台詞だと、どうせわかってしまう。


それほどまで、今、目の前の夕さんの、いつもは大人だと思えた冷静な対応が、私にはとても嫌なものだった。


黙っている私に、夕さんは吐き捨てるような小さな声で呟いた。


「私が変わろうと努力したって、ゆきは心ごと私のところには来てくれない。」



後から思えば夕さんも、この状況で、私が取り乱して気持ちをさらけ出さなかったことが、どんなに悔しく辛かったかと想像できる。

でもこの時私は、「私が変わろうと努力したって」と言われたことが、あなたは何も努力していないよね、と言う意味で言ったものだととらえてしまった。


これ以上は話していても何も好転しないと思った。


せっかく揃えてくれた朝食を半分以上残したままで、黙って席を立ち、おそらく5分ほどで着替えをして鞄を持って家を出た。


とにかく早く出たかった。


自分の心が壊れてしまいそうだった。


夕さんのことをとても大切に思っていて、その関係を壊さない為に私なりの努力をしてきた。

夕さんがすべてにならないように、仕事も、プライベートも努力してきた。


「ゆき」て、優しく呼んでくれる声が、私を見る時だけ穏やかになる眼鏡の向こうの目が、時々苦しいぐらい強く抱き締めてくれる腕が、頭を撫でて誉めてくれる時の大きな掌が、体温が、本当に大好きなのに。なんでわかってくれないのか、信じてくれないのか…。


朝なのに、雨のせいで外は薄暗く湿っていて、外を歩く人も少ない。


化粧もしないまま、流れ落ちる涙もそのままで、アパートの階段を降りたところで10分は立ち止まっていた。


「ごめん!」って

「言い過ぎだった」って

「信じてるから戻ってきて」って


夕さんがかけ降りてきてくれないかと待っていた。


そうしたら私は、迷わず胸に飛び込んで、「あなたを愛してます。」て伝えられるのにと。


でも、

夕さんは追いかけて来てくれなかった。



行く宛もなく雨の中を歩きながら、私は何てわがままな人間なんだろうと思った。


夕さんが、何も教えてくれないと私に言った時、その時にちゃんと気持ちを伝えれば良かったのに。


追いかけてきてくれるかどうかを試して、相手の気持ちを確かめてから、自分が後だしをしようとした。そうすることで、また少し自分を有利にできると思ったのかも知れない。


そんな馬鹿なこと、うまくいきっこなかったのに。


山ちゃんの顔が浮かんで、小栗くんが絡んだことで山ちゃんに泣きついたら、きっと自分のせいだと悩ませてしまうだろうと思い、頭の中でそっと隅に置く。


実家には、今の顔ではとても帰れない。


華江ちゃん家なんて知りもしないし、何も打ち明けられない。


友達にも今の自分は見られたくない。


行くところがない。頼る人もいない。


自分をさらけ出せる人がいない。


小栗くんの顔を思い出して、今、一番会いたいと思った。


何も言わなくても、今の私を見ればすぐに察してくれるだろうし、詳しいことなんて何もわからなくても、ただ側にいてくれるだろう。

「どうしたの?大丈夫?」なんて大袈裟なリアクションは全く要らなくて、ただ黙って隣に寄り添ってくれる人がいて欲しい。


でも、そんな弱さが、きっと今の事態を招いたんだ。


携帯を握りしめたまま、小栗くんは土曜日が忙しいんだから、と自分に言い聞かせてただ真っ直ぐに歩く。

駅に近づいて来たところで、傘をさしていなかったことに気が付いて、どこか、シャワーを浴びることができる場所に行きたいな、と思った。


一人ではさすがにホテルにも入れないし…。


冷えきった体が勝手に震えて、辛くなってきた。

目の前に現れた、普段は気が付きもしなかった24時間営業のネットカフェの看板がとてもきれいに輝いて見えて、飛び付くようにお店に入った。少し料金が高いけれど、個室をお願いし、バスタオルをレンタルして部屋に入る。


一人の部屋で、外より暖かな空気に包まれて、誰の目も気にせず、誰かに何かを言われることも気にせず、リクライニングチェアに深く腰を掛けて体重を預けると、言い知れない安堵で大きなため息が出た。


こんなに弱いんだ私。


この狭い空間に一人になってようやく、心からホッとしている。


状況は何も変わらなくて、問題は山積みで、でも今この時だけでも、ようやく呼吸ができるようになった。


着替えを買ってくれば良かったと後悔をしながら、ドライヤーを借りてシャワールームへ。始めての場所は得意ではないのに、家にいるよりは、と思うと普通に行動できた。


シャワーを浴びて、洋服をドライヤーで乾かし、ホットコーヒーを持って部屋に戻る。


小さな部屋中がコーヒーの良い香りになって、服も乾いて、ようやく気持ちが落ち着いてきた。夕さんの入れてくれたコーヒーには、ちゃんと砂糖が入っていたはずなのに、一口も口をつけずに出てきてしまったことを思い出して、この後どうすれば良いのか、どんどんわからなくなる。


取り敢えず、少し眠ろうかと思った。

気持ちが疲れはてて、今はとても良いように運ぶ方法を考えることなんてできそうにない。


ブラックコーヒーには一口しか口をつけずに、リクライニングシートをフラットにして横になる。部屋の中のホットコーヒーの香りと空調の温かさと、自分の手の体温をお腹に感じて、そのわずかな温度に拠り所を探しながら、目を閉じる。


熟睡できるわけもなくて、まどろみの中で、何度も夢を見る。


夕さんが両手を広げてリビングで待っていてくれて、「ごめんね」て何度も謝ってくれる。大きな掌で背中を優しく撫でてくれて、頬に頬を寄せてくれる。

いつもの夕さんの声色で、いつもの夕さんの香りがして、心のそこから安堵する。


そして、見慣れない天井をぼんやりと眺めて夢だったな、と涙して、また目を閉じる。


今度は何故か小栗くんが、今いるこの場所に迎えに来てくれる。今度はリアルだって、夢の中の私が思う。

もう悲しませないからって、抱き締めてくれる。

抱き締めてあげたことはあるけれど、抱き締められたことなんて無いのに、すごく落ち着く感触に思えて、本当はこの温もりを求めているのだろうかと、自分の気持ちを疑い始める。けれど、一人の寒さに気が付いてまた目が覚める。


誰かがいないと生きていけない。そんな自分は嫌だ。そうなるとこんな夢は、どちらに転んでも悪夢だ。


このお店の受け付けに立った時、数時間で家に戻れる気がしなかった。勢いで24時間パックにして正解だったな、と今日始めて自分の行いを少し誉めたい気持ちになって、また目を閉じた。


ほんの少し、夢を見ずに、深く眠ることができた。


小栗くんが抱き締めてくれた夢の余韻の方が、わずかに自分を強くしてくれているように感じた。








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