第9話 ゆきと夕さんの恋人半年目
「ゆきさん、ちょっといいですか?」
華江ちゃんの普段あまり見ない真剣な表情、お断りしてはいけないと察した。
「荷物おいてきていい?デスクで良い?会議室に行く?」
「あ、じゃあ10分後に会議室でお願いします。」
出張から戻ると突然声をかけられた。
夕さんとお付き合いを始めてからおよそ半年。季節は春。社内では未だに何の噂にもなっておらず、皆が知っていて知らないふりをしてくれているのか、こんな不釣り合いなカップルが成立するはずないと、疑いもしていないか、は、私たちにはわからない。
4月には新入社員も入ってきたが、営業成績が良いことで、チームメンバーは誰も変わらず、チームは会社にもそこそこ貢献していた。
私はというと、大きな仕事にはやはり採用してもらえず、手掛けた案件は山ほどあっても、なかなか達成感を得られず、未だにくすぶっていた。
ロッカーに荷物を置いて、デスクに一度戻ると華江ちゃんの席は空席。
夕さんの席も空席。ホワイトボードには『渡川 14:00 出』と書いてある。今さっき出たばかりかな?
時計を見て、約束の10分になってしまうことに気が付き、何の話だかわからないけれど、一応手帳とボールペンを持って会議室に向かう。
華江ちゃん、寿退社でもするのかしら?ぐらいの気持ちだった。
コンコン
扉を開けると、華江ちゃんはいたって普通に座っていた。
「どうしたの?何かあった?」
「出張お疲れ様でした。急に声をかけてしまってすみません。」
さっきの鬼気迫る表情はなく、穏やかに話している。
「ありがとうとう、大丈夫だよ。どうしたの?」
「あの、今日ゆきさんが出張中に、チーフと渡川さんが言い合いになってしまったんです。」
「え!?珍しいね…。何の件で?」
「居合わせたのが私と佐藤さんだけで、どちらも止められる訳もなく、うろたえるだけです。話の内容は、始め渡川さんとゆきさんが契約してきた『山地』のポスターの件だったんです。」
「希望納期には間に合うように進んでいたよね?」
「はい。採用されたデザインについて、先方から再考の依頼が来たみたいで、それがどうも、社内では一度無しになったゆきさんのデサインが先方の目に入ったことがきっかけらしいんです。」
「え!?」
大袈裟に驚いて見せたが、何となく話が見えてきた気がした。
渡川さんは社内でも、今回の山地のポスターは私の作品を異常に推していた。
プライベートで仕事の話をすることは少ないけれど、二人の時に、「今回はゆきの作品が絶対にいい。先方の人となり、会社の雰囲気をわかって作っている物だと思う。」と言っていた。
それが公私混同した意見でないことは私にも伝わったけれど、会社名を挙げて仕事をするからには、社の意見を優先せざるをえないことは二人ともわかっていた。
私は慣れっこだった。自信はあったが、理解してもらえないことに慣れてしまっていた。
渡川さんはそんな私の様子が余計に気に入らないようではあったけれど、それ以上深く話し込むこともなかった。
「当然チーフは半狂乱で、犯人探しを始めたんです。もちろん営業担当の渡川さんが真っ先に疑われて。」
「そうだろうね。で、渡川さんはなんて?」
「柳井さんの作品が目に留まった経緯はわからないと。ただ自分も今回のデザインに関しては柳井さんのを採用すべきと今でも思っているとはっきり言ったんです。」
「経緯は知らないけど、先方に同感、と伝えたのね。罪を認めたも同じ状態かしら。」
