第23話 夕さんの本音
夕方になれば涼しく爽やかな風が吹く。
午前中は街路樹の緑が真っ白な日に照らされて、見ているだけで温かさを感じる7月初め。
帰り道、毎日山田さん家の方を覗くけれど、明かりは一向に灯らない。
いよいよ不安になってきて、やっぱり山ちゃんの容態は良くなかったんじゃないかとか、あれから急変したのかもしれないとか、どんどんマイナス思考になっていく。
せめて、小栗くんか、奥様か、田中さんか、誰かと連絡がとれて、山ちゃんの無事が確認できたら良いのに。
それでも明りが灯れば、足はお店へと必ず向かうだろうところを、今のところそうはせずにいられることで、夕さんへの罪悪感は感じずにいられる。
とても複雑な心境。
あれから夕さんは、ちょっとおかしい。
優しい、と言えば優しい。疑われているのか?と考えれば、そうとも捉えられる。束縛されている、と誰かに言われたら、そうかもしれない。
【from渡川 夕
今日の予定
早めに帰れそう。
お夕飯の支度を買って帰るから、
ゆきはゆっくりしてて。】
なんてメールが入ったら、残業したくても、本当は少し買い物して帰りたくても、そうはいかなくて、真っ直ぐに帰って、朝急いで出た後のリビングの片付けをしたり、お風呂を洗ったりして、夕さんだけの負担にならないように私も動く。
私が先に帰っていると、夕さんはとても嬉しそうで、「ただいま」て、私の頬にキスをしながら髪を撫でてくれる。
「ゆきが待っていてくれる家は、本当にいいね。」
と言いながら、私の肩におでこをあてて、腰の辺りにそっと優しく触れる。
ずっと完璧男子だった夕さんが、私に甘えている感じがする。嬉しいようで、何か不思議な感覚にとらわれて、くすぐったい感じもする。
私を求めてくれているのは実感できる。
側にいてくれる時間が長ければ安心だし、寂しくない。
それなのに、心の底から喜べないのは、どこかに不安があるから。
夕さんほどの男性とお付き合いをしていて、それが贅沢な不安なのは良くわかっているし、もしかすると私の一方的な自惚れかもしれない…。
でも、
今のままの夕さんだと、
仕事をやめて、結婚して欲しいとか、
言いかねないのではないかと思っている。
夕さんの口からは、結婚の『け』の字も出ていない。『ずっと』とか、『一生』とか言われた事すらない。完全に自惚れだったら恥ずかしすぎるから、仲の良い友人にすら、こんな不安は言えるはずもない。
そもそも不安に感じる必要も無いものに怯えている、勘違い女かもしれないのだから。
私は、私の生き甲斐が、家庭や家族だけになったとしたら、それは、自分の存在意義を、夕さんの中にしか見いだせなくなる、という事のように思えてならない。
『私らしさ』が、夕さんと一緒にいる時だけになってしまっても、夕さんは、変わらず私に魅力を感じて、求め続けてくれるのだろうか。
自信がない。
もし、夕さんが心変わりをしたら…
もし、突然いなくなってしまったら…
もし、またひどく自分に自信が無くなってしまって、自分の価値について迷うことがあったら…
この広い社会の中で、拠り所がひとつしかないということは、とても怖いことだ。
会社は、『あなたがここに在ることには意味がある』と地に足を着けてくれる場所。
迷っていても、やるべき事を明確に提示してくれる。
おかげで、強く立っていられる。
もちろん否定されることもある。
でも、努力次第で挽回することができる。
ひとつを落としても、次のチャンスは来る。
そうして自分の足で踏ん張って、挑み続ける私を、夕さんに認めて欲しい。
贅沢?
