第21話 ゆきさんと小栗くんの関係
電車からホームに降りると、生暖かい風が頬を撫でる。
私はこの時期の、この熱くもなく冷たくもない風があまり好きじゃない。
春の清々しさもなくなり、夏のこれでもかと言うやる気も感じない。そんなこと言ったら季節に失礼だけど、梅雨時期ならではのぬるく湿った感じが、自分の嫌な部分を見るようにさえ思えた。
考えすぎだな。
時計を見て、買い物をする時間を考えながら、見慣れた景色の駅構内を早足で歩く。
携帯のケースから定期を抜いて、一番駅員よりの改札を通って外に出る。
「ゆきさん!」
騒音が溢れる駅前でも耳に届く、すごく良い声で呼び止められた。
小栗くんだと、すぐにわかった。
この声のせいで周りが一斉に小栗くんに注目している。私は周囲の目に少し気を遣いながら、小栗くんの方へ駆け寄る。
「久しぶり!どうしたの?」
「良かった。良かった会えたよ、良かったー。」
「何?待っててくれたの?」
「どうしても会いたいのに、この駅使ってるんだろうな、ってことぐらいしか知らないんだもん。確証もなくここに立ってるうちに、一晩待っても来なかったら、もう二度と会えないんじゃないかって思えてきて、すごい不安だったー。」
「どのくらい待ってたの?どうしたの?」
5月の連休明けのあの日から、1ヵ月程山田さん家には行っていなかった。
小栗くんにもなかなか偶然には会わなくて、とても久しぶりの顔に思えた。実際はたった1ヵ月なのだけれど。
「山ちゃんが倒れたらしい。昼に奥さんから連絡もらったんだ。」
「え!?奥さんいたの?」
「今驚くところはそこじゃない!」
「ごめんなさい。」
「怒ったわけじゃないよ。昼間に店の準備していたら、突然倒れたって、心臓か脳かって奥さんも病院からかなり不安定な感じで連絡してきたんだけど、僕も仕事中で電話にな出られなかったんだ。えっと…」
「つまりその情報は留守電かメールなの?」
「ごめん。わけわからないね。留守電に入ってて、何度かけ直しても繋がらないし。」
いつもあんなに流暢に話す小栗くんが、こんな風になるのか。
動転した様子の小栗くんの緊張が、私にもうつってしまいそうになるのを必死で阻止する。
今、私がしっかりしないといけない。
「病院はわかるの?」
「わかってる。留守電に入ってた。」
「直ぐに駆けつける?奥様に連絡とれてからがいい?」
「直ぐに行きたい。でもごめん、僕、病院にあまり良い思い出がなくて。しかもこんな感じで緊迫した中に駆け込むのがとにかく苦手で、一人では足がすくんで動けなくて。詳しくはまたゆっくり話すけど、ほんとにごめんなさい。ゆきさんしか頼れる人がいなかった。」
「うん。わかった。病院は近く?遠く?」
「ここからバスで…」
「じゃあタクシーだね。行こう。」
タクシー乗り場まで先を歩く私の、2歩ぐらい後ろを小栗くんが着いてくる。
姿が見えないまま歩くことが不安で、深く考えずに左手を伸ばし、小栗くんの右手をとる。
自分の横まで引き寄せて、「大丈夫。」と強く、自分に言い聞かせるように囁きながら、小栗くんの背中に軽く手を当てた。
触れそうな距離にいながら、触れたのはこれが始めてだった。
ドキドキしている場合じゃないのに、咄嗟にとった手も、軽く触れた背中も、ちゃんと男の人だった。
私の手に、夕さんとは違う男性の感触。
タクシーに乗り、行き先を告げる。
静かな車内で、小栗くんの息が上がっていることに気が付く。私、そんなに急ぎ足で歩いたかな?