「そうなんです!チーフはカンカンで、そんな言い訳があるかと、わが社は納期を破らないのが鉄則だとか、そもそもデザインの質がどうとか、もうワケわからない感じ。言っていることも良くわからない上に声も無駄に大きいし、私たちはもうどうしたらいいか。」
「で、どうなったの?」
「渡川さんが、すごく静かに、むしろ小声ぐらいの声で、チーフは柳井に恨みでもあるんですか?何にこだわっているんですか?って、諭すように聞いたんです。」
「え?良く意味がわからないな。」
「もちろん私も佐藤さんも全くわかりません。ただそれを聞いたチーフは絵にかいたように逆上して、渡川さんに向かってバカみたいに、俺に従えないなら出ていけ、とか叫んだんです。」
「想像できちゃうからヤダね。」
「はい。でもその場にいたら凍ります。」
「だろうね、お疲れ様、それであの表情だったのね。」
「はい。それから、後始末はお前がしろ、と吐き捨てて、チーフは出ていってしまい、渡川さんは失礼しましたと深々と頭を下げて、普通に仕事をしていました。」
「ゆきさん、思い当たることはあるんですか?私はどちら側に立てば正解ですか?」
「うーん。渡川さんが今回私の作品を評価してくれていることは知っていたけれど、チーフを逆上させた台詞の真相については全く思い当たるところが無いな。」
「私は契約時以外で、山地の担当者とはやり取りしていないし、渡川さんがチームの和を乱すとわかっていて、先方に別のデザインを見せるとも思えないしね。」
一通り話し終え、少し興奮の残る華江ちゃんの表情は、確かに、という悩ましい顔になっていた。
手帳の上に乗せていた携帯が短く鳴る。
「どうぞ。」
華江ちゃんが言う。
「メールだから大丈夫だよ。」
と言いながら確認する。
【from 渡川 夕
お疲れ様です
出張お疲れ様でした。
今日の夜、時間ある?】
いつものことながら、淡白なメール。
たぶんこの手の内容だろうと思って開けてみた。
夕さんは気に入らない時ほど静かだ。
イライラや怒りをぶつけられたことは一度も無い。今日はちょっと不機嫌かな?ぐらいのことはたまにある。
今日も静かそうかな?と思いながら、華江ちゃんの前なので短めに返信メールをうつ。
【お疲れ様です
大丈夫ですよ。
時間を指定してください。
家でも、渡川さん家でも
どちらでも大丈夫です。】
お店で食事、という雰囲気ではなさそうだなと思った。
「華江ちゃん、ごめんね。だいたいの内容はわかったよ。私からも機会があったら聞いてみる。渡川さんから何も話が無ければちょっと聞きずらいから、そなまま様子を見ることにするね。」
「華江ちゃんはいつも通り、普通にしていて大丈夫だよ!しばらくチーフがイライラして横暴かも知れないけど、右から左に流しておこう。お互いにね。」
にっこり笑うと、華江ちゃんは安堵のため息をついて、
「そうですね。私が思い悩んでも絶対に解決しないし、何か話が来たときに対応するようにします。」
「知らせてくれてありがとう。」
「こちらこそ、お忙しいのにすみませんでした。」
華江ちゃんは丁寧にそう言うと、ようやく笑顔になり、
「あーあ、チーフの不機嫌最悪ですね~」
といつもの華江ちゃんに戻った。
彼女は根が真面目だ、と始めて知った。
ごめんね華江ちゃん。
*
【from 渡川 夕
RE お疲れ様です
ありがとう。
今日は何時に帰るれかはっきり
しないので、ゆきの家へ行きます。
19:00までには着くようにします。】
【RE2 お疲れ様です
了解です。
