第18話 ゆきさんと小栗くん
4月29日祝日。
コートはクリーニングに出した。
羽毛布団を圧縮した。
この時期の暖かな風は、いつだって私に何か変化をもたらすのではとドキドキする。
肯定的なドキドキだ。
4月の変化を楽しめる人は、幼少期の養育環境が充実していた証拠だという話を聞いたことがある。
私はおそらく両親の養育が成功した方のタイプで、小学生の頃から、4月のクラス替えで泣く友達を横目に、何かとんでもない楽しいことが始まるかもしれない、という根拠の無いワクワクに胸を踊らせていた。
幸い今年度のチーム編成の見直しもなく、職場に大きな変化の無かった私は、なんのストレスもなく、この高揚感に身を委ねていた。
1月に夕さんが言っていた、コンペの大きな仕事を見事に勝ち取り、活気溢れるチームの中で、自分もある程度必要な存在として動いていた。
夕さんもコンペに成功したことで、営業目標を大きく上回る業務成績を叩き出し、しばらく気を抜いて仕事をしても良い状況だったから、年末の激務の頃より遥かに顔色も表情も良い。
そんな夕さんを見ていると安心する。
色々なことが、最近うまく行く方向に走っている。
そんな気がしてご機嫌だった。
ご機嫌ついでに鼻唄を歌いながら紅茶を入れていたら、夕さんに
「ご機嫌だね。」
て言われた。
「そう?最近夕さんとたくさん一緒にいられるもんね。今日も暖かいし、家のことは大体終わったし、どこかお出かけしよ?」
「ゆきはやっぱり天才だね。ゆきの手にかかれば私なんて簡単なもんだよ。」
「え?よく意味がわからないよ。」
「ゆきにお願いされたら絶対に断れないよってこと。簡単に扱えるってことだよ。」
「そんな風に思ったことは一度もないなー。むしろ夕さんはこんなに一緒にいてもあまりボロが出ないから、堅いなーと思ってるよ。思い通りになんて一生なってはくれないでしょ。」
「堅い?頭が?柔軟じゃ無いってこと?」
「うん。妥協がないといった方がしっくり来るかな?うっかり、みたいなことがあまりなくて、たるんでない感じ。」
「そういうことか、頑固と言われたかと思った。」
「そうじゃないね。私の意見に合わせてくれるものね。」
「弛みがないか…ゆきの前ではいつでも良い男でいたいんだよ。」
「無理されてたら悲しいよ。」
「無理はしてないよ。ごく自然な感情からくる振る舞いだから。」
そう話しながらキッチンに入ってくると、長身の夕さんが腰をかがめてキスをしてくれる。
暖かな春の風が、家の中まで新緑の生き生きとした香りを運んでくる。揺れるレースのカーテンと、春の香りと、紅茶の香りと、夕さんの体温。
こうなれば、悩んでいたのなんていつの話だろう?と思ったりもするから、私もめんどくさい人間だと自分で自分に嫌気が差す。
「ゆき、お昼は駅前の中華、久しぶりにどう?」
「生春巻!」
「決まり。準備しよう。」
「朝のニュースで夕方から雨って言ってたね。」
「ご飯だけ食べて帰れば大丈夫じゃない?」
「念のため折り畳み一本だけ持っておくね。」
「ありがとう。」
仕事に出発するときは、当たり前だけれど、お互い大人だから、持ち物なんて完全自己管理。
こうして一緒に出かける準備をしてるのすら楽しくなってきて、また無意識に歌っていた。
「やっぱーりー そーおだー あなただーたんだー うれしーい たのしーい だーいすーき♪」
小さな声で口ずさむ。
「ゆきはさ、」
「はい?」
「良い声だよね。」
「え!?本当?うれしい!歌好きなの。大学の頃ゴスペル合唱部に所属してたんだよ。天使にラブソングをの『Oh happy day!』に憧れて。ありきたりな感じ。」
「いや、天使にラブソングをが少し古い気もするけど…美術系の大学にもゴスペル部なんてあるの?」
「バカにしないでよ!法学部にもテニス部があって山ほど人が来るのと同じでしょ?」
「バカにもしてないし、その例えもしっくり来ないけど…」
と言いながら夕さんもニコニコ笑っているから、ご機嫌なのはお互い様だな。と思うと嬉しくなって、「確かにね。」と自分の例えの悪さをあっさり認めておいた。
薄手の七分袖のニット一枚で外に出る。ドアの鍵を閉め、階段を降りるところまで夕さんが先を歩く。
通りに出ると、夕さんは私が隣に並ぶのを待って自然に手をとってくれる。
2人でこうして歩くのは、また久しぶりのことだから、いつでも新鮮にドキドキできるな。とありがたく思ったりする。
何でも肯定的にとらえられないことは無い。
幸福を知っているから、うまく行かないときは悩みもする。光があるから影もできる。
『明るさの足元の影を見るから、皆納得できるんじゃん。』
小栗くん、今もう一度改めて同感です。
そして、影を知るから光に安らぎを感じるんだな。これも相互作用って言うのかな?
