第14話 ゆきの居場所

雪が降りそうな、空気の張った匂いがする。


そう思ったけれど、見上げれば星がたくさん見えて、空は晴れている。


夜、澄んだ空気の中で光る街灯は夏より眩しく感じる。


夕さんより先に退社して、駅から家へと向かう帰り道。


私はまだ、自分だけが我慢しているような気持ちを拭えないまま、夕さんが怒った、という事実とは向き合わねばと、モヤモヤした思いを引きずっていた。


家への道はわりと広く、お店なども点々とあり、暗くはないけれど静かだ。

澄んだ空気に自分のかかとの鳴る音がやけに大きく感じる。


そんな晴れた夜。どこからか、女性の歌声がかすかに聞こえてくる。

こんな気持ちのまま帰りたくないという現実逃避の気持ちだけで、歌声の元を探りながら何気なく裏路地へ入り、たどり着いた小さなバー?のようなお店は、喫茶店にも見えるガラス張りの店舗で、照明も明るく暖かそうな色合いの木調の内装。


こんなところにお店があったなんて、知らなかった。

とてもお洒落なお店で、中はカウンターと丸テーブルが4台ほど。

お店の端にグランドピアノが置いてあり、20代前半ぐらいの若い女の子が歌っていた。


とても楽しそうな笑顔に、子供のように甘く高めの声が似合っていて、すごく可愛らしい。しばらく見とれてから、ハッとして目のピントをずらしてみると、暗く寒い道路から、明るく賑やかな店内を凝視している私がガラスに映る。

遠慮する様子もなく、堂々と中を凝視する自分の姿に突然恥ずかしくなって、視線をカウンターに移すと、40代前半ぐらいの優しげなヒゲの店員さんがこちらをニコニコ笑顔で見て、軽く会釈をする。


恥ずかしい気持ちを押さえきれずに、少し姿勢を正して視線を外して会釈すると、店員さんはこちらに向かって歩いてくる。


やだ~ここで話しかけられたら恥ずかしすぎる~と心の中で叫びつつも、逃げ帰ることもできずに、しゅんとしながら扉が開くのを待ってしまった。


「こんばんは。お仕事終わりですか?時間が少しでもあるなら、ぜひ歌だけでもきいていってあげて。お茶くらい出してあげるから。」


男性なのに、お母さんみたいな癒しのトーンで話しかけられたから、驚いて警戒心がどこかへ行ってしまった。


今日、夕さんが家に帰ってきても、今の自分のままで何も話したくないな、と思ったら、この、今の自分とは対極にある明るい空間に転がり込むのも悪くないなと思った。


「一人でもいいですか?」


「もちろんです。」


店内にはお客さんが8名ほど、女性一人のお客さんも、男性一人のお客さんもいてとても入りやすかった。何よりこの店員さんが上手い。カウンターまでさりげなくエスコートしてくれる。


