第22話 夕さんのゆきへの想い
この前山ちゃんから、『そんなはずじゃないんだけどなーみたいな顔してる』と言われたことを思い出した。
今まさにそんな顔じゃないかと、どこか冷静な私が頭の片隅で思っていた。
夕さんが、私の顔を真っ直ぐに見つめている。お風呂にも入って、前髪もさらさらで、もう寝るだけの、半袖シャツとグレーのスウェット姿の夕さんが、ベッドの縁に腰をかけて、眼鏡越しにすごい強い力で私を見ている。
「ゆき。今日の帰りに、駅に一緒にいた彼とは、どういう関係?」
冷静で、ゆっくりで、だから余計に体の真ん中の辺りから冷えていく感じがした。
さっきまで、一緒にデレビなんかを見て話していたけれど、夕さんがそんな事を知っていて、気に掛けているだなんて、全く気が付かなかった。
大丈夫。悪いことをしているわけでは無い。
説明すればわかってくれる。
でも本当はすべて真実で説明したくはない。
ここまで来てもまだ、山田さん家のことは、私の中だけに、私の居場所として取っておきたい。
でもそれがただの我が儘だから、恋人である夕さんにありのままの自分で体当たりしないから、私は今この状況に追い込まれている。
わかっているのに、何をどう説明したらいいか答えが出ない。
そんなはずじゃかったのにな。
が、最もしっくり来る今の状況…。
「最近仲良くなったお友だちです。バーのような、カフェのようなお店のカウンターで食事をしていたら、2回、偶然隣になったの。」
「お互い連絡先を知っているの?」
「知らない。今日も、改札前で彼が私を待ってた。そのお店で知り会った共通の知人が、心臓の病気で倒れてしまったの。見舞いにいきたいから着いて来て欲しいって。」
「何でゆきじゃなきゃいけなかったの?たった2度会っただけの関係でしょ?」
「確かに。友達少ないのかな?」
「お名前は?」
「小栗さん。」
「年は?」
「私のひとつ下。」
「そっか。わかった。話してくれてありがとう。寝ようか。」
嘘はつかなかった。これが女友達なら何てことはない。私は小栗くんが女性でも同じように仲良くなって、今日と同じ行動をしたという自信がある。それでも自責の念に駆られるのは、小栗くんが間違いなく男性だ、というところだろう。わかっているなら、ここまで親しくするべきじゃなかったのか?いや、さほど親しいわけでもない。
夕さんにわかって欲しい。
でも言葉足らずな私が口を開けば、今せっかく沈静化したこの話題に、再び火がついてしまうこともあるかもしれない。
それだけは避けたい。
どうやって伝えたらいいのかわからない。
ただ、嘘をつかない、という誠意しか見せられない。
ベッドに入った夕さんが、私の分を広く開けてくれる。
ゆっくり横になったものの、上から誰かが乗っているのでは、と疑うほど胸を圧迫する居心地の悪さ。
隣で、深く呼吸をする夕さんを、怖いと思ってしまった。何も言われないから、何を想っているかも皆目検討がつかない。
気持ちがわからないということが、こんなに怖いだなんて。
怒られてでも、夕さんの気持ちをぶつけてくれた方がましかもしれない。今何を考えているのか、伝えてくれた方がよっぽど楽なのに。
夕さんが駅前で見たのは、病院に行く前?帰る時?それによって見え方が全然違う。
行くときは明らかに私から小栗くんに積極的に触れている構図だっただろう。
帰りなら、知らない人が見てもおそらく小栗くんの方から私に寄っていると気が付いたはず。
そんなことをとても大切なことのように考えながら、小栗くんと二人でいた時の自分の様子を冷静に頭の中で描いていたら、どちらも何ら変わりの無いことだと気が付いて、自分自身に幻滅する。
その光景を見た夕さんがどう思うか、それは行きも帰りも同じだ。
明らかに距離が違い。ただの友達に見えるはずがない。
私の今の説明で、逆の立場だったら全く納得がいかない。でも夕さんは隣で黙っている。
私に指一本触れずに、黙っている。
どうしよう。
謝る?
謝ったら余計に後ろめたい感じになる。
でも、私が嫌な気持ちにさせたことは謝らなくては。
どんな言葉で伝えたらいい?
