第10話 ゆきと夕さんの仕事のはなし

今の座席は窓が近い。

9階のオフィスから見える空は高く、広く、晴れの日はついぼんやり、外を眺めてしまう。


キーボードに手を置いたままで、今朝、一緒に出勤したのはやり過ぎだったかな。と考える。

とは言え誰かに突っ込まれるようなことはもちろんなく、駅で一緒になったんでしょ?ぐらいの反応だけど、自分が使い物にならなくて困る。


切り替えどころがわからなくなってしまって、目の前でいつも通り業務をサクサクこなす夕さんに、今も手を伸ばして触れたい気持ちを、胸の中に紐で縛り付けてある。

頭の中で蝶々結びがあっさりとほどけてしまう様子をイメージして、慌てて窓の外に目を移す。


チーフは出張不在。

華江ちゃんはたまにネイルを気にしながら、いつも通り仕事を進める。

佐藤さんは何も話さず真剣な表情で動いている。


私だけ浮かれてる。ダメだな。

チーフが戻ったら、どんな大変な事が待っているとも知れないで、夕さんが居れば何とかなると、シェルターにでも入ったような気分で何も思考していない。


「柳井さん」


「はい。」


「明日、データ提出予定のコスメのイラスト、仕上がっていたらこちらに送ってください。」


夕さんからの仕事の催促で我に帰る。


「あっ、すみませんできてます。今送ります。」


慌てて社内共有サーバーを開いて、営業担当のファイルにデータを写す。


「ファイルにコピーしました。確認してください。ファイル名C2015です。」


「ありがとうございます。」


危ない…これでできていなかったりしたら、本当に会社のお荷物だ。早く切り替えないと呆れられて捨てられちゃうな。

会社からも夕さんからも。


「お、いいですね。私は好みの雰囲気です。」


夕さんが画像を確認して呟いている。


「ありがとうございます。嬉しいです。」


パソコンの隙間から顔を除かせてニコッと笑ってみた。


「渡川さんはゆきさんの作品わりと推しますよね。いや、私も好きですけど、何でもっと大きな企画に採用されないんだろう。」


「華江ちゃん、いつも通りストレートパンチだね。好きだと言ってくれる人がいてくれればいいよ。十分嬉しいから。」


「柳井さんすみません、過去に手掛けた物って、どこにデータ保管しているんですか?個人的に見てみたいだけなんですが。」


華江ちゃんと私の会話に全くお構いなしで、夕さんはパソコンを操作しながらこちらを見ずに話す。


「個人フォルダにありますが、ボツになったものばかりなのに見て欲しいとはあまり思わないですが…」


「パスワードかかってますか?」


「一応フォルダにかけてます。どうしても見ますか?」


「はい、是非。」


断り続けても仕方ない。決めたらなかなか折れない性格なのは良くわかっている。

付箋を取り出し、走り書きでパスワードをメモしてパソコンの隙間から手を伸ばす。


「どうぞ、コメントは無い方向でお願いします。二度落ち込むのは辛いので。」


「そんなことはしません。」


メモを受けとると、私の顔を見て困ったような目で笑う。


やり取りを見ていた華江ちゃんが、私の横顔を凝視しているのがわかる。

何か言いたいことがあるのは良くわかる。


「華江ちゃん、資料室付き合ってもらえますか?」

「探し物ですか?」

「そうなの、昨日一人では見つけられなくて。」

「わかりました。」


ほぼ二人同時に席を立ち、おそらく二人同時に夕さんをさりげなく見る。

真剣にパソコン画面を眺めている。

過去の自分の作品を見ているのだろうと思うと、お腹の奥の辺りが固くなる感じがして、自分が緊張していることに気が付く。

恋人同士で仕事が一緒というのはこういう時に困ったことになるな、と思う。


