第13話 ゆきの気持ち

「ゆき、起きて、遅れるよ。」


「ごめん…昨日私の方が早かったのに…」


まだ半分しか開かない目を擦りながら、慌てて体を起こす。


「トーストとコーヒー準備してあるよ、食べちゃって。」


「ありがとう。」


相変わらず朝がダメだ。本当に自分にがっかりするほど苦手…。


顔を洗って、ニットとスカートに着替えて朝食の支度ができたテーブルに座る。


「夕さん昨日何時だったの?」


「12時には帰ったと思うけど。」


「気が付かなかった…ごめんね。しかも朝ごはん用意してもらってごめんね。」


「大丈夫。早く食べな。」


ワイシャツの第一ボタンを外した夕さんが、ニュースを見ながらコーヒーを飲む。

私もコーヒーを飲みながら、夕さんの横顔を見つめ、今日一日の仕事の進め方をシミュレーションする。その通りになったことなどないけれど、やらないより効率が良い。


今、同じ空間で向き合って、一緒にご飯を食べているのに、二人は全く違うことを考えているな。

と思いながら夕さんを凝視していると、ふと夕さんがこちらを見る。


「ごめん。見すぎたね。」


「今日のゆきは朝から謝ってばかりだね。」


「うん。なんか申し訳なくて…」


「大丈夫だよ。それより、仕事の話がしたいんだけど、ちょっとプライベートも挟むので、今日のお昼はカフェでどう?」


「はーい。了解です!」


朝からしんみりとされても疲れさせてしまうだけた。ダメな私の反省は、後で一人でしよう。


努めて明るく返した声に、夕さんが笑う。

表情とタイミングから察するに、あまり良い話では無さそうだ。



1ヵ月前のクリスマスの夜、夕さんは昨年と同じように夕食の支度をしてくれた。サラダとチキンとパエリアは盛り付けもとてもきれいで、私には逆立ちしたってできない仕上がり。仕事も相当無理をして繰り上げてくれた。すごく優しくしてくれる。

その時とても満たされて、愛しい気持ちしかなかった。

ずっと触れていたかった。

久々に、夜もずっと、眠っていても隣に、とても近くに感じていた。

いつまでもそうしていたかった。


だって、私の側を離れて、社会に出れば、彼は私など必要もなく自分の足でざくざくと前に進み、社会からも強い力で要求されている。


会社いにいる自分を想像し、まあ、いてもいなくても同じかな。と、その存在の違いを確認すると、手を離すことに恐怖さえ感じてしまった。

こんなでは本当にいけない。

そんな自信のなさや、相手への依存がこれからの私を成長させてくれるはずがない。


今私の側にいてくれる。暖めてくれる。求めてくれる。大切にしてくれる。だから私も頑張れる。

だから、この家を一歩出たら、私は自分の足でしっかりと歩いていける。

そして充実感を連れてここに帰ってくるのだ。

そんな人になりたいんだ。


そっと、寝ている夕さんに触れていた手を離す。できると決めたらきっとできる。

目を閉じて、明日からまた、明るく前向きに振る舞う自分を何回もイメージして眠った。


それからの1ヵ月、夕さんは毎日のように忘年会だの、新年会だの…。年末年始にはお互い実家に帰ったりとそこそこ慌ただしく、そんなだったので私は女友達とお酒を飲んだり、久し振りにカラオケに行って思いっきり歌ったりもできて、夕さんとの距離が近すぎないことである意味とても私らしく生きていた。


なのに、1週間もすれば会いたいくて、触れたくて、すぐ側に感じていたい気持ちがすごい勢いで襲いかかってきて、夕さん無しで楽しかった時間など、全て偽物だったような気持ちにさえなってくる。