心配になって顔を除き込むと、目を閉じて、口元に手を当てたまま、小栗くんの肩は大きく上下する。
「気分悪い?大丈夫?」
「すみません。大丈夫…。」
こんな時、どうすればよいかなんて私だってわからない。でもそのままになんてできるわけがなくて、身長差13cm程の小栗くんの肩を、少し背伸びをして自分の胸にグッと引き寄せる。驚いて目を開けた小栗くんの頭を自分の肩にそっと寄せて、髪をゆっくりと撫でる。
「絢仁…」
「大丈夫。大丈夫。」
そういいながら頭を撫でていると、大きく動いていた肩が少しずつ落ち着いてきて、顔は見えないけれど、力の抜けた様子に安堵する。
「ゆきさん良い香りがする。やらしい意味じゃなくて。なんだろう。すごい落ち着く。家の香りかな?」
「なんだろうね。小栗くんも良い香りする。ハンドクリーム、ロクシタンでしょ?」
「ふふふ、すごい。よくわかるね。香りフェチ?」
「そんなフェチもあるの?」
私の肩におでこをつけたまま話し続けるから、くすぐったさを我慢しながら、ずっと柔らかな髪を撫で続ける。
「もう一度だけ、名前で呼んで。」
「絢仁。」
「やっぱいいな、ゆきさん。いつかずっとそう呼んでもらえるぐらい親しくなりたいものです。」
「彼女持ちに言われても嬉しくない。」
「あんな完璧彼氏と戦おうとか、ちっとも思ってない。」
「ふふふふふ」
小さい声で笑いながら、少しの時間現実を忘れて、本題はこの車から降りたところに横たわっている。
大きな病院。
山ちゃんにもしものことなんて、まるで考えたくもない。大丈夫、大したこと無いというイメージで頭を埋め尽くして不安を押しやる。
また緊張し始めた小栗くんの手をとって、院内へ向かう。
総合病院の外来はとうに終わっていて、怖いぐらいがらんとした待合室を通り、救急受付の看板を目指して歩いていると、後ろから誰かに呼び止められる。
「絢くん!」
「おばさん!」
40歳後半くらいには見える。緩くパーマのかかった肩までの髪をひとつにまとまて、あまり化粧をしている様子でもなく、でも色白で目の大きな美人な女性だった。
「絢くん来てくれたの?ごめんなさい、おばさんが変な電話入れたから、心配かけちゃったわよね。」
「直ぐに来られなくてごめんなさい。おばさん、山ちゃんは?」
「軽度の狭心症で、命には問題ないわ。」
「軽度?それでも心臓ですよね?後遺症とかは大丈夫なんですか?」
「ええ、心臓の細い血管が詰まりかけただけで、今回は大事では無いって。心臓が止まったわけでもないから、直ぐに今まで通りの生活に戻れるわ。無理をしてはいけないけどね。」
「良かった。良かったー。」
小栗くんは、絵に書いたように一気に脱力してしゃがみこみ、目を閉じて両手で口を覆い、深く息を吐いていた。
でもさっきのタクシーの中の様子に比べれば顔色も良くて、後は自分でどうにかできるだろうと思えた。目の前に『山ちゃんの奥さん』という人がいて、簡単に手を伸ばせなかったというのもある。
「こんばんは。柳井と申します。いつもご主人にお世話になっています。」
「わざわざありがとう。ゆきちゃんね、いつも話を聞いています。こちらこそあんな人に付き合ってくださって、いつも本当にありがとう。」
『山ちゃんの奥さん』はとてもいい人だった。
笑顔が素敵で、話し方が柔らかい。
山ちゃんと同じように、人を気持ちよくさせてくれる雰囲気がある。
「せっかく来てくれたけれど、今日は家族以外の人は会えないお部屋にいるの。明日には大部屋に移るから、またいつでも、都合の良い時に会いに来てあげてくれる?まあそんなこと言っても、検査したら1週間ぐらいで退院だから、またお店に来てくれればそれが一番喜ぶかな?」
『山ちゃんの奥さん』はそう言いながら、なかなか立ち上がらない小栗くんの肩にそっと手を回すと、肩を抱くような感じで持ち上げ。小栗くんもその動きに合わせてゆっくりと立ち上がる。
「ごめんなさい。ありがとうございます。わかりました。山ちゃんあれで意外とプライドが高いから、お見舞いじゃなくて、店に行くようにします。退院して家に戻ったら、また連絡ください。」
「わかった。必ず連絡するね。」
「絢くん、ゆきちゃん、本当にありがとう。」
「それじゃあ、連絡待ってます。」
「失礼します。」
『山ちゃんの奥さん』に深々とお辞儀をして、小栗くんと二人で背を向けた。
さっき歩いた待合室を、今度はゆっくり、静かに戻り外へ出ると、生暖かい風は夜空の下で冷やされて、さっきよりも冷たくなっていて、火照った顔に心地よく感じられた。
「良かったね。本当に良かった。バス、もう本数少ないからタクシー呼ぶ?歩いて帰る?」
「ゆきさん、今日は本当にありがとうございました。一人じゃ何もできなくて、僕は、やっぱりゆきさんは仕事ができるだけの人じゃ無いんだって実感した。」
「いやいや、仕事なんてミスばっかりだけど?いつも周りに迷惑かけてるし。」
「自分がそう思ってるだけだよ。絶対。歩いて帰ってもいい?」
「もちろんいいよ。」
隣に並んで歩く、小栗くんとの距離が近い。
もちろんさっきは自分から引き寄せたけれど、今は小栗くんの方から寄ってきていると思う。肘がぶつかるほどの距離で、これなら腕を組んだ方が歩きやすいと思うほど近い。
「まだ緊張してる?」
「うん。」
「やっぱり…。」
「何でわかるの?」
「距離が近いよ。」
「ごめん!無意識だった。嫌だよね。ホント、今日はホントにごめん。」
『今日のゆきは謝ってばかりだね』て、夕さんに言われた日があった。自分に自信が無くて、言いたいことも思い通りには言えなくて、自分の気持ちを上手に処理できないことはある。人間誰にだってある。
ごめん、と言いながら結局距離を開けない小栗くんを見上げて、やっぱりどこか私と似てるのかな、と思った。
「ねえ、僕とゆきさんは、やっぱり親しくなるために出会ったのかな?」
「わからないな。小栗くん、自分のことは話したくなるまで、話さなくていいよ。話さなきゃいけないことなんて何もないよ。どちらかが強く、聞いてもらうことを望んだり、聞くことを望んだりしたら、その時、本当に親しくなるために出会ったんだな。と思えばいいんだよ。きっとね。」
「ゆきさん、ひとまず今日までの日だけを思い返して、出会えてよかった。」
小栗くんはきっと、今日の自分があまり好きではないんだろうな。と、私自身が落ち込んだ時のことを考えてそう思う。
相手に嫌われないように、何かしなければと思ったりするのだろう。でも、そんなことは全然望まないし、ただ今日、私を頼ってくれた。その事実だけで、私の気持ちを満たすには充分だった。
私でも、誰かの役に立てた。という安心感を小栗くんがくれたから。
その事を、ちゃんと伝えたい。こんな風な私の時に、どんな言葉をもらえたら救われるだろう。
「小栗くん。」
「はい?」
「今日、今、あなたがここにいてくれるおかげで、私は今、自分のことが少し好きだよ。ありがとう。」
「ゆきさんは…」
「ん?」
「今までどうやって生きてきたんですか?」
「たぶん、わりと普通に…。」
「たくさんの男から言い寄られ過ぎて困ったとか、信じてた人に騙されて絶望したとか、そういうこと無い?」
「うーん。無いな。」
「これから注意して生きてください。あなたを無理矢理手にいれたいと思う人や、素直さにつけ込んでくる悪い人は必ずいるよ。」
「わかった。肝に命じておく。そんなにモテないけどね!」
駅はもう目の前に見えていた。
小栗くんの表情は、歩き始めた時より何倍も良くなっていて、ニコニコと笑う顔が私をさらに安心させてくれた。伝えた言葉は間違っていなかったかな。
「ゆきさん、本当はいろいろ理由をつけて連絡先を聞きたい気持ちでいるけど、今日はダメなところばかりの僕だったんで、自粛します。どうしても嫌われたくなくて。ここで押すのはさすがに違うと思うから…。」
「小栗くんが誰かに嫌われたくなくて、思っている行動に出ないなんて、レアなんじゃない?」
「確かに。」
「でもその気持ちが嬉しいから、次回にしよう。こんな関係だから、緩く次の約束をするぐらいが気負わなくていいね。」
小栗くんが「敵わないな。」と呟きながら笑っているから、何と戦ってるのかよくわからなかったけれど、少しの間呼吸を合わせて笑っていた。
「それじゃ、またね。」
「はい。今日は本当にありがとうございました。ゆきさんお気を付けて。」
駅前から山田さん家のある細い路地、手前の交差点までは道が同じで、そこで別れた。最後はやけに丁寧な言葉だったな。
次の約束なんて何も無くて、私は山ちゃんがいつ元気になって、いつお店を開けられるかも、知るすべが何もないから、こうしてこの交差点の角から、お店の明かりが漏れていないか、毎日確かめながら帰る日が続くんだろうな。と思いながら家への道を急いだ。
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