第26話 あの頃の萌のはなし

夕さんは、可愛いという言葉とは遠くかけ離れたところにいる。大人の男性だ。


「ゆき、くれぐれも『大変だね』と、『頑張って』は駄目だよ。会社の話とか、社会に出てる女性の話とかも。」


「大丈夫!それぐらいのことはわかってるつもりだよ。」


「ごめん、どうしても気になっちゃって。」


「私も正直憂鬱だけど…。」


「そのままのゆきでいいんだよ。必要なのは、事故以前の事も後の事も、今以外何も知らないという立場なんじゃない?友達は人生に絶対必要だ。恋人だけでは豊かにはならないから。」



小栗くんと話をした日の、翌週土曜日に萌さんと会う約束をした。もし萌さんが嫌だと言ったら無くなる話だ。待ちぼうけは嫌なので、自分の名刺の裏に携帯gmailアドレスをメモして小栗くんに渡す。


「ゆきさんやっぱりかっこいいね。就活全くしてないから、会社の規模はわからないけど、名刺がかっこいい。グラフィックデザイナーって絵を描く人?」


「簡単に言えば絵を描く人だね。名刺のデザインも私だよ。誉めてもらえて嬉しい。小栗くんこそ、名刺の肩書きに見とれたよ。星は好きだけど、理科は苦手なの…。専門的な知識があるなんてかっこいい。」


「いつまでも星を眺めてるなんて、いつまでも夢見心地な子供みたいだよね。」


「小栗くんのイメージと合ってるよ。」


「子供っぽいって肯定してる!?」


「冗談だよ。」


「酷いな…。」


できれば、もう会わずにと、


言えなかった。


萌さんの事だけなら、この後もメールのやり取りで何とかしようと思えば何とかできる。


でも萌さんの気持ちは、やはり小栗くんに伝えなければ意味がない。


メールだけだと伝わりにくい。


帰り道、山ちゃんのお店前の道まで一緒に歩いて「それじゃあ」というと、小栗くんは深々と頭を下げる。


「今日は本当にありがとう。今日だけでも充分、心を持ち上げてもらった。迷惑は承知で、どうか萌の事、よろしくお願いします。」


「うん。来週の土曜ね。」


子供が友達と別れるときのように、軽く手を振る。と、同じように手を振って返してくれる。


別れた後、つい、大きなため息が出る。

夕さんに全部話そう。

この前のように、後からそんなつもりじゃ…と心の中で言い訳しても、それは所詮言い訳で、もっと良いやり方があったということに変わりはない。


良いやり方、やはり話しておくことだろう。


20時過ぎ、家の電気がついていて、やっぱり夕さんは、今日私が小栗くんに会いに行っていること、気にしてる。


「ただいま!」


「おかえり。」


玄関で大きな声で叫んでみると、リビングの方から返事が来る。廊下まで、やっぱりいい香りで、私が夕食を食べて来るかもとか、きっと思っただろうに、何もせずに待てない夕さんを思うと、心が緩む。


