第20話 ゆきと夕さんのある日の夜

相手から言われてすごく嬉しかった言葉が、何度も私を励ましてくれる。


この前山田さん家で小栗くんがずっと喋っていた言葉の中でも、『僕と話す時は気にせず力を抜いて、その方が嬉しいから』と言ってくれた、あれが一番ストライクだった。


『その方が嬉しいから。』って、あの声で、何度私の頭の中でリプレイしただろう。


もちろん綺麗だと外見を誉めてもらえるのも嬉しい。でも、力を抜いてくれた方が嬉しいと言ってもらったことなんて今まで一度も無かった。

相手の気持ちを考えながら話すことは、私にとっては当たり前で、そうすることが自分らしいと思っていた。


解放された気分だった。



「柳井さん、前回の会議で決定した荻窪マンションのポスターデザイン、変更版はどこに入ってます?」


「あっ!ごめんなさい。私、個人フォルダに入れたままでしたか?今すぐ移します。」


「柳井さん!次の11時からの会議、指定の部屋、隣のチームとぶつかってますよ。うちが移動しますか?」


「ええ!確認したつもりだったんだけど。再調整してお知らせします。ちょっと待っててください!」


「ゆきさん珍しいですね、ここのところちょっとミス多いですよね。プチミスだから問題ないですけど。体きついですか?」


「華江ちゃんありがとう。体は大丈夫よ。気合いが足りないだけ。いけないね。頑張る。」


「頑張り過ぎるからいけないと思いますけど…」


「ありがとう!」


隣のチームへ小走りで急ぐ。まずはお詫びをする。うちのチームが動こう。会議室いっぱいなら研修室借りるか…時間を聞いてこちらが時間をずらすか。


大急ぎで対策を考えながらとにかく動く私の背中を、夕さんがポンと後ろから叩く。急いで追いかけてきたような大きな呼吸をする。ため息ともとれるような…。


「ゆき、大丈夫。今回は社内の事だから、大したことじゃない。向こうのチームには私が声をかけるよ。以前いたチームだから話せる。部屋も何とかする。最近ちょっと落ち着かないけれど大丈夫?」


こんなことでイラっとした。


夕さんのかけてくれた言葉は何ひとつ私にとって悪いことは無かったのに、夕さんが子供をなだめるように『私が解決する』と言った事が嫌だった。

私より、自分の方が上手く解決できる。

と言われているようでとても嫌だった。


でも本当のイライラの元はそれ以前の自分の不注意に対してであって、今のイライラはその後の夕さんの言葉への八つ当たりだ。


一生懸命気持ちを押さえる。

『私にやらせてほしい。』

一言が言えない。思っていることが言えない。


仕事がまともにできない、不甲斐ない自分にも、気を遣って一歩踏み出せない自分にもどちらにもイライラする。


「ひどい顔してる。」


夕さんが呟く。


私は夕さんの目を見ることが全くできずに歯を喰いしばった。

今、口を開いたら、何を言うかわからない状況だった。


浮かれていた自分が悪い。

ちょっとちやほやしてもらったぐらいで、浮かれていた自分が悪い。


「渡川さんの方が話がスムーズに進みますよね。よろしくお願いします。本当にすみませんでした。」


「席に戻って、データの方もう一度確認してあげて。」


「わかりました。」


夕さんに話さずに自分だけ羽を伸ばせる場所を勝手に作っている。自分の方がはるかに失礼なことをしている。

こんな小さなことで夕さんを攻める資格など無い。


そもそも今の台詞は私を守るために言ってくれたんだろうから。苛立っているなんておかしな話なんだ。


やめよう。この事を、これ以上考えるのはやめよう。


仕事に集中しよう。



予想通り、夕さんはあっさりと、同じ会議室を時間でシェアする約束をし、うちが後半の時間をもらうことになった。

夕さんに任せた方が物事がスムーズ。そんなことはわかってる。


「渡川さん、ありがとうございました。」


「今日の会議の部屋を押さえるのも、別に柳井さんがやらなきゃいけない仕事じゃないんだ。誰かに頼ったり、頼んだりしたって良いんだよ。」


「はい。」


何を言われても良いほうには響かない。

キャパシティを越えてるなら、周囲に流せと言われた気がした。

私のキャパシティが狭いと言われたようで悔しい。


被害妄想はなはだしい。


一緒に仕事をするのはやっぱりきついのかな?

私がもっと甘えちゃえば良いのかな?