「ゆき」
「何?」
「この前話していた、心臓の病気で倒れてしまったお友達は、もう快復したの?」
「突然どうしたの?」
夕食も終わり、お風呂のお湯はりのスイッチを押して、二人で向かい合って洗濯物を畳む。穏やかな時間なのに、この話題は私をひどく緊張させる。
夕さんを見上げると、私の視線を感じてか、洗濯物を畳む手を止めて見つめ返してくれる。眼鏡越しに、いつもの優しい目だ。
「ゆきは気にしてるだろうと思って。それなのに、私は長く気持ちの整理がつかなくて、この家に縛るような事ばかりしてたよね。」
「夕さん?」
私は今の状況に、この生活に、不満そうな顔をしていたのだろうか。心の中で思っていた事が、夕さんには伝わってしまうのか。
口に出して言ったわけではないのに、『そんなつもりじゃないの』と、また心の中で一生懸命言い訳をする。
「そんな顔しないで、責めるつもりも、怒るつもりもないよ。ただ自分の器の小ささと向き合うのに時間がかかってしまって、ゆきには悲しい思いをさせたね。」
「そんなことない。」
目をそらしたい。また考えていることを全部読まれてしまいそう。夕さん、そうじゃない。嫌な訳じゃない。夕さんが全てな私では、いつか飽きられてしまう。それが一番怖い。
言った方が良い?このタイミングで?
「ゆき、大丈夫。私は怒ってないよ。目が震えてるよ。」
夕さんは、優しく笑って頭の上にポンと手を乗せる。
「ゆきにとっては大切な人かもしれないのに、わざと邪魔をしていた。しかもゆきを思いやるフリをして、本当に酷いよね。」
「そんなことないよ。」
「本当は気になっているんでしょ?あの日から後の事は、わかっているの?」
「わからないの。連絡先は知らないし、お店はずっと閉まってる。」
「小栗さんには?」
「会ってない。そもそも待ち伏せと偶然以外に会う方法が無いの。」
「気になってる?」
「……うん。気になってる、あの日は大したこと無いって言ってたのに、お店が全く開かないから、何かあったんじゃ無いかと思ってしまって、心配。その人はお店のマスターで、山田さんって言う45歳ぐらいの男性なんだけど、女性っぽい雰囲気のとても優しい人なの。アドバイスがすごい的確で、先生みたい。5回ぐらいは話したかな。」
「そっか。お店は自宅にあるの?」
「ううん。小さなマンションの1階部分。」
「山田さんと小栗さんは連絡とれるの?」
「小栗さんは山田さんのお店でたまに歌を歌ったりしてる人だから、たぶん二人は親しいと思う。」
「小栗さんは普段は何をしている人?何時に駅にいれば会えるの?」
「あっ!駅西口からバスで行ける科学館に勤めてるの。そこに行けば会えるのかな。」
「そうなんだ。それなら今週中にでも、午後時間がとれるなら休暇とって行っておいで。」
「…。」
「大丈夫。出会った人、一人一人を大切にするのも、ゆきらしさだと思う。そんなところも含めて私はゆきに惹かれているんだよ。」
「うん。」
「でも、お願いがあるんだ。今回のことが落ち着いたら…。」
珍しく夕さんの話が途切れる。
目を伏せて、洗濯物を見つめる。たぶん時間にすれば5秒もなかった。それなのに、とても長い時間に思えて、次に出てくる言葉が重要な事なのだと言うことは、鈍い私でも5秒以内で察しがついた。
「もう小栗さんには会わないで欲しい。」
眼鏡の中の夕さんの目は深く、真剣で、私は適切な言葉を選ぶことがてきずに黙ってしまう。
「ごめんゆき、本当に情けないんだけれど、ゆきと彼が一緒にいた時の雰囲気が、私の頭の中から消えてくれなくて、ちょっと辛い。外見から察するに、きっと彼の自由な感じは、ゆきを安心させてくれるんだろなって思う。」
「…。」
「ゆき、大丈夫だって、私の我が儘だってわかってる。何度も言うけれど、ゆきを責めてないよ。彼の出す雰囲気は私には出せないし、職場で知り合った私たちは、どうしてもお互いの一番真剣で、必死な部分に惹かれ合っているもんね。一気にスイッチオフにして接するって言うのは、たぶん難しいんだよ。」