わかってくれるはず。


「夕さんただいま。」


リビングの扉を開けて、キッチンを見る。

食卓に氷ののったそうめんと薬味、おつゆ、茄子とピーマンの揚げ浸し、夕さんが今冷蔵庫から出してきた缶ビール。


「お疲れ様、夕方でも暑かったでしょ?食べて来るかな?とも思ったから、軽めに。お腹いっぱいなら私に付き合って。手を洗っておいで。」


「夕さんありがとう!1杯呑んで、少し食べたけれど、そうめんなら食べたい!」


「そんな感じかなと思って。さすがでしょ。」


「さすがだね。」


荷物をおいて、手を洗って食卓につく。

気の重い話は先に済ませたい。すっきりしたい。


「ねえ夕さん。」


「何?」


冷やしたグラスにビールをそそいでくれる。


「山田さんは元気にしてるって、それで、今はまだ無理できないから、夜はお店やってないけれど、お昼に開けてるそうなの。」


「良かったね。夜もまたお店開けられるようになるのかな?」


「詳しくはわからないんだけど、今週土曜日に、あ、もう明日だね。山田さんのお店に一緒に行かない?」


「え?一緒に?何か嫉妬してる彼氏みたいでちょっと気が引けるけど。そうじゃないとも否定できないし余計に…」


「夕さんでもそんなこと思うんだね。」


「ゆきは私を買い被りすぎなんだよ。そのぐらいの事は思うでしょ。嫉妬もするよ。」


「夕さんが素直だ。」


「そうしないと、ゆきがまた自分の中に溜めちゃうでしょ。」


「そうだね…。うん、私も素直に話す!後で今日の私をバカだって罵ってもいいけれど、まずは話を全部聞いてくれる?」


「ゆきがよかれと思ってした行動を罵ることは無いよ。ちゃんと聞く。どうしたの?」


『どうしたの?』と聞いてくれた時の声がすごく優しくて安心した。


小栗くんの抱えているもの全てを夕さんに横流しにするのは、それなりの覚悟で話をしてくれた小栗くんに対してとても失礼な気がして、本当は好きじゃない。

それでも理解してもらえなければ始まらない。


できるだけ教えてもらった事実以上には膨らまないように、できるだけ坦々と、小栗くんと萌さんの現状の辛さを伝えようと努力した。


夕さんは、ただ頷きながら、ずっと真剣に話を聞いてくれた。嫌な顔一つせずに、ずっと目を見て聞いてくれた。

その事に、私はどれだけ救われただろう。

夕さんにとっては、二度と会って欲しくないとまで思っている相手の面白くも何とも無い話。


「わかった。それで、山田さんのところへは、萌さんの事を聞きに行きたいんだね?」


「うん。おそらく山田さんは事故以前の萌さんを知っているの。でも、これ以上のお節介を一人で背負って転んだら私が辛い。ただ、今のままではあまりにも情報が少なくて不安で。夕さん。わがままとわかっていて、冷静な目で判断できるよう、ついて来て、お願い。」


「わかった。これが職場の知人程度の人の話なら、なんて面倒なことに首を突っ込んだんだって言うだろうけれど、私はこう言う時、一度親しくなった友人をほってはおけないゆきが、ゆきらしくて好きなんだよきっと。」


