第8話 ゆきと夕さんの恋人同士のはなし
「ゆき、そろそろ起きて。一度帰るんだろ?」
ぼんやりと覚醒していく頭の中で、
この上はないだろうと思われるほど、ハッピーエンドの映画を見ているかのような心持ちになる。
ささやく優しい声。
左耳には暖かくて大きな手の平、頬を優しく撫でる親指。
寝顔なんて自分で見ることはできないから、ひどかったら困る…。
先に起きようと思ってたのに、私はやっぱりダメ人間で、やっぱり夕さんは完全無欠だ。
ぼんやりと思考しながら、大きな手に自分の手を重ねてから目を開ける。
「おはよう。」
自分がどんな顔しているかなんて、想像もしたくないけれど、夕さんはラフな髪型で、起きたばかりで眼鏡だけかけました、という自然さが妙にしっくりときて、私はふんわりにやけながら言っただろう。
そんな私につられるように笑みを浮かべて、
「おはよう。」
と返事がくる。
恵比寿のランチからおよそ1か月。
昨晩は全世界が華やぐクリスマスの夜。
レストランで食事、は予約も大変だし、万が一会社の人に見られてしまったりしたら、後々つまらないことになりそう。
ということで、夕さんがご自宅パーティーに招いてくれた。
「クリスマスだからね。」
とびきりの笑顔と、ちょっといいワイン、チーズと生ハム、夕さんお手製のサラダとパスタ、私の作ったクリスマスケーキ。
すごい完璧なカップル。
並んだ料理を見て思った。
雑誌の特集に出てきそう。
と、まるでこの現場に撮影か何かに来ているような気持ちでしばらく眺めていた。
サラダとパスタは、夕さんが目の前で仕上げをしてくれたから間違いなくお手製だ。彩がきれいでため息が出る。
ケーキは私のお得意分野、ちょっと自信があって、今日は持ち歩きのことも考えて、生クリームのデコレーションではなくて、カスタードたっぷりのアップルパイにした。
地味にならないように、皮も一緒に煮込んだキレイな桃色の煮リンゴにして、リーフに型どったパイをきれいに並べた。
丸みのあるワイングラスもおしゃれでかわいい。
おまけに夕さんの部屋は無駄なものがなくてとても片付いている。私の家よりはるかにキレイだ。
家から持ってきた、ガラスポットに入ったキャンドルを見せて、
「お店っぽい?」
と笑顔で聞いたら、予想以上に喜んでくれた。
それらをテーブルに並べただけで概ね大満足のでき。
「すごい。すごすぎるね、2人ではもったいないね。」
とりわけ何も深くは考えずにポロリと言ってみると、
「誉めてるの?けなしてるの?」
とちょっと怒られる。
なんでけなしてることになるの!?と思いつつ、
「感動してるの。」
と答えると、夕さんは私の頬を大きな手で優しく撫でてから、すぐにワインをついでくれた。
キスしてくれるかと思ったのに!
大胆なのか、奥手なのかわからない。
こんなことがよくある。
気持ちを伝えてくれたのは夕さんだから、私は余裕かと言うと、この1か月余裕を感じたことなんて一度だってない。
仕事の忙しさは私とは比較にならず、今まで気にしていなかったけれど、お昼休憩もかなり早く切り上げている。夜も残業が多くて、おまけに会社の人によく食事に誘われている。
男性、女性問わずに良くお声が掛かる。半分はお断りして、半分ぐらいは参加している様子。
いちいち私に連絡がくるかと言うと、
そうではなくて、
目の前の席にいるので、今日は勝本さん、佐藤さんと飲みに行くのね。ということが分かる、といった具合いなのだ。
ほっておかれてる。と言っても言い過ぎでないと思うほどだ。
そうして私は急速に始まった恋に、急速に引きずり込まれ落ちていく。
単純だ私!
わかっていても、この状況にやきもきしないわけがない。
やっぱり作戦なの?
出張日を除いては平日ほぼ毎日目の前にいるのに、触れることができない。
「クリスマスは時間ありますか?」
煮えを切らして、チームの皆がまだ昼休憩から戻らないうちに、ハーブティーを片手に夕さんの席まで行き、小さな声でささやいてみた。
紙コップを丁寧に、パソコンから離れた場所に置く。
「ありがとう。」
夕さんはまだコップに触れている私の手に、おそらくわざと、上から包むように触れる。
「あっ、ごめんなさい!」
て、回りには誰もいないのに私の顔を見上げていたずらっぽく笑う。
「セリフっぽいです。」
と言うと、ゲラゲラと笑いながら、もうコップから離れた私の手をギューと握ってくれたりする。
「もちろん誰かのために空けています。クリスマスイブも、クリスマスも。どちらでも大丈夫ですよ。またメールしますね。」
もうこれは、完全に私が彼に夢中、という構図ではないか!?