それでは簡単なお夕飯を準備して
待っています。】
【RE3 お疲れ様です
ありがとう。楽しみです。】
チーフは不在のまま勤務終了時刻になったので、会わずに済んだことを心底嬉しく思い、華江ちゃんとアイコンタクトをとり、当然定時退勤。
駅まで歩きながら、華江ちゃんはいつも通りの口調で話す。
「怒鳴る上司とかホントにダメですよね。社長に言えば何とかなるんですかね。勝本さんたちだって、やっぱり渡川さんがチーフになれば良いって言ってますよ。」
「年齢とか職歴とか、いろいろあんるだろうね。仕事の内容や周囲からの人望だけではダメなんじゃない?」
「ゆきさんは渡川さんに対してわりとクールですよね。私と同期の、経理のえりちゃんなんて、うちのチームに渡川さんが来た時、ズルイズルイって凄かったですよ。」
「ははは、そうだろうね。その気持ちもわかるけれど、側にいるとまた少しクールな目で見られたりしない?華江ちゃんだってそう言う割には騒いだり、わざとらしいアピールしたりしないじゃない。」
「私がそんなことしたら、キャラがいかにも過ぎて、絶対にウザいですよね。清楚系女子がさりげなくアピールするから男はなびくんですよ。そのぐらいのことはわかってます。」
「え!?華江ちゃんの自己評価ってそんななの?確かに清楚系ではなくても、十分魅力的じゃない。大人な雰囲気と無邪気さのギャップが素敵なのに。」
「ゆきさんはいい人なんですね。始めて知りました。」
「失礼でしょ。」
女同士でゲラゲラと笑いながら、駅までの道のりにある公園の中の、緑の鮮やかなけやきの下を歩く。
さっきまで私も華江ちゃんに失礼なこと思ってたな、ということは胸にしまっておいた。
「日が延びたね、定時ならばまだ明るいもんね。」
「そうですね。」
「また明日、何かあったら協力してチーフをやっつけましょう。」
華江ちゃんがガッツポーズをとるので、つられてガッツポーズをとってしまい、また二人で大笑いする。
私と華江ちゃんは電車が反対方向で、そのまますんなりと別れる。
二人はこうして楽しく話ができても、根本的な価値観は合わないだろうと、お互いわかっている。食事に誘うようなことは無い。
ランチですらない。
誘われることもない。そうか、やっぱりただ空気が読めないだけの人では無かったんだな。
本日ニ度目の、華江ちゃんごめんなさい。
電車に二駅乗って、駅から自宅マンションまでの間にあるスーパーで買い物をする。
お供はワインか日本酒か…それによって夕食のメニューが変わるな。と思いながらお酒のコーナーに行く。週半ばだから軽めに、と決めて、ロゼのスパークリング。ポテトと生トマトのグラタン、水菜のサラダとコンソメスープの材料を買って帰宅する。
あと1時間ないな。
時計を見て、急いで夕食の支度を始める。
夕さんと付き合い始めてから、いつ家に来ても大丈夫なようにそれとなく片付けておくことが習慣になった。
いい習慣だな、と思う。
毎週ゴミも出し忘れなくなったし、雑誌や本、服も出しっぱなしにしなくなった。
そうしてそれなりに整理整頓された部屋にいると、なぜか気持ちもあまりモヤモヤとか、イライラとかしなくなる、
気がする。
もしかしたら、気持ちが満たされているから、かもしれないけれど。
だから仕事で大成功しなくても、そこそこ小さな仕事が何件かあって、すごく評価してくれる人が数人いれば、何だかそれでいいかと、私は思ってしまっている。
今日も、山地のポスターの話になったら嫌だな。私の案になんて、絶対にならないで欲しい。