夕さんが眉を下げて、口元は優しく微笑んで、仕方ないねって、子どもを見るように私を見つめる。


茄子の揚げ浸しの、生姜の香りが疲れを癒してくれる。

夕さんは、私を丸ごと受け入れいようとしてくれていて、きっと我慢している。それがわかっていて、自分は自分の正義しか貫けない。それなのに笑ってくれる。


「夕さん、こんな自分勝手な私は、夕さんのため何ができる?」


「そうだね、まずご飯を食べて、シャワーを浴びて、早く一緒に寝よう。」


「誘ってる?」


「当然。私のところにちゃんと戻ってきたって、確認しないと気が済まないから。それぐらいカッコ悪いんです、私なんて。」


クスクスと笑っていたら、そんな私の頭をそっと撫でる。


「話してくれてありがとう。悩んだでしょ?」


「うん。」


ベットの中の夕さんは、宣言通りいつもより強く私を求めてくれた。


それに応えることで私の気持ちも救われたから、結局全部丸ごと夕さんの気遣いの上に成り立っている関係のようにさえ思えてしまった。


次の日はまた、日中の陽ざしが真夏を思わせる白さで、私は半袖のワンピース一枚で山ちゃんのお店へ行った。


夕さんと並んで扉を開けるのはとても緊張して、でも山ちゃんはすぐに窓ガラス越しの私たちに、気が付いて、入り口まで迎えに来てくれた。


「いらっしゃい。本当にお似合いのお二人ね、見とれちゃったわ。」


山ちゃんは少しだけ痩せたかな?と思ったけれど、変わらない笑顔と雰囲気にとても安心した。


「はじめまして。渡川と申します。お会いできて嬉しいです。」


「山田と申します。お越しいただき本当にありがとうございます。」


穏やかな表情の二人の挨拶。


「山ちゃん、お久しぶりです。元気そうで本当に良かった。情報をもらうのが遅くて、なかなか会いに来られずごめんなさい。」


「いいのいいの。さっ、入って。」


今日ははじめてテーブル席を案内される。でも、山ちゃんと話がしにくい…。


「山ちゃん、実は山ちゃんに聞きたいことがあるの。できるだけ仕事の邪魔にならないようにするから、カウンターでもいい?」


「もちろんどうぞ。」


いつか来ると思ってた。とでも言うように、聞きたい話の内容など全てお見通しのように、ただ優しく笑って、いつもの席の椅子を引いてくれた。


夕さんが、いつも小栗くんの座る席に座る。


小栗くんの時より、距離が遠く感じる。椅子のセッティングは、このくらいの距離が保たれているはずなんだなと、気が付いてしまった。


昼時を少しだけ外した1時半。お客さんは3人、コーヒーを飲んでいたり、アイスティーを飲んでいたり。


「お二人はお昼は済ませた?ランチ用意できますよ。」


「山ちゃん、少し丁寧だね。」


「いい男は緊張するわ。」


さらっと言って笑う山ちゃんを見て、夕さんは声を出して笑った。


「ははは、光栄です。とても雰囲気の良いお店ですね。実はお昼まだなんです。いただけますか?」


「喜んで。ゆきちゃんが好きな、挽き肉の入ったオムレツも作れるわよ。用意する?」


「する!」


「ふふふ、今日の雰囲気はいつもより百倍可愛いわね。」


「誉められてる?なんか失礼な気もする。」


「ゆきちゃんを可愛くさせてる彼を誉めてるんだもん。」


「酷いね…。」


また夕さんが声を出して笑っていた。

やっぱりこのお店には魔法がかかっていて、さっきまでの緊張は、気が付けば嘘のように

どこかへ消え去っていた。


私が始めて来た時のように、夕さんに不必要な質問をいっさいしない。


昨日もここに座っていたかも、と錯覚してしまうほど、居ることが当然のように、自然に受け入れてくれる。


アイスコーヒーとサラダ、オムレツとパスタを出してくれる。


バターの香りが食欲をそそるオムレツに、夕さんもただひたすら感激していた。


お客さんが一人帰った2時過ぎ、山ちゃんが私たちの前でグラスを磨き始める。


「バーテンダーぽいね。」


「一応ね、ダメもとでかっこつけてみるわ。」


「ふふふふ」


「絢くんのことかな?」


「近からず遠からず。」


「おかしいわね。またハズレた?」


「萌さんのこと。」


「絢くんから聞いたの?」


「うん。」


「そう。」


「小栗くんに、萌さんの友達になってほしいと頼まれたの。少しでも、萌さんの本当の気持ちを知ることができたらと思っているみたい。」


「それは大役を任されたわね。ゆきちゃんに頼みたくなる気持ちは私もわかるけれど。」


「山ちゃんは、萌さんの事、なにか知っている?小栗くん本人には根掘り葉掘りは聞きずらくて、でも今のままでは情報が少なすぎて不安なの。」


「そりゃそうよね。今の事は何も、本人からは聞いていないからわからないの。私が知っていることは事故以前の事だけ。それでもいい?」


「うん。」


夕さんが、カウンターに腕をのせ、真剣に耳を傾ける姿勢に変えた。

自分の事のように真剣な表情で。


「絢くんが、大学生の頃いろいろなお店で歌っていた事は聞いた?」


「うん。」


「萌ちゃんはね…」


絢くんが歌う時には、どんなお店でも見に行ってた。私と知り合ったのは、当時私が働いていたライブハウス。絢くんが歌う日は必ず居るから、ファンですか?て声をかけたの。

そうですって答えた。

でもいつもわりと後ろの方の、ドリンクカウンーの近くにいたから、少しずつ話すようになってね。

ここからは絢くんも知らない情報かも知れないけど、萌ちゃんと絢くんは高校の同級生で、その頃から萌ちゃんは絢くんを好きだったの。天文学にはさほど興味はなくて、でも絢くんと同じ大学に入りたくてかなり努力をしたみたい。

自分の体力度外視で、ライブに観測にって殆ど全てを献身的にサポートして、いつかいないと困る存在だって思ってくれたらいいって、私に言ってた。

自分から好きだと言ったら、絶対に振られて離れていくから、絶対に言わないんだって。

その頃絢くんは向かうところ敵無し状態で、何に関してもうまく行く方向に走ってたから、私から見ても恋愛や女性に興味がある感じではなかったわね。萌ちゃんはとても一途で、うまく行ってほしい気持ちもあったけど、私も萌ちゃんにはけしかけなかった。うまくいかないと思ったから。

でも、男友達が絢くんをやっかんだり、本当に心配したりでいろいろ言うところを、萌ちゃんだけが絢くんの行動全てを肯定的にとらえて、押し付けるでもなく動いていたから、絢くんは確実に助けられていたのよ。

そんな二人が、あの日以来どんな思いを抱えているのかは全くわからない。

あの頃は私ともかなり親しく話してくれたけれど、萌ちゃんは私のところにな全く来てくれなくなっちゃった。

絢くんもここ以外では歌わなくなっちゃったし、仕事は海外にと言っていたけれど、今のところで落ち着いているしね。



山ちゃんから聞いた『萌ちゃん』は小栗くんから聞いた『萌』とはちょっと違った。

小栗くんの事をただ大好きだったらしいことは同じで、『萌ちゃん』は小栗くんの気持ちを考えて、自分の気持ちを抑えられる人で、『萌』は自分の気持ちだけで前に進んでいる人だと思った。


山ちゃんにお礼の言葉と、くれぐれも無理をしないようにと伝えて、お店を出た。


帰り道、夕さんが呟く。


「萌さんはちょっと怖くて、可愛そうな人だね。」


「怖かった?」


「ああ、相手のために、と言って動いていることは全て、自分に返ってくることを望んでいたのならね。」


「そっか。そういう風にも捉えられるのか…。ただ純粋に一途なのとは違う?」


「わからないな。こればかりは、会ってみてもわからないかも。」


「すごく強い思いだよね。自分に興味の無い学科に進んで勉強することも、ライブ全部を見に行くことも、私には到底できない。自分らしさは二の次で、相手が一番って事だもんね。」


「それか、そうしている自分が、自分らしいか。だな。」


「依存しているみたいなこと?」


「精神的な依存になるのかな?全部やってほしい依存ではなくて、相手に尽くしていることで、自分の存在意義を獲得してるとでも言うのかな。」


「私も何となくわかるかもしれない。そうしていると安心な気持ちも。」


「でも、とにかくフラットな気持ちで向き合った方がいいね。決めつけて前に立たれたら絶対に心を開いてはくれないよ。」


「心を開いてもらえることが目的なのかどうかもわからないけれどね…。」


「ゆきが、引き受けちゃったからね…。」


「そうだねー。」


15時半、まだまだ活気ある夏の陽射しの中で、家までのほんの少しの道のりを、二人で苦笑いで歩く。


でも一人では無いから、話を持ちかけられた日の帰り道よりずっと楽な気持ちだった。


そうして一週間の心の準備期間があって、翌週土曜日はすぐにやってくる。


朝からそわそわしているのは私一人では無くて、出掛ける前の夕さんは、もはやお父さんのようだった。


家を出ると、湿度を含んだ風が顔にあたる。出掛けること自体に気持ちが後ろ向きになる。


「ゆき、あまり深入りしないで。なんて言っても好きなようにするんだろうけれど、本来ゆきが背負うような問題ではないんだから、辛くなったら逃げて帰ってきてよ。」


「わかった!」


無駄な気合いを入れて駅に向かう。

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