「夕さんも、そんな風に思うの?」
「思うよ。ゆきは職場でも家でもしっかり者でいようとするから、もっともっと気ままな雰囲気を出してくれても良いのになって。でも、そう思った自分だって、ゆきに喜んでもらいたくて頑張っちゃうんだから、これは同罪だなって。」
「すごい。同じようなことを考えたことがあったの。職場で出会うって、気の抜きどころがわからなくて困るなって。でもそれはお互い様だなって思ったの。」
「本当にそうだよね。2年付き合ってたってこんなことで不安になるんだから、自分自身をさらけ出して認めてもらう自信って、なかなか無いもんなんだなと実感した。」
「本当はそんなんじゃいけないのにって、思ったりしない?」
「したよ。だからこうして本音でぶつかってる。すごい引かれるかもしれないとか、相手の大切なものを認められなくて、本当にそれで守ってあげてるって言えるのかな?とか、自問自答もかなりした。それでも、私は自分の気持ちを上手に納めることが出来なかったんだ。引っ掛かってしまったものは、どんなに格好悪くても、ゆきにちゃんと伝えようと、これでもかなり悩んで、決めたんだよ。自分の事ばかり話してごめんね。」
「夕さん。私すごく良くわかるよ。ありがとう。たくさん考えてくれて、本当にありがとう。仕事の都合を見て、気になってることはちゃんと解決してくる。夕さんに心配をさせてしまう私にならないように。」
「そうだね。山田さんの容態によっては、少し連絡を取り合ったりすることになるんだろうけれど、それは、ゆきが、そうしたいと思うことを、納得行くようにすれば良い。信じてるから大丈夫。」
『信じてるから』
の
言葉の重みが私の全身を包みこんだ。
重くのしかかる、という表現とは違う。私は夕さんに無理矢理縛られているわけではない。期待をされているわけでもない。
私らしさが好きだと、きっと言ってくれたんだ。
途中で投げ出すのではなく、心配ならとことん手を差しのべて来なさいと言ってもらえたと思った。
夕さんの『信じてるから』は、まさか裏切らないよな、という脅しでは無くて、私らしさを信じてる。そんなことで私を見捨てたりしないという意味だ。
真っ直ぐに私に向かう夕さんの目も、口元も、優しく微笑んでいて、すごく穏やかな声だったから。
いつもなら泣いてしまう。
ギリギリのところで私の気持ちを救って、優先してくれる夕さんの大きさと、温かさに。
いつもなら抱きついて甘えてしまう。
そうすることで緊張していた思いも、不安も、全てどこかへ吸収されてしまうから。
でも今日は、私の心は強いよと、ちゃんと夕さんに見せないといけない気がした。
「夕さん私、頑張る。」
「えっ?何を?これ以上無理しないでよ。」
「ふふふ。弱い自分に勝つんだよ。夕さんに呆れられちゃったらどうしようーって、ウジウジしている自分にも勝てるように。」
「何を頑張るの?」
「自分の事、もう少し甘やかしてあげようかな?」
「それは必要だね。」
「相手に言いにくいことでも、自分の気持ちぐらい、自分が大事にしてあげないとね。」
「本当にそうだね。」
「それから相手が伝えてくれた気持ちも大事にできるように、自分の弱さで、潰してしまわないように。自分に優しくして、人にも分けてあげられるぐらいじゃないとね。」
「うん。ゆき、大好きだよ。」
「うん。」
夕さんの方から、手を伸ばして引き寄せてくれた。
ちゃんと泣かずに、笑って見せた。
私はできる。
せっかく伝えてくれた想いに答える。
小栗くんの顔を思い浮かべながら、いつ会いに行って、どうやって話そうかなと、頭の中はフル回転になる。どうしたら感情を抑えてコンパクトに伝えられるか。考えてもどうせうまく行かないから、行き当たりばったりで行くか。
私のしばらくの課題はこの案件になるな。
と他人事のように思った。
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