今更自分の名前が上がった状態で、波風たてたく無い。
どうしたらいいんだろうな。
なんてことを、ぼんやりと考えながら、支度は着々と進む。
ピンポン
賃貸マンションの安いチャイムの音。
手が濡れていて出迎えに行けず、インターホンの通話ボタンを右肘で押して、
「ごめんなさい!鍵は開いているから入ってきて。」
とお願いする。
ガチャ
とドアの開く音。
「お邪魔します。」
と礼儀正しい声が玄関で聞こえる。
決して広くない、リビングダイニングキッチンの扉が開くと、出張終わりの仕事モードの夕さんが私を探すように入ってくる。
「お疲れ様!お帰りなさい。」
いろいろ考えて、用意しておいた、努めて明い笑顔で出迎えた。
自分は紛争の種にはなりたくないし、社内で揉めるのはまっぴらごめんだけれど、今日一番疲れたのは間違いなく夕さんだ。
夕さんが自分から仕掛けたいざこざで無いことは何となくわかる。
それなのに私が今、つまらない顔をしていたら、夕さんにとってあまりにもひどい一日だ。
せめて気持ちよい自分でいたい。
夕さんは私の顔をなぜか少し驚いた顔でしばらく見つめてから、
「ただいま。」
とすごく優しい笑顔で言った。
「どうしたの?」
と聞くと、上着を脱ぎながら、
「お帰り、にぐっと来た。お夕飯のいい香りがして、お家もゆきの香りがして、力が抜けた。」
「それはいいこと?」
「とてもいいこと。」
「それは良かった!」
「ゆきは天才だね。」
「頭は悪いよ。」
「いや、私にとって天才ならそれでいいんだ。他の誰かの評価なんてどうでもいいんだよ。」
「珍しい俺様発言だね。」
「はははは、いつも俺様だよ。俺って言わないけどね。似合わないから…」
「そういえば、言わないね。確かに似合わないかも。」
「自覚してるよ。」
夕さんは少し疲れた表情で優しく私を見る。
「さて!今日は簡単なイタリアンにしたので、スパークリングワインです!スーパーのだけどね。」
この家に帰ってきた時の香りが落ち着くだなんて、最高の誉め言葉だ。
嬉しくない訳がない。
でも今この話題が長引くと、
今日の昼に疲れることがあって…という話の運びになりはしないかと気が気ではなくて、
何となく話題を変えたかった。
オーブントースターで仕上げにチーズを焦がしたグラタンを、テーブルの鍋敷の上に。
水菜のサラダはボウルごと出して、大きめのプレートを夕さんと私の席に置く。
鍋からコンソメスープを大きめの両手マグに注ぎ、テーブルへ。
ワイングラスは無いので、卵形のグラスを出して、箸とスプーンを持って席に座る。
「大したものでは無いけれど、どうぞ。」
スパークリングワインをグラスに注ぎながら、夕さんは
「贅沢すぎるよ。」
と微笑みながら呟いている。
「お夕飯ありがとう。いただきます。」
グラスを少しだけ持ち上げて嬉しそうに言う夕さん。
「ゆき」
「なに?」
プレートに、グラタンとサラダを盛り付けながら夕さんの顔を見る。
もういいや。どんな話になっても、避けていても仕方がない。
心のなかでどっかりと腰を据えて、何でも来いの笑顔で次の言葉を待つ。
「お願いがあるんだけど。」
「お願い?私にできること?」
「うん。ゆきにしかできないから。」
「何?」
夕さんの前にプレートを置いて、しっかり座り直して、姿勢を正す。何となく、そうしなければならないような空気。
数秒の沈黙が長く感じる。
私を見る夕さんの目は真っ直ぐだった。
あー、この顔は、私は絶対に逆らえなくなるパターンのやつだ。と思う。
「ゆき、一緒に暮らしてもらえませんか。」
「ええ!?」
「そんな驚き方する?」
全く想像していなかった展開に素直に驚きの声をあげてしまった。
どんな話でも来いと思って構えていた心は、突然乱れ始める。
「夕さん丁寧語になってる。」
「緊張してるんです。付き合ってまだ半年なのに、とか、勘違いしないでとか言われたらどうしようかなと。」
「ええ!?」
「だからその驚き方やめて…」
「私が夕さんに勘違いしないでって言うの?」
「そうだよ、私がお願いしてお付き合いをしてもらっているのに、さらにその上を望むなんてとんでもない話だろ?」
「まだそんなこと言ってるの?こんなに好きだと伝えているのに…」
「ゆき、ここでそのストレートな言葉は嬉しすぎて、勘違いしそうになる。そう言ってくれるのと、一緒に生活しようと思うことはまた別のことだってわかっている。つもりなんだよ。」
「そうだね、そうだけれど、でも」
「あー、本当にごめん。ゆきがこういうこと、あまり断れないタイプだって知ってて言ってるんだ。本当に少しでも迷うなら断ってくれていいよ。わがまま言ってるってわかってる。」
「ちょっと待って夕さん、またこんな時に『わがまま』とかちょっと可愛い単語を使うのも作戦なの!?」
「何のこと?ゆきに作戦をたてて勝負に臨んだ事なんて一度もないよ。」
「いつだって私は夕さんの作戦に引っ掛かってこんなに引きずり込まれてるんだ!これ以上、夕さんにあげる身も心もないからね。」
「ちょっと待って!ゆきこそそうやって私がドキッとすること言うから、これ以上、もっとって思っちゃうんじゃないか。なのにゆきは、普段は会えなくても、わりと平然と過ごしているだろ。」
「あまえ上手じゃないの。どこまで言って許されるかわからないんだもの。会いたいって、難しい台詞だよね。だって私がそれを言えば、夕さんはきっと無理をするでしょ?でも、私より何倍も忙しいのは知ってるから。『会いたい』より口に出すのが難しい言葉なんて無いんじゃないかと思うよ。」
「あーーゆきはもう…。」
きれいに整えた前髪を、夕さんはゆっくりと握る。
「せっかく準備してくれたご飯、先にいただこう。話の続きはベッドでいい?これは雰囲気で流されて私の言う通りにしてくれたらいいな、という作戦です。そうとわかってて誘いにのってください。」
「また丁寧語になってる。」
「今からどうしても落としたい敵に、これは作戦です、て言ってから勝負を仕掛けるバカ、見たことないなと思ってね。」
「はい。見たことありません。では、先にご飯食べよう。」
さっきまで二人の間に流れていた緊張感はゆっくりと去っていき、穏やかな気持ちだけが残る。
いつも話はこうして、わりと楽しく流れていき、私たちは会話のテンポが合うなと思う。
よくわからないままに緊張していた心も、笑いながらご飯を食べ始めたことで、すぐに落ち着いてくる。
なんて居心地がいいんだろう。
悩むことんて何も無い。
一緒に暮らせば楽しいに決まっている。いつだって会いたいと思っている。
不安はひとつ。
いつまでも今と変わらずに私を求めてくれるだろうか。
いつも隣にいて、当たり前になってしまったら…。
空気のような存在でいたいなんて言うけれど、私はちゃんと私がいることをいつでも感じてもらいたい。
溺れて、苦しい思いをして始めてありがたさに気が付かれるのなんて嫌だ。
そばにいることがちゃんとわかるもの。
温度のついた空気。
こたつみたいな?