小栗くんがすごく慌てていて、体調も悪そうで、仕方なく、何て言ったらただの自己防衛だ。
突然だったから、私も気が動転してしまって、ちゃんと考える余裕も無くて、何てことを理由にされて納得いくものだろうか。余計に自分は軽率な人間だとアピールしていることになってしまうのでは?
どうしよう。
このままでいいわけがない。
どうしよう。
布団に入っても、夕さんの隣にいても、一向に温まらない体、もう6月だというのに何でこんなに寒いんだ。
どうしよう…
遂に涙が出そうになる。
夕さんの事大好きなのに…。
ひがみっぽい自分が、後ろ向きな自分が、時折全く自信を持てなくなってしまう自分が、夕さんを幻滅させないように、苛立たせないように、いつも明るく前向きでいられるように作った逃げ場だった。
そのことが今、夕さんを怒らせる結果になっている。違う、悲しませているのか。
静かな寝室に、時計の秒針がちいさく鳴る。
こぼれそうになる涙をこらえながら、鼻をすするのはおろか、息を吐くのもためらって静寂を保つ。
もうどうにもできない。
こんな私には、今すべき事がわからない。何もうまくできない。
こんな場面で、気を遣うなと言った時の小栗くんの笑顔を思い出してしまった。
そんなこと言っても、どうすればいいかわからない。
素直に相手にぶつかっていく方法がわからない。
「ゆき。」
いつもよりワントーンは低い声で、夕さんが私に話しかける。真っ直ぐに、天井を見たままで。
「はい。」
「困ってる?」
「困ってる…。」
「何に困ってるか、言ってほしい。」
「何て伝えていいわからなくて困ってる。」
「ゆきはいつも、感情的になったり、必死になったりして、私に何かを伝えようとすることは無いよね。」
「夕さんだって…。」
「そうだね。さっき、ここに横になる前、あれ以上話していたら、もうゆきにどんなひどい言葉を投げてしまうかわからなかったんだ。男が嫉妬するのなんて格好悪いし、ゆきに面倒な男だとも思われたく無いし、冷静なフリをして話を切るのが精一杯だった。」
「…。」
「でも、このままだと、ゆきは泣いちゃうんじゃ無いかと思って。そうしたい訳じゃない。」
「…。ごめんなさい。」
「私がいつも冷静なフリをしているから、ゆきはあまり心を開いてくれないの?」
「そんなつもりじゃ…。」
「じゃあ、カッコ悪いとわかっていて、私から先に言うよ。私の帰りが毎晩遅かった時も、ドットドリンクの仕事の話の時も、さっきも、ゆきはいつも、自分の意見を言うときは私の様子を伺うようにしているし、一番言いたいんだろうな、という事を言う前に、私から目をそらしてしまう。」
「そんなこと…」
「彼を見るゆきの目は、迷いがなくて強かったよ。何が何でも自分に着いてこさせようとする強い意思を感じた。」
夕さんが見かけたのは、病院へ行く前だったのか。
会社を出る時、何で一緒に帰れるって、連絡くれなかったんだろう。
「私が知っているゆきも、そんなゆきだった。自分の信じた想いを守るために、強くなれる人だと思った。私が、ゆきを辛くさせているかな?言いたいことも言えず、閉じ込めさせているかな。」
「違う。」
「待つよ。話してくれるまで待つから。ぶつかってきてくれない?」
「どうしても嫌われたくない。」
「うん。」
「大好きだから。」
「ありがとう。」
「ヒステリックな女だとか、面倒な女だとか思われたく無い。」
「うん。同じだね。」
「ずっと夕さんの隣にいると、時々すごく自分に自信が無くなってしまうことがあるの。」
「何で?」
「わからない。私にはなにも上手にできないと思う事がある。今も、こんな私の言葉じゃ、ちゃんと伝わるはずがないと、思ってる。」
「大丈夫。ちゃんと聞いてる。」
「夕さんに、置いていかれたくない。失敗したり、悩んだりしてたら、置き去りにされてしまうんじゃないかと。」
「失敗も、悩みも、誰にだってあるでしょ?人間なんだから。」
「でも夕さんのそんなとこ、見たこと無い。」