カレンダーを見て、この前山田さん家に行ってから、まだ1週間しかたっていないな。と考える。


ホワイトボードに目を移す。

渡川の横に出張16:00。

遅くから始まる出張、なら帰宅も遅いことが多い。


大きく深呼吸をして、頭の中でバラバラに散らばったピンポン玉を拾い集めて、きれいに並べて箱にしまう様子をゆっくり想像しながら、気持ちを落ち着ける。


「よし。」


「どうした?」


小さく呟いたつもりだったけれど、聞き逃さなかった夕さんが、パソコン横の隙間から私の様子を覗く。


気にしてくれている。

さっき変な顔をしていたこと。

夕さんなら当然、私が快く思っていないこと、わかったと思う。


ちゃんと夕さんと気持ちを重ねないと。

私の恋人は夕さんなんだから。


「気合い入れました。」


「入れすぎ注意です。柳井さんはもう少し自分に優しく。」


夕さんがとびきり優しい声で言った。


「なんか良い雰囲気ですか?」


華江ちゃんが隣から囁きかけてきた。


「だと良いね。」


と返すと、「応援してます。」と返ってきた。



帰り道、結局20時まで会社に残って、ようやく家を目指す。

山田さん家の方からまた歌声が聞こえてくる。ギターの音だから小栗くんかな?と思った。


聞きたい。会いたい。

会えばこの大きくくぼんだ胸の奥を、少し持ち上げてもらえるような気がする。

けれど。


こんな日だからこそ逃げるのではなく、こんな日だから帰ろう。


次いつ歌いにくるんだろう。


山田さん家、ブログでも始めればいいのに。

そんなものあったら山田さん家らしくないか…。


ライングループとかで出演アーティスト情報とか配信してくれないかな。


やっぱり連絡先知りたいかな…


しばらく曲がり角で立ち止まってから、まっすぐ家に向かった。



家に着くと、部屋の明かりがついていた。

鼓動が早くなる。

夕さんが先に帰っている。

どんな顔をしているだろう。

どんな風に迎え入れてくれるだろう。

自分の家へ帰るのに、止まない心臓の鼓動。


そっと扉を開けると、玄関まで甘い味噌の良い香りがした。

リビングの扉を開けたら、テーブルにはサラダとワイングラス、白ワインが置いてあって、炊きたてのご飯の香りがした。


「ゆき、おかえり。お疲れ様。」


って、昼間の時のように優しく声をかけてくれた。


私はこの部屋の良い香りと、柔らかく優しい雰囲気が体全部に染み渡るように、大きく大きく息を吸ってから、まだご飯の支度をしている夕さんの胸に飛び込んだ。


「麻婆豆腐!大好き!!」


胸の中に顔を埋めたまま大きな声で叫んだ。


「麻婆豆腐が先?酷いな。」


「夕さん大好き。」


今度はできるだけ優しい声で言った。


「ゆき、ごめんね。今日私のしたことは余計なお世話だった。後で勝本さんに注意されなきゃ気が付かなかったんだ。あの時のゆきの気持ちに、私気が付けなかったんだ。本当にごめんね。」


勝本さん、何て事をしてくれたんだ。

こんなこと言われたら、イライラしていた私がまた子供過ぎて惨めになる。


それでも嬉しい。

どんなに子供っぽいと言われても、言えなかった私の気持ちをひとつ、拾い上げてもらえた。その事は涙が出るほど嬉しかった。


しがみついている腕を緩めるタイミングがわからなくなる。スープの煮える音がして、火が付いていることに気が付き、慌てて手をほどいて鍋の中を覗く。


「ワンタンスープも大好き。」


「うん。ゆきがこの前誉めてくれた。」


「夕さん…。」


ずっと耐えていた涙がどんどん溢れてきて、夕さんはそれも予定していたように、よしよしと頭を撫でてくれる。何でもかんでもお見通しのお父さんのように、そっと背中を擦ってくれる。


夕さんの料理はやっぱりどれも美味しくて、私がどんなに頑張ったって、何ひとつ敵わないことを痛感する。


仕事も、家事も、相手の気持ちに寄り添うことも、私はどれも上手くできない。


お風呂が沸いたことを知らせるアラームが鳴ると、今日は夕さんが「一緒に入る?」と聞いてきた。


「どうしたの?」


「ゆきが今一人にしないでって顔してる。」


「嘘だ!自分が一緒に入りたいんでしょ。」


夕さんに、こんな悲観的な自分を見抜かれるのは嫌だった。本心に近いことだから、よけいに隠していたい。愛想をつかされたらどうしようと、始めて思った。


「仕方ないから一緒に入ってあげる。」


「ありがとう。」


夕さんは嬉しそうに私の強がりを受け入れてくれる。そっと私の胸のボタンに手をかける。


「お風呂に入るのに脱がしてもらうのは緊張するよ。」


「今日はゆきを甘やかしたい。」


「これは過保護すぎだよ。」


そういいながらも、夕さんは両手でそっとシャツを脱がせると、背中に腕を回す。


「ちょっと待て!恥ずかしいよ!」


「待てないな。ごめん。」


夕さんが私の首にキスをする。首筋をゆっくりなぞる温かい夕さんの唇の感触に体が一瞬で熱くなるのがわかる。立っているのも辛いほど、内側からくすぐられるような感覚が襲ってくる。「待って」を連発するけれど、言えば言うほど、夕さんの手は私の弱いところばかりを狙ってくる。


気持ちも、体も、この人にコントロールされている。

いつも私の弱いところを知っていて、ここぞと言う時に優しく撫でる。これで私は一歩も動けなくなるんだ。この人の前から、一歩も動けなくなる。


お風呂に入るって言ったのに、そのままベッドルームへ連れていかれる。


「夕さん。大好きなの。少しは役に立ちたいの。私も、ここにいる意味が欲しいの。」


「うん。ゆきがいなかったら、私は今とんだダメ人間かもしれないよ。ゆきのために、強く、優しくありたいと思ってる。ゆきがいないとだめなんだ。」


「ずるい。私なんかと出会う前から完璧人間でしたよ!口がうまい。騙されないよ。」


「騙されてよ。」


そう言うと、今度は唇に、長い長いキスをする。

今日も夕さんに深く落とされていく。


私だけが落とされていく感覚。


「夕さん、夕さんにももっと感じて欲しい。」


「これ以上なんて無理。」


珍しくかすれた声で、私の耳元で囁く。


その必死な感じの夕さんの声があまりにいとおしくて、身体中の血液が一度に上昇する。


「わっ」て、叫んでしまったかも知れない。


夕さんの強く抱き締めてくれる腕が気持ちよくて、そのまま目を閉じてしまった。


ごめんなさい夕さん、私はやっぱり役立たずなんです。



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