入れば必ず温かい。
でも電源入れ忘れたら当然冷たい。温まらない。
生き物だもの、私はいつでも酸素と安らぎを供給できる空気になんてなれない。
ちゃんとスイッチ入れて、電気を通してくれなくちゃ温められない。
夕さんのような人を目の前に、これは贅沢なことを言っているのだろうか…。
首筋に軽く柔らかく、指先が触れる。
馴れるなんてことは全くなくて、何度でも私の心臓は壊れてしまわないかと思うほど激しく鼓動して、体ごと震えそうになる。
夕さん家のシャンプーの香り。
私の頬に寄せられた夕さんの鼻先。
お互いに火照った顔で、その暖かさが心地いい。
「ゆき…ごめん…もう一回」
「え!?」
「今日三度目だね。その驚き方…。」
「だって夕さん~」
「だってどうしてもゆきが足りない。もっと欲しい。」
「お願い…」
いつも寝ている自分のベットの香りに包まれて、素肌に夕さんの柔らかい唇があたると何も考えられなくなる。
そして、
こうして求めてもらえることが、私はわりと好きなんだ。
夕さんはこういう時、とにかく優しい。
それも好き。
触れ合う肌の柔らかさも温かさも、耳にかかる短い息も、ゆき、と名前を呼ぶ細めの声も。
「ごめんね、ゆき。大事にしているつもりなんだ。なのにゆきのことになるとどうしても理性がきかなくて、こんな私なんだけど。」
私の前髪を耳にかけながら、そう呟く夕さん。
「ううん。ちゃんと伝わってるよ。ありがとう。」
「住む場所とか、ここの解約の時期とか、いろいろ考えることはあるけれど、夕さんとずっと一緒、嬉しいよ。」
夕さんは数秒間、真剣な顔で私を見つめてから、
はーと大きな息をついて、
私の体を少し抱き起こすと苦しいぐらいに抱き締める。
「ありがとう。今一番言うべき言葉が見つからない。とりあえず今日は泊めさせて下さい。」
「ワイシャツにアイロンかかってるよ。」
「うん。やっぱりゆきがいい。」
「じゃあ私も、夕さんでお願いします。」
二人揃ってふふふ、と小さく笑いながら、そのまま眠ってしまった。
安らぎに包まれている。
表現が古いかな…。
日常は慌ただしく、目まぐるしく、私は全てに流されていく。
でもとても穏やかな居場所がある。
ここに止まれば羽を休められる。
そしてまた濁流に身を投じることができる。
漠然と、そんな感じの夢を見ていた。とても尾の長い鳥を、これは自分かな?と思いながら遠くから見ているような夢だった。
うっすら明るくなりかけた窓に気がつき目を開ける。
「起きた?」
と夕さん。
やっぱり夕さんが先なんだな。
「いつから起きてたの?」
首元しか見えなくて、体を少し離して夕さんの顔を見る。
眼鏡を外した顔は新鮮。
違う人みたい。
と思うと急に緊張してくる。
「ゆき、どうした?顔赤いよ。変なこと考えてるでしょ。」
中学生みたいにイタズラっぽく言うから、余計に恥ずかしくなってバサッと頭まで掛け布団を掛ける。
「うるさいよ‼」
ちょっとだけ掛け布団をめくって、おでこにキスされる。
「かわいい。大好きだよ。」
「朝から甘いよ~出勤できなくなる~」
はははは!と大きな声で笑って、体を起こす夕さんに合わせて、掛け布団をめくる。
大きな背中、見とれてしまうほどの鮮やかなな仕草でシャツを着て、眼鏡をかけて、こちらを向く。
「ゆき、昨日の話は華江さんから聞いた?」
「うん。あったことだけを簡潔に。それ以上は何もわからない。」
「そうか。仕事の話だから、今じゃない方がいい。今日のお昼、一緒に外に出よう。隣のビルのカフェに12:10でいい?」
「わかった。」
「うん。ありがとう。」
お互い瞬時に仕事スイッチが入る。
さっきまでの甘い空気はどこに…?
今度はベッドを立つ夕さんに合わせて私もシャツとルームウェアを羽織る。
キッチンに行き、お湯を沸かしてお茶を入れる。
シリアルとヨーグルト、ジャム、ウィンナーと牛乳を入れたオムレツ。
昨日の残りのコンソメスープ。
シャワーから戻る前に仕上げてテーブルへ。
夕さんが部屋に入ると、私のボディシャンプーの香りで空気が華やかになる。これはこれでドキドキする、またからかわれないように、急いで顔を横に向ける。
テーブルの仕度を見て、椅子に座った夕さんが、
「ありがとう、ゆき。今朝もすごくいい気分だよ。」
と眉尻を下げてあまりにも優しく笑うから。
「その顔ずるい!毎朝見たくなるね。」
と同じように笑ってみた。(つもり。)
「是非そうさせてくださいね。」
と、くすくすと笑いながらオムレツを食べて、「これおいしい!」と感激してくれたから、今日は何でも言うこと聞いてあげようかなーとか思っていた。
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