「会社でだって、上司にはよく叱られてる。恥ずかしいから言わないよ。精神的に参ってる時に、朝ゆきが、大丈夫?なんて聞いてくれたら、顔に出てたかと思ってすごく焦る。器の小さいヤツだと思われたく無いから、ゆきをなだめるふりして、慌てて取り繕ったこともあるでしょ。」
そんなつもりで、夕さんに『大丈夫?』と聞いた訳じゃないのに、と不満に思ったことがあった。
今日の夕さんは、私に触れない。
私はさっきからずっとめそめそと涙で、こんな時は夕さんが子供をあやすように触れて安心させてくれることが多いのに、目も合わない。髪にも触れない。
「今まさに、私も自分に自信がない。ゆきに呆れられたらどうしようかと思って、触れることもできない。こんなに側にいて、こんなに大好きなのに。」
何も見えない。
それぐらい涙が出て、たぶん仰向けになって天井を見つめたままの夕さんの上に、自分から覆い被さるように抱きついた。
夕さんの胸の中で、声も出せずに泣いていると、頭をゆっくり撫でてくれる。
「あの時見た、緊迫した雰囲気からも、帰って来た時間から考えても、ゆきの言ったこと、ちゃんと信じてる。大丈夫。」
「ごめんなさい…。」
「でも、職場で見せている顔とは違う、私に甘えてくれるようなゆきの顔が、私だけが見られる顔だと思って好きだった。それなのに、彼に見せていたゆきの顔もやっぱり格好良くて、なんだか悔しかった。」
「…。」
「こんな小さな男で本当にごめん。連絡先も知らないって言うし、これ以上何か言ったらホントにくだらない人間だけど、でも、彼はゆきに気があるんじゃないかと思えて仕方ないんだ。これ以上は、あまり距離を縮めて欲しくないんだけど。」
「それはないよ。小栗くんには彼女がいるの。詳しくは知らないけれど。長くお付き合いしているみたいだし、周りにも知らせている仲みたいだよ。私には、同姓と同じような感情だよ…。」
「それはどうかな…男同士の勘の方がこういう時は当たることも…。」
夕さんの、誰にでも絶対にあるはずの、柔らかく、弱いところにほんの少し触れることが出来た気がした。
やり方は間違っていて、傷つけてはじめて見えてくるなんて本意じゃないけれど、心のどこかで、私はとてもホッとしたよな、嬉しい気持ちでいた。
「夕さんごめんなさい。こんな私なのに、こんな状況なのに、私今すごく嬉しいです。」
「丁寧語になってるよ。」
胸の中に埋めたまま話していた顔をぷはっと上げて、息苦しかった分の空気を胸の中にいっぱい吸い込む。
「ちゃんと、夕さんに思ってることを伝えるようにする!」
「うん。私もそうする。」
私は、もう二度と小栗くんに会わないとは、約束できなかった。
ひどい彼女だ。
私は心理学とかそういうのは全く良くわからないけれど、職場で出会い、恋人になると言うことは、少なからず『社会で活躍する人』としての相手に尊敬の念を抱きながら惹かれて、恋愛感情を持つようになるんだろうな、と思う。
恋人になっても、尊敬していた部分や、尊敬されていた部分は、守っていかないといけない感覚にとらわれてしまう。
でもそれはやっぱり社会人としていくらか仮面をかぶった自分だったりするから、だんだんと苦しくなってきてしまう。
夕さんの事をとても尊敬していて、大好きで、でも時々ひどく息苦しくなるのは、そんなことが関係しているのかな、と思う。
だけど、仕事をできる私も、失敗する私も、仕事の内容も、すぐに泣いちゃう私も、全部ひっくるめて『私』を選んでくれてるなんて、これ以上幸せな事はないはず。
それなのに、
どうしても「小栗くんに会わない。」
て、言えなかった。
それは、社会に生きる私は、こうでなければいけないと、自分で決めた自分像に潰されかけている私を、ほんの束の間、軽く持ち上げてくれる存在だから…。
どうしてもあっさりと、捨て去ることが出来なかった。
小栗くん、女の子になってくれないかな…。
と、どこまでも自分勝手な事を思う。
もちろん距離は縮めない。縮まらない。
この距離が丁度良い関係だから。
夕さんのくれた安心と、自分の弱さを責める思いに、心が別れてしまいそうな夜だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます