第15話 出会いの時
「ゆきちゃん、おかえりなさーい。」
「山ちゃん、田中さん、こんばんは。お疲れ様です。」
「今日は早めね。どのくらいいられるの?」
「1時間ほどで帰ります。今日のお昼はすごく暖かかったですね。」
「もうすぐ春ねー。わくわくしちゃう!」
山ちゃんはたぶん外見は男性だけれど、女性として生きている人だと思う。
田中さんは常連さんで、山ちゃんのことも、田中さんのことも、それ以上のことは何も知らない。
私も仕事をしていて、近くに住んでいるという事以外は何も伝えていない。
聞いてもこない。だから絶対に聞かない。
お店の名前は『山田さん家』という。
すごくお洒落な外観と、お洒落な内装で、流木の切れ端のような看板に、小さく『山田さん家18:00~24:00』と書いてある。
お店のセンスと比較して、このネーミングセンスはどうなの!?と突っ込みたい気持ちを察してか、山ちゃんに「良い名前でしょ~」と先に言われた。
「電話でお家の人にどこにいるの~?なんて言われたら、すぐに『山田さん家だよ』って答えるの。山田って名前の人に、人生で一度も会ったことの無い人なんていないでしょ?あの山田さんかな?この山田さんかな?って考えながら、ご迷惑かけちゃダメですよ、早く帰って来なさいね。なんて言ってもらえて、万事解決でしょ?」
「ええ!そんなことになる?どこの山田さんよー!!ってならない?」
「やだ!ゆきちゃんったら、そんな修羅場は想定してないもの。」
「えー。親子だってどこの山田さんだよ!?ってなりますよ。」
「もー。素直なのに融通のきかない子ね。」
「えー!!そういうことになっちゃう会話でしたか?」
山ちゃんは出会った頃よりすっかりママさん口調になっていて、でもだから、さらに安らげるようになった。
大きな声で田中さんが笑っていて、ゆきちゃんが来ると店が明るいと嬉しいことを言ってくれたりする。
1週に1回か、2週に1回ぐらいはお邪魔していて、夕さんには内緒にしていた。
この場所でまで、何も考えない私でいられなくなったら、私は小さくしぼんでしまいそうだった。
だからお邪魔する時間はいつも1時間ほど。駅前でちょっと買い物をしているぐらいの時間だけ。
今日来たので、5回目ぐらいだろうか。
3月に入り、職場は年度末の締めで忙しく、営業の夕さんは出張に会議にとデスクに座っている姿すら見なくなった。
1月、はじめてこのお店に来た翌日、私は迷わずドットドリンクの以来を断ることを了承した。ただし、お断りに自分で行くことを条件にした。先方担当者はとても残念がってくれたけれど、私の活躍を心から願ってくれ、本当に感謝の気持ちしかなかった。
恵まれている。文句を言ってはいけない。
その後冷静に『周り』を見るようにした。
勝本さんも佐藤さんも華江ちゃんも、今、私が不自由なく仕事ができるよう全面的にサポートしてくれているという事を実感できるようになった。
今の私があるのは、皆の努力のおかげであって、息を合わせて一緒に走らなければ、共倒れになってしまうこともある。
私だけが、ちょっと無理をしても頑張ればできる、なんて思うのはとんだ思い上がりだ。
結局、夕さんの言っていた事が正しかったんだ。
それから
一度も喧嘩なんてしてない。
あの時、こんなわだかまりが 残るのは二度とごめんだと思った。
私が何も言わなくなり、仕事も諦め、夕さんはとても辛かったと思う。
優しくしてくれる日が続いたけれど、意固地な私は「夕さんが正しかったね。」とも「もう気にしないで」とも言えなかった。
なぜかと問われれば、もうその話を蒸し返したくない。ただそれだけだった。
それほどに、衝撃の強い一撃だった。
夕さんが無理をしてでも早く帰ってきて、私のためにお夕飯を作ってくれる日もあった。涙が出て、その度にこれはなんの涙かと思ったけれど、夕さんに抱かれれば身体中の温度が心地よく上がって、寒かった気持ちはすべて無かったことになるから、好きすぎて、泣けてしまうのだと思った。
「ゆきちゃん。」
「はい?」
「駅からバスに乗って行ける市立の科学館があるの知ってる?」
「わかるよ!屋上の天体観測用のドームが目印のところでしょ。」
「そうそう。入館とプラネタリウムの優待券もらったんだけど、ゆきちゃん行く?」
「行く!小さい頃よく行ったの。プラネタリウム大好きだった!欲しいです!」
「平日限定だけど使える?」
「うん。出張直帰にすれば大丈夫!」
「こんなに喜んでもらえるなら、ゆきちゃんに一番に聞いて正解ね。」
山ちゃんは嬉しそうに封筒を手渡してくれた。
「丁度明日、午前中出張なんです。」
「気を付けて行ってらっしゃい。」
話していても、黙っていても、呑んでも呑まなくても、どちらでも良い。
暗い顔をしていても、ご機嫌でも、誰も無駄なことは聞かないし、言わない。
どうしていても、どっちでも別に構わない。
これといった特別なことは無いのに、ただそれだけで居心地が良い。
次の日の朝は晴れてきれいな空だった。
朝ごはんを食べながら、夕さんは少し疲れた顔でニュースを見ている。
「夕さん、体大丈夫?」
「ありがとう。もう少ししたら落ち着くから、そうしたらゆっくり外食にでも行こうね。」
「うん。」
忙しい夕さんに、不満を言いたかったわけでは無いのにな…。
「昨日のプレゼンはどうだった?」
「勝本さんがすごく頑張ってくれたよ。良い結果が出るといいね。」
兄と妹…父と娘!?
それでもすごく大切に思ってくれているということは痛いほどわかり、心の中でそうじゃないんだよ、と思ってもなかなか伝えられない。
夕さんの事、とても大切に思っているのに、自分の伝える力が足りないあまり、口に出したら愚痴や文句になってしまいそうで怖い。
夕さん
ずっと私の隣にだけ、いてくれたらいいのに。
そうしたら自分の劣等感も、卑屈さも、ちょっとの不満も感じずにいられるのに。
そういうことじゃ恋人失格だな。
今日は結局、午後会社に戻らないことを伝えないまま、朝、駅で別れた。
根掘り葉掘り聞かれたら、チケットの出どころを答えなくてはならなくなりそうで…。
どうせそんなことには気が付かないほど忙しいだろうし、帰宅も私の方が先だろうし。
別に何も悪いことはしていないのに、内緒にしている、ただそれだけで不安な気持ちに胸を圧されるのは
子供みたいだな、と思う。
会社を出る直前に時間休の手続きをとり、ホワイトボードに小さめの字で直帰と記してから出発した。
先方との打ち合わせは12:00前には終り、久々に喫茶店でゆっくりと昼食をとってから駅へと迎い、科学館行きのバスに乗った。
さすが平日、人が少ない。
プラネタリウムは15:00から。宇宙ゾーンや地層ゾーン、子供の頃は全く分からなかった展示が今は一番おもしろい。パネルを読みながら、花崗岩にそっと触れ、冷たい、と一人で呟きながら、こういう時間は必要だなと思っていた。習い事とかすると楽しいのかな、新しいことに挑戦したら、もっと自信が持てるようになるかな、等と無い物ねだりのような発想をして、いやいや、時間に余裕がないだろうと突っ込みをいれる。
館内にプラネタリウム開始10分前の放送が流れて、慌ててドームへと向かう。
カップルが数組いて、手を繋いでいたり、腕を組んでいたりしながら歩いていて、こんな時間に二人でいられるのはどんな身分の人たちだろうと、服装や、大体の年齢から仕事や立場など、勝手でいらない妄想をしていた。
本当は不必要な思考で頭の中が忙しく、これはこれで平和なことだなーと、一人微笑みながら薄暗いドームの中へと入った。
そして、あの声に出会った。
出会ってしまった?
いや、出会うことになっていた??
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