母と笑いながらテレビを見ていたって全く上の空で、早く家へ帰りたかった。


家へ帰ったら夕さんに思いきり甘えたい。抱きしめてほしい。キスをしたい。そんなことばっかり想像して、変態になったかとふと我に返って愕然としたり…。

妄想が暴走して自己嫌悪。とにかく忙しい一人の時間。


ようやく1月の三が日も過ぎて家へ戻ると、夕さんの姿はなく、寒いリビング。

おかしいな。先に帰っているとメールが来ていたのに。

一人暮らしは慣れていたのに、どうしてこの家で一人になってしまうと、こんなに落ち着かないのだろう。

子供の頃、母がいると思って帰ったのに、家に誰もいなかった時の不安な気持ちと似ているな、と、何もせずに、リビングに立ちすくんでそんなことを考えていた。


そんな私をよそに、夕さんは鼻歌混じりに、両手にたくさんの食材を抱えて帰ってきた。

久々に疲れの抜けた爽やかな顔で、


「ゆき!お帰りなさい。待ってたよ。今年もよろしくね。」


て、言うから、


私は夕さんが手に持っていたスーパーの袋を受け取ってそーと床に置いてから、ぎゅっとしがみついた。


「お帰りなさいじゃないよ!いなくて寂しかった!!」


私ダメだ。これは幼稚園児のレベルだ。頭ではわかっていても、夕さんを目の前に不安だった気持ちも、触れたかった気持ちも、もう何も押さえられない。


無言で頭を撫でてくれる夕さんが、おもむろに私を持ち上げて歩き出す。

でも漫画みたいに軽々とお姫様抱っこみたいなことには当然ならないから、(数キロしか体重変わらないんだもの…)重いだろうな、という事がわかるゆっくりとした歩みに慌ててしまう。


「何?何?下ろして、重いでしょ~」


「まだ明るいのにな、おいしいご飯作ってあげようと思ったのにな。ゆきが一生懸命誘うから、仕方ないな。」


夕さんはふふふふ、と笑いながら私の体をよいしょと持ち上げて、寝室に向かう。


魔法のように不安も寂しさも体に吸収され、今はこの体温と香りで頭が真っ白になるほど苦しく、愛しい。


求めてくれる夕さんの力が強くて、同じように私のいない時間を憂いてくれていたのではないかという錯覚に陥る。

あまりにも心地よい力強さ。深く落ち続けていく想い。


そうして、おおよそ満たされた心持ちで日常生活がスタートした。



予想はしていたけれど、現実は無情で、一週間合計で何時間寝られたか、を計算したくもないほどの忙しさ。


もはやどちらが先に帰っても、お互いの為に何か料理を作るような心持ちになならなかった。


数ヵ月前はこの現実に涙を流していたはずなのに、この寂しさに、痛みに、私は少しずつ慣れていった。


夕さんのおかけでチーフが代わり、評価してもらえることが増えてきた。


私という人となりを先方に気に入ってもらえれば、仕事が継続してくることもある。


社会に生きる人としての自分に、少し自信が持てるようになってきたのかもしれない。それはそれで悪いことでは無い。


けれども見上げれは夕さんは高くそびえ立っている。憧れの存在であり、隣にいる私にまで優越感をもたらしてくれることもある。反面追い付けないもどかしさも、置いていかれるかもしれない恐怖を感じることもある。


感情が複雑になるにつれて、私は、ま、いいか。

と思うようにした。


今仕事は充実している。


夕さんはちゃんと優しい。


お金にも困っていない。


ま、いいか。



そうして今朝、お話があると言われて、久々のカフェランチ。


おそらく私が先だろうと思いお店に入ったのに、夕さんはいつもの席に、今日はジャケットもちゃんと羽織って座っていた。


すぐにこちらに気がついて、もう注文してあるから大丈夫、と笑う。


ティーポットの紅茶はとてもいい色で、やわらかな湯気とアールグレイの香りだけで体が温まる。

サラダにはセルフサービスのフライドオニオンとクルトンがかかっている。


何も言わなくても、好みがわかっていて、揃えて待っていてくれる。


「ありがとう。さすが完璧男子。」


「何それ?」


「華江ちゃんが言ってた。渡川さん完璧男子って。」


「言いそう、そういうこと。」


午前中はずっとデスクにいなかった。それこそ目が回るほど忙しいだろうけど、夕さんは穏やかに笑っている。


「料理もすぐ来るよ、サラダ食べちゃう?」


「うん、いただきます!」


紅茶をカップに注いで、お砂糖を入れてそっとかき混ぜている私の手元を、じっと見つめながらコーヒーを飲む夕さんを見上げる。


「話ってなに?」


「ごめん、言い出しにくそうな雰囲気出してた?」


「出てるよ。気を遣ってくれている感じがする。」


「さすが完璧女子、空気読めるね。」


「何それ!?」


わりと小さな店内なので、声をおさえて笑う。


「3年ほど前からゆきがずっと手掛けてきたドットドリンクのキャンペーンデザイン、今年は断らないか?」


「え?先方からきた話?」


「違う、あちらはもちろん今年もゆきを指名して依頼をしてきてくれてる。けど、今のゆきに見合う金額が出てない。」


「昨年より安くと言われたの?」


「いや、同等という感じ。」


「それではダメなの?」


「今の仕事量から考えると、断りたい。」


「待って、でもドットの公報担当の方は、私のことを手放しで評価してくれた方で、とても感謝しているし、金額だけでは簡単に切れないよ。私もやりたい。」


「ゆきが大切に思っている取引先だと言うことは充分わかってる。でも、キャンペーンも小規模だし、あまりこちらには利点が無いんだ。こういった内容の仕事を、また若い世代に繋いでいくのもゆきの大切な仕事だと思うよ。」


言っていることはわかる。

バカじゃないから、夕さんが正しいことだって百も承知だ。

でも、

それでも、

先方が私をとても評価してくれている。

私にとっては、クライアントのご機嫌を伺わずに自分を出せる、とても魅力的な仕事だ。


辛い時期を支えてくれた恩もある。


夕さんの心に響く言い訳を、説得できる事はないか、必死に考える。


考えているうちに料理が運ばれてきて、トマトの甘酸っぱい香りに包まれて視線をおとす。


夕さんは手際よく取り皿にトマトクリームのパスタを取り分けてくれた。


「もうひとつ、大きな仕事が入りそうなんだ。コンペに通ればそちらでチームは手一杯になる。ゆきの力を借りないわけにはいかない。」


「…。」


なかなか丁度良い言葉がみつからない。

ずるいと思う。

私が必要だからと言われれば、これ以上は言いずらい。

けれども、私でなくても人手が足りればできる。

ドットは私でなければと思ってくれている。時間をかけて築いてきた信頼関係だってある。


「どうしてもダメなの?」


「できれば。」


「できれば、なら、どうしてもやりたいと言えばやらせてくれるの?」


「ゆき。」


少し強い口調に苛立った。


子供をなだめるように言われた。


「同じ思いで繋いで来たものがあるのに、金額ひとつで切れないよ!」


おそらく、初めて夕さんに対して腹が立った。そして静かだけど強く、言葉を叩きつけてしまった。


「今のゆきはエゴイストだ。周りを見た方がいい。」


誰の声かと思った。


いつも冷静沈着な夕さんが、明らかに熱のこもった言い方をした。


言葉の熱とは裏腹に、表情の冷静さと張り積めた空気に身体中の血液が一気に上昇した。


今の自分の立場を考えるために血液はすべて脳に。そしてお腹の辺りが寒くなる。


「ひどい…」


自分も反省点はあるはずなのに、ついこぼれ出てしまう。泣いたらいけない。

今は至極フェアな状態で仕事の話をしているのに、泣いたら私がずるい。


目が潤んでくるのが自分でもわかる。まばたきをせずに必死で堪える。

このカフェに来ると、よくこういう状況になる。


「ごめん、ゆきに冷静になってもらおうと思ったのに、自分が冷静じゃないね。」


夕さんはいつもの声色でゆっくりと話しながら、手元のフォークを動かしてパスタをすくう。


「ごめんなさい。ちゃんと考える。時間を下さい。」


「丁寧語になってるよ。」


「だって!」


「ごめんゆき、さっき言ったことは忘れて。ご飯せっかく温かいから早く食べよう。楽しい話しよう。」


「うん。」


「今週末、ゆきの予定が無かったら、どこか出かけよう。ゆきの好きなところ、どこでも良いよ。」


「うん。考えてみる。」


『周りを見た方がいい。』


夕さんの、滅多に言わない、それが本音だろう。

滅多に言わないからこそ、重い。


自分の何が間違っていたか等、すぐに気がつける人も、すぐに納得できる人もいないと信じたい。


私はジリジリと焼き付けられるように同じ言葉を頭の中で繰り返す。


佐藤さんも勝本さんも残業時間が増えている。家庭のあるお二人には大変なことだろう。それもすべて、私のエゴのせいだと言うのか?


こんな状況で、それでもやっぱりドットのキャンペーンはやりたいだなんて、言えるはずがない。


どうせやら無いなら、潔くわかったと、言えば良かった。


煮え切らない思い。


わからないままの真意。


初めて夕さんとこれ以上話せないと思った。


相手の気持ちが、私の気持ちが、

何らか変化してしまうようで怖かった。


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