駅前は祝日のお昼で賑やかだった。
大型のスーパーがあって親子連れも多い。
通りに面した1階店舗にはカフェもあるので、カップルもちらほら。
「あ。」
とりあえずお昼ご飯を目指してまっすぐに歩いていると、小さく呟いた夕さんがそっと手を離す。
「ごめんゆき、取引先の方だ。ちょっとだけ挨拶してきてもいい?」
「もちろん。中華屋の隣の本屋で待ってるね。」
こうして堂々と歩いていても、何故か会社の人達にはバレる様子もない私たちは、未だ一応知った人を見かけるとバラバラに動くようにしている。
男女関係は時に、思わぬ方向に覚えの無い噂がたったり、誤解をされたりで面倒なことが多い。私も夕さんに「何でみんなに言っちゃダメなの?」なんて言ったことも無いし、自分もこのカタチの方が楽だ。
のんびりと本屋まで歩く。
平日朝は皆一目散に駅へと向かう。
休日はスローモーションを見ているように穏やかだ。
同じ景色の駅前なのに、違う場所を歩いているように感じる。
自分にも迫るものは何もないから、回りを見ながら、そして勝手な想像をしながら歩く。これも楽しい。
「あっ!」
一人なのについ声に出してしまった。
進行方向15メートルぐらい先。
少し離れていても気が付いてしまった。
小栗くんだ。
喫茶店前の腰高の花壇に軽くお尻を乗せて、自分の膝に自分の肘を乗せ、前屈みに座っている。
横顔でもすぐにわかる。茶色い髪。ラフなデニムに薄手のパーカー。
彼の言う『アンニュイ』な表情。
そうだよね。あの科学館に勤めていて、山田さん家の常連さんなら、最寄り駅はここだよね。
滅多に無い、ではなく、機会はいくらでもある方の『偶然』だな。
咄嗟に側にあった大きめの街路樹の影に、周りの人から見て不自然にならない程度に身を隠してから、声をかけるか考える。
話している時に夕さんが来たら、後が面倒だな。
そもそも一度飲み屋で話した程度の人に、休日友人顔して話しかけられたら相手も迷惑だよね。
そして、彼が手に持っている2本の傘に目が止まる。
1本はビニール傘、1本は、白地に茶色い刺繍の入った、持ち手の細い傘。
女性物だな。
声をかけない。決定だ、と思ったのに、小栗くんの前を通らなくては目的の場所へたどり着けない。横断歩道を渡って道路向こうまで行く?
面倒だな。
気付かなかった事にして前を素通りする?
でも結局、ここで作戦を立てて動いても、何をしたって行動がぎこちなくなって、後で恥ずかしい目に会いそうな気がする…。
声をかける雰囲気か、素通りする雰囲気かも、近付いて見ないとわからない。行き当たりばったりで行こう!と勇気を出して樹の影から出て前に進む。あと10メートルぐらいの距離まで来たところで、小栗くんがすっと立ち上がる。
すぐに気付かれる距離では無いのに、肩が小さく跳ねるほどドキッとして立ち止まり、思わず視界に入らないよう体を傾けた。
でも彼は前だけを見つめていて、さっきまでの気だるい表情は一瞬で、口端だけが軽く上がった、私の知っている彼の数百倍は大人っぽい笑顔になった。
視線の先に黒髪のボブカットがとても似合う、背の小さめな女の子。可愛らしいという表現がしっくり来る女性。
横断歩道を渡ってこちらへ向かって来る。小栗くんは彼女だけを見ている。
何か短い言葉を伝えて、彼女が可愛らしく微笑む。
小栗くんは、さっきの私の知っている彼の数百倍は大人っぽい笑顔のまま、彼女が手に持っていた紙袋を、いつもそうしているような、自然な仕草で受け取る。
彼女も当たり前のように手渡し、空いた手を彼の腕に絡ませる。
私は、ドラマのワンシーンでも見ているかのように、どこにも身を隠さず、ただ立ち止まってじっと2人を見ていた。
とても可愛らしく素敵だった。
そうだよね、あんな歌詞の歌が歌えるのだから、恋愛経験は豊富で当然だな。
なんて考えていた。
2人は私の方に方向を変えようとしている。
ああ、今から私が方向を変えても、どこかに隠れてもバレバレだなと思い、話しかけるか、話しかけないかは小栗くんに任せることにして、私も堂々と彼らの方に向かって足を踏み出した。
彼女の顔を見ていた小栗くんがふと視線を前に向ける。ようやく私と目が合う。「あっ」という表情になったけれど、声には出さなかった。これはこのまま通りすぎる、が正解だな。
あれこれ考えて、自分から視線を外した瞬間、突然後ろから肩を叩かれる。心臓が口から出るかと思うほど驚いた。
「おどろかせてごめん。お待たせ、ゆき。」
振り向くと、今日はご機嫌な夕さんが、いつも通り完璧な顔で微笑んでいた。
それなのに、私は前方のカップルが気になってしまい、返事もせずにあわてて夕さんから、視線を移すと、今まさにすれ違う瞬間。
彼は少しだけこちらに視線を残して、スピードを落とすことなくすれ違い、歩いて行った。
本当に無視した。
私は夕さんに向き合うように体を動かしたように見せかけて、2人の背中を目で追ってしまった。
自分だって話しかけないのが正解と思ったくせに、言い表せない寂しさが心に残って、あの日あんなに楽しく話しても、所詮外で会えばこんな態度なんだな、と苛立ちさえした。
だって、軽く会釈すらしなかった。
「どうかした?」
なにも言わない私に、夕さんが心配そうに声をかける。
「ううん。さっき通り過ぎたカップル、すごく可愛らしくて雰囲気が良かったの。つい見とれちゃった。」
「おばさんみたいな発言だなあ。」
「えー!そう?」
「それで結局本屋にたどり着けなかったんだね。」
「ほんとだ!二人のエピソードを妄想してたら、つい時間が…本読んでるより楽しかったよ。」
「お金出さなくても、楽しめていいね。お腹すいたでしょ。早く行こう。」
夕さんが呆れたように言う。
「はーい。」
このタイミングで夕さんが来てくれて良かった。
本当に良かった。
さっき突然沸き上がった感情を、深く追求せずに済んだ。
苛立ったのはまだしも、何で寂しかったんだろう。
そのことに、この時なんでだろう、と思わずに済んだ。それで良かったから、そのままにしておけば良かったのに。
なのに私は一人になって、何度もあの時のシーンを頭の中でリプレイする度に、彼が私の横を素通りした時の表情が、私を内側から毎回チクチクとつつくから、どうしてもこのままにしておきたくない気持ちが膨らんでしまう。
たかが2回会っただけの人なのに、何でこんなに嫌な気分にさせられなきゃいけないんだ。
そんな心持ちでいた。
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