「お酒好きなんです、おすすめのカクテルをお願いします。」


棚には彩りの綺麗なビンが整えて並べてあり、可愛らしいグラスがカウンターの向こうに置かれている。


「わかりました。」


お母さんのようなヒゲのおじさんがにっこりと笑う。


女の子は松任谷由実の『やさしさに包まれたなら』を歌っている。

幼げな、柔らかい声と曲と歌詞の相性がバッチリで、すごく心地よい。


お客さんも皆穏やかな表情で、バックミュージクのように彼女に背を向けている人もいれば、体の向きをかえ聞き入っている人もいる。


ヒゲのお母さんがカクテルを作ってくれる。従業員はこの人と、奥の調理場にあと数人いるっぽいけれど、表には出てこない。


「お待たせしました。どうぞ。」


ヒゲのお母さんはとにかく優しい笑顔で話しかけてくれる。


赤と白が2層になった綺麗なカクテルにフルーツの飾り。

「キティですね!大好きです。」


「あら?詳しいですね。でも少しだけワインに細工をしてあるから、試してみて。」


なんだか嬉しそうなヒゲお母さん。


「はい。」


つられて笑ってしまう。


細いストローで上のワインと下のジンジャエールをそっと混ぜて口をつける。


「あっ!ミント?それからイチゴ!かな?」


「凄い!あたりー」


「おいしい。赤い色なのに、口の中がスッとする、でも甘酸っぱい、面白すぎる!」


「ふふふ、いい表現ですねー。」


ヒゲお母さんはとてもいい人そうで、ずっと目を細くして私だけを見て笑っている。


「お姉さんのイメージですよ。なんだか暖かな外見なのに、お店に入ってきた時冬の香りがしたよ。外の香りではなくてね、何て言うのかな、凛とした感じの。」


「私、冬生まれですよ!名前もゆきと言います。名前は平仮名ですが、雪の日に産まれたからって、安易ですよね。」


「素敵!すごくイメージに合ってる。なるほど、生まれながらに身にまとっている雰囲気ってあるんですねー。」


と感慨深そうに大きく頷く。


「イチゴは私の願望です。甘酸っぱい性格の女性が好きなんでよー。でも隠れていて普段はわからないの。飲んでみたら、あっ!てわかる感じの?わかるかな」


「難しくてわからないです…ツンデレみたいなことですか?」


「ははは、ちょっと違くて、ザ、女の子~かと思ったら、ちゃんと自分があって、周囲にしっかり主張できる的な。」


「お兄さん、お話の仕方が変わってますね。」


「素直なお姉さんですね。お客さんには『ママさん』なんて呼ばれてますよ。」


「あー!わかります!私も心のなかでそう呼んでました。(本当はヒゲお母さん)」


「それにしてもお兄さんは持ち上げすぎですよ。おじさんで結構。でも、山ちゃんって呼んでくれたらもっと嬉しいです。」


「山ちゃん?」


「はい、山田の山ちゃん。」


「ははははは!そのままじゃないですか~。」


「ゆきちゃん、良い子ね。大丈夫、明日にはうまく行きますよ。いろいろなことがあって、誰も、何もなく幸せにだけは生きていけないけれど。あなたなら大丈夫。」


まっすぐな目は、本当に癒しの光を出しているように、私には見えた。


グランドピアノの前の女の子は、絢香の『にじいろ』を歌っている。

会話をしていても邪魔にならない、最高の声で、でも、さっきのユーミンの方が似合っているなーと思った。


「ありがとうございます。頑張ります!」


「頑張らなくていいんです。ゆきちゃんらしくね。あっ!2回も名前で呼んじゃった!」


わざとらしくニコっと口角をあげて笑う山ちゃん。


そしてテーブルのお客さんの元へ、おかわりのオーダーを聞きに行く。

テーブルのお客さんは山ちゃんと同じぐらいの年の男性で、ハイボールを注文してから、

「山ちゃん、かわいいからって女の子口説いちゃダメだよ。」

て笑っていて、山ちゃんは「もうお友だちになったんですよ!だからいいんです。」

と笑っていた。お客さんも気持ちのよい笑顔だった。絡んでくるようないやらしさは無くて、私もついそちらに視線を向けて笑っていた。


そうか、仕事と家と、私の今の生活は狭すぎて、そのどちらにも夕さんが中央に、大きな面積で存在していて、その夕さんとの間に悩みが生じると、逃げ場はゼロになってしまう。


ここでの出来事に、後の好、不都合は無い。

自分の振る舞いも、言動も、気にしすぎる必要は無くて、なんなら、本当の自分でなくたって良い。私の事を知っている人なんて、いないのだから。


そう思うと、一人で飲んでいることなど恥ずかしくもなく、常連さんらしきお客さんと山ちゃんとの会話に入ることもできた。


楽しくて、しばらく時間を忘れていたら、携帯のバイブレーションを感じて慌てる。


夕さんからの電話に、迷わず出られた。

ここに寄っていなければ、電話に出ることを、間違いなく躊躇した。


「もしもし?」


「ゆき、大丈夫?どこにいるの?」


「ごめんね、もう家?」


「うん。先に帰っていると思っていたから心配になっちゃって。」


「大丈夫、お店でご飯食べてただけだよ。すぐに帰るね。」


「どこ?迎えに行く?」


「駅前、すぐ帰れるから大丈夫。」


電話を切って、忙しく動く山ちゃんを呼び止める。

「ごめんなさい!今日は帰ります。お会計してください。」


「はーい。また来てくださいね。」


「ありがとうございます。また来ます。」


カクテル一杯と、すごく美味しかったミートオムレツとサーモンのカルパッチョのお代を払って外に出ると、店内から山ちゃんが手を振ってくれる。私も手を振ってからお店に背を向けた。バイバイと手を振るのは、なんだかとても久しぶりで、やっぱりお母さんみたいだと思った。


家までは本当に近くて、電話が鳴ってから15分ほどで家に着いた。

退社した時のモヤモヤなど、嘘のようにスムーズに家の扉を開けることができた。


「ただいま、遅くなってごめんね。」


「ゆき、おかえりなさい。」


ジャケットを脱いだだけの、ネクタイも緩めていない夕さんが玄関まで迎えに来てくれた。

すごい強さで抱き締めてくれる。

心配してくれていた気持ちが、まだ寒いままの部屋から、すぐに家を出られるようにしていた服装から、そして夕さんの鼓動から苦しいほど伝わって来て、あまり言葉でやり取りしない方が良い日なんだと思った。


「寒かったね、一緒にお風呂入る?」


「うん。」


夕さんが私を抱き締めたまま返事をする。


もう自分でも、自分の意思を主張しすぎることが正解とは思わなくなった。


居場所が増えた日、心が、少し大人になれたかもしれないと思った。


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