席に戻ってさっき触れていた手を眺めながら、もうそれでもいいや。と思った。
だって、さっきのたったあれだけのやり取りで、なんでもいいかと思えるほど気持ちが落ち着いた。
クリスマスの夜は、日頃あまり連絡をくれないこと、文句言ってやろう。
と思っていた。
のに…。
そんな私の気持ちを知ってか知らずが、夕さんは二人になると糖度がすごい。
話す時のささやくような声色から、私の心を鷲掴みにする。
そうしてもう自分から離れられないようにしておきながら、ベタベタきそうで来ない。
「ゆき、昨日のシャツとスカートの組み合わせ、可愛かったね。このところ佐藤さんがずっと、柳井さんは最近いいことあったんだってうるさいんだよ。つまり可愛いって言いたいんだと思うんだけど。」
「え!?佐藤さん新婚さんなんだから、そんな風に思ってる訳じゃないんじゃない?私がニヤニヤしてるのかな…。」
「いや違うよ。明らかにちょっとやらしい目で見てるよ。ゆきは今まで通り、仕事をしている時は凜としていてとてもキレイだよ。」
「さらっと言わないでー。もっと堪能したい。ただでさえ夕さん、毎日目の前にいるのに独り占めできなくて歯がゆいのにー。」
「そんなこと思っていてくれてたの?表情に出ないね。まだ私の片思いだと思っていたから、嬉しいな。」
本当に嬉しそうにニコニコしながらワイングラスを手に取る。
机を挟んで向い合わせのところから全く距離が縮まらない。
もー!!こういうのって女の私の方から近づいてもいいものなのかな。
「夕さん!」
「なに?」
「そっちに行ってもいいですか?」
ケーキにも手をつけ始めて、ワインも二人でそろそろ一本開きそう、というタイミングで、酔いにまかせて私から言ってしまった。
もう完全に負けです。
私が、
もっと夕さんをほしい。
夕さんは一瞬驚いた顔をするとすぐ、ワイングラスを手に取って、さっと立ち上り私の隣に座る。
「ゆきが呼んでくれたら、いつだって私から側に来るよ。」
耳元でささやくように言う。
私の長い髪に、撫でるように触れて、
「ゆきが今ここにいる。嬉しい。」
て独り言のように呟く。
「夕さん」
「なに?」
「これは作戦なの?」
「え!?」
「ずるいー。」
「なんでなんで?」
「もっと目が合えばいいのに、もっと話したい。もっと近くにいたい。もっと触れたい。私以外見ないでほしいって、私だけがどんどん落ちていって、夕さんは平然としているし、でも今みたいなこと言ってくれちゃうから、もう心臓が口から出ちゃうよ。どうすればいいの!?」
「ははは!ゆきは本当に表現力が豊かだよね。」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ!夕さんだって女の子を甘やかすセリフは天下一品だよ。やっぱりプレイボーイなんでしょ!!」
「勢いにまかせてひどいこと言ってるよ、ゆき。ゆきにしかそんなこと言わないよ。思ってもないこと言える性格ではないもの。」
もう、子どもが駄々を捏ねているのと何も変わらない私に、夕さんはずっとニコニコしながら答える。
少し怒ったように言っても、顔は私を好きだって言ってると思う。
急に自分で自分が恥ずかしくなって、下を向いて黙ると、夕さんは優しく名前を呼ぶ。
「ゆき?」
「はい?」
自己嫌悪真っ只中の多分情けない顔で見上げる。
「ゆき、ゆきが嫌でなかったら、今ゆきを抱きたい。」
まっすぐに目を見て言われた。
こんなに、
真剣に伝えられて、
NOという選択肢があるのだろうか。
うるさい。私の心臓…
余計に恥ずかしい。
包まれる温かさに全身が反応して、脈がすごい。
拒む理由なんて何もないのに、夕さんは何度も私の表情を確認しながら、優しく柔らかく触れていく。
それが余計に恥ずかしくて心拍数はまたおかしなことになる。
「緊張してる?」
「夕さんが、そんな、自分だけ完璧な顔して私のこと見るから。」
「完璧な顔ってどんな顔?だって、ここにゆきがいるって、何度でも確かめたいんだもの。にやけ顔の間違いじゃない?」
そっと首もとに顔を沈められると、夕さんの髪の柔らかさと香りが甘く胸に広がる。
ほしい気持ちが大きくなって、あたたかな背中に手をまわす。
「夕さん」
「なに?」
「もうだめです。すっかりあなたの虜です。」
かすれるような声で呟くと、夕さんはさっきまでの優しさとはかけ離れた力強さで強く抱き締める。
「ゆき、ありがとう。」
「すごく、うれしい。言葉にすると軽いね。」
言葉の変わりに惜しみ無く注いでくれる優しさ。
酔いと心地よい疲れでそのまま眠りについてしまい、
そして今、夕さんに起こしてもらった。
「おはよう、軽くシャワーを浴びておいで、簡単な朝食を用意しておくから。」
「ありがとうございます。朝食なんて、大丈夫ですよ、気にしないでくださいね。」
「丁寧語になってる。もっと甘えてよ。」
コーヒーの香りが心地よい朝で、部屋もちゃんと温められ、外はまだ薄暗いけれど晴れた空、満たされた気持ち、味わったことのないあまい感覚に全身が包みこまれる。
「こんな朝もあるんだね。」
先に言ったのは夕さんだった。
「大抵、楽しい夜の次の日は、仕事に行く気分にはならなくて、なげやりな気持ちで起きるんだけどね。今日ならスキップして会社まで行けるかも。」
鼻唄混じりで楽しそうにコーヒーを入れながら、そう言う。
「同じようなこと思ってた。すごいね。」
「本当?それは嬉しいね。」
今度はキッチンからカウンター越しに私の目を見て言う。
「さ、シャワーを浴びておいで、タオルは適当にカゴの中の物を使って。」
「ありがとう。」
どこまでも整理された夕さんの家の中に落ち度は無く、タオルも籐カゴの中に規則正しく入っていて、良い香りがする。
髪を洗ってしまうと乾かすのに時間がかかるな…と、これからの動きを考えてやめておく。
ボディソープが湯気と一緒に香りをたてると、昨晩の夕さんをリアルに思い出してドキドキが止まらなくなってしまった。
私、今日一日