デスクを離れて鍵を取り、資料室へ向かう廊下、待ちきれない様子の華江ちゃんは口を開く。


「ゆきさん、今のは絶対に昨日の喧嘩の件と繋がってますよね。」


「喧嘩って、子供じゃないんだから。」


華江ちゃんは真面目な声で話すので、私ははぐらかすように笑いながら答えた。


「ゆきさん本当に何も聞いて無いんですか?渡川さんは何のためにゆきさんの過去データを調べてるんですか?」


「いや、本当に何も聞いていないのよ。」


おそらくこの後お昼休みに聞くことになりそうだけれど、今はまだ本当にわからない。ごめんね華江ちゃん。


「チーフの午前中の出張も予定ではなかったから、あちらもなに考えてるのかわからないし、こういう空気ホントにダメです。」


資料室に入ると華江ちゃんはいつもの感じで、心底勘弁してほしいという感情をオブラートに包むことなく表出していた。


「探し物は何ですか?」


「特に無いよ。」


「そうだと思ってましたけど。ゆきさんもあの場には居ずらいですよね。」


「察しが良いね。」


ははははと大きな声で笑う華江ちゃん。


「山地との連絡は今も渡川さんがとってるんですよね。どうなるんだろう。印刷会社との折り合いもあるから早く解決してほしい。」


「そうだね。元案で行くのが一番平和だよね。そうなって欲しい。」


「いや、さっきも言いましたけど、勝本さんには悪いけれど、私もゆきさん推しですよ。何で通らなかったんだろう、と思う事はこれ以前もありました。」


「ありがとう、でも今回は、これ以上こじれたくないね。」


「たしかに~。佐藤さんなんて今朝からだんまり決め込んで、僕は部外者です的な、ずるいですよホント。私は渡川さん応援しなきゃなー。株あげとこ。」


華江ちゃんは真面目で、周りの空気も感じて自分の振る舞いを決めているのだろう。時には悪者になっても誰かを守ったりする人なのかな。そんなところも見てみたくなった。


デスクに戻ると夕さんの姿はなく、時刻は11時50分。

「そろそろお昼ですね。今日はどちらですか?」


「用意していないので外なの。」


「社食ではなく?」


「ついでに銀行の用事を済ませようかと思ってて。」


「なるほど、ではまたいつかご一緒に。」


「ありがとう、是非。」


華江ちゃんからのはじめてのお誘いだ。

この一件でお互いの本当のところが少しわかってきて、以前よりも距離が縮まったように感じていたのは、私だけじゃなかったんだな。


外に出ると、爽やかな風がもう夏を想像させてくれるほど温かくて、道を歩く人々の表情も明るく見える。こんな日につまらない雰囲気の昼食になりませんようにと心の中で祈ってはみたが、それも無理な話だろうと思い直す。


カフェの扉を開けると予想通り夕さんは先に来て、珈琲を飲みながら携帯を見ていた。

このカフェを使う時は、表通りから見えない奥の席に座ると、何と無しに決まっている。

ジャケットを脱いだままで出てきたらしく、私がアイロンをかけたワイシャツの、七分袖のカフスを軽く折ってきれいに着こなしている姿を見て、胸が鳴る。

客観的に見たら、私がこの人の彼女だなんて、何の冗談かと思うだろうな。


「お待たせしました。」


囁くように伝えて、向かいの席に座った。


「お疲れ様。」


昨晩も一緒にいたのに、久々にあったように愛しそうに笑ってくれる。


「ご飯頼んでない?」


「まだ、本日のパスタとピザを頼んでシェアする?」


「わかった。行ってくる。」


このカフェは落ち着いた雰囲気なのに、注文はカウンター、料理は出来上がれば運んできてくれる。だから店員が無駄にうろうろしていない。おまけに音楽の選曲と音量が絶妙で、他人の会話も気にならないし、自分達も話しやすい。そこがお気に入りポイントで何度か通っている。


「ごめん、ありがとうとう。」


携帯を閉じて、腰を浮かせていた夕さんを制止して、私がカウンターに向かう。


手渡しでもらったサラダとアイスティーを持って席に戻ると、夕さんは柱の影から少しだけ見える、外の風景を見ていた。

「暑いぐらいだね。」

と声をかけると、

「うん。ありがとう」とゆっくりとした口調で、微笑と一緒に返事が返ってくる。


「ゆき、ごめんね。気の進まない話だとわかっていて呼び出して。休憩時間には限りがあるから、できるだけ要点だけで伝えるよ。」


「はい。着いていけるかな。」


「意味がわからなかったら口を挟んでね。」


「うん。」


緊張が表に出ると、余計夕さんに罪悪感を押し付けてしまうかもしれない。できるだけ普通に、サラダを夕さんと自分の前に置いて、アイスティーのガムシロップとミルクを入れてストローでかき混ぜる。


「ゆきは上司から、会社に採用が決まった時に何か言われた?」


「期待しています、みたいな当たり前なことを。」


「うん。その社交辞令的な台詞は本当に重みのある言葉だったんだ。」


「うん?」

早速良くわからなくて首を傾げる。


「ゆきの代の同期、クリエイターはゆきと野本さんの二人だろ?野本さんは契約社員として長くうちにいて、内定を約束されて試験を受けた人だから、一枠しかないところでゆきが採用されたことになってる。つまりゆきの実力を重役がかなり評価して採用したんだ。」


「そうだね。その話は後日聞いたの。私も嬉しかった。」


「でもその一枠に、実は今のうちのチーフが、自分の姪っ子さんを採用して欲しいと言って来ていたらしい。もちろん人事部は承諾などしなかったらしいけど、あの人のことだから、大見得切ってたんじゃないかな。ダメだったもんだから半狂乱だったようだけど、人事部まで動かすほどの力は無いしね。」


「全然知らなかった。どうして夕さんがそんなことを?」


「このチームに異動願いを出した時、人事部に呼び出されたんだ。元の部署にもやりかけの仕事はあったから、初めはふざけた異動願いだと怒られた。」


「夕さんでも怒られることがあるんだね。」


「もちろんあるよ。その時に今の話を聞かされた。もし、ゆきの作品が表に出ないことに理由がありそうならすぐに報告をと、調査役が交換条件だった。」


「スパイ!?」


「そんな悪役じゃない。むしろゆきにとっては救世主だ。」


話の内容は思っていた方向とは少し違っていた。もっと傷付くことになるかと思っていたけれど、思わぬところで評価されていることがわかり、嬉しい思いさえした。


「ここからは勝本さん、佐藤さんから飲み会で聞き出した話なんだけど、」


「あー!だから私に何も言わずに飲み歩いていた時期があったのね。」


「一緒に行きたいだなんて言われたら断れないだろ…。」


「やっぱりスパイだ。」


「もう何とでも言ってくれ…。」


「今まで内緒にしていたなんて、凄い。」


「話戻すよ、ゆき、新歓の時、チーフにひどく絡まれたらしいの、覚えている?」


「あー、覚えています。酔っぱらってるんだと思って適当に流してしまったの。かわいいね、とか、二人になりたいとか、そんな内容だった。」


「勝本さん達が言うには、ゆきがその日帰ったあと、チーフは上司への態度がなってないとか、社会人のマナーが何とか言って凄く荒れたらしい。しかも陥れてやりたい、みたいなことを口にしていたらしい。チーフはあんなで面倒な人だから、助けてあげられなくて申し訳ないと、勝本さんも佐藤さんも今もずっと気に病んでいる。」


「確かに二人は私に優しいな。」


「今回山地家具にゆきのポスターを見せたのは、きっと勝本さんだ。ゆきの作品を高く評価していた。悪い流れを変えたいと嘆いていたんだ。誰が、なんて山地に確認すればすぐにわかることだけどね。」


「自分はマイペースにやっていたつもりだけど、回りに心配かけて、迷惑かけていたんだね。申し訳ないな。」


「ゆきが、パワハラやセクハラで訴えてくれれば良いのにと、そうすればいくらでも証言して力を貸すのにと言っていた。迷惑だなんて誰も思ってない。皆が実力を認めて、どうにか力になれないかと思っている。今も。」


数秒間の沈黙。


どんなに自信があってもあっさりと祓われること、数知れず。プライドなど、とうに頭の中の箪笥の奥深くに隠してある。捨てたんじゃない。いつかまた出せるようにしまってあった。その箪笥の引き出しを開けられる時が来るのだろうか。

この話は、そんな期待を抱かせてくれる話なのだろうか。


私は今、神妙な顔をしているだろう。だけど作り笑いなんてできる心境でもない。


面倒なことは山積みだ。それでも今までとは何かが変わる期待を抱いている。


「ゆき。」


「はい。」


「自信を持って。今日見せてもらったゆきの作品はどれも素敵だった。もちろん勝本さんも実力のある人だ。全てゆきが勝っているわけではない。でももっと評価されるべき人だと思う。私を信じて。」


仕事の話をしていると言うのに、テーブルの上に軽く組んで置いていた私の手を、夕さんが突然大きな手で包む。


温かく、柔らかい夕さんの体温と、


「ゆき、面倒だけど、一歩進むよ。覚悟はいい?一緒だから。」


という言葉の、一緒だから、の甘い雰囲気に、自分でも気付かずに張積めていた緊張の糸は、私の中で音を立てて切れる。


一粒の涙が頬をつたう感触。

午後も仕事があるし、隣には実は勘の鋭い華江ちゃんもいるし、私はこれでもかなり我慢をした。


身動き一つ、瞬きも出来ないまま、夕さんを見つめて涙を貯める。下を向けば止めどなくこぼれそうで、ただ歯を食いしばってこらえる。


認めてもらえないことに慣れてしまう人間などいないんだ。


認めてもらえた時の安堵感は、何に例えることも出来ない穏やかな感覚をもたらしてくれる。


「辛かったね。ゆきが良ければ、私の方から社内の職場環境調査委員に報告するから、人事部の方から異同等の話が来るかもしれない。」


「うん。」


「思いとは違う人事になるかもしれないけれど、今よりはやりやすいはず。チームが変わっても私の気持ちは変わらないから。」


「うん。」


「でも出来ればそばで応援していたいから、昨日の夜の話も少し真面目に考えてみてください。」


「昨日の話はそこに繋がるのね、そうかーなるほど。」


お店の人がパスタとピザを運んで来てくれた。

良く知らない人とは言え、今の自分を見られるのは辛い。

ようやく収まってきた涙を目の奥にしまいこんで、笑顔で返した。


「お待たせしました。」


店員さんはテーブルに料理を置く。


「ありがとうございます。」

二人揃って、ちゃんと顔を見上げてお礼を言い、軽く会釈する。


これは完全に私の方が、夕さんの感覚に似てきたな、と思いながら、クスクスと二人で笑った。


「早く食べて戻ろう。」


「はい!」


温かく爽やかな風は、私の表情も明るくしてくれたかもしれない。自分ではわからないけれど。


「救世主か。」


一人小さく呟いて、隣を歩く整った横顔を眺める。


「ねえ、夕さん。」


「何?」


「今夜も泊まりに来てよ。私が行ってもいいよ。」


「ゆきに呼ばれたら、私から側に行くと言ったでしょ?」


前を向いたままの夕さんが、嬉しそうに笑いながらそう言う。


少しして、ふふっと笑ながら下を向いて、

「だめだ、これじゃ午後の私は使い物にならないな。」


とか言うから、午前中の自分を思い出して、笑いと熱い何かが込み上げてきて私も一緒に下を向く。


「ありがとう、大好き。」


会社の人が近くにいるかも知れない。距離を保ちながら小さな声で囁く。


「私も。」


と返事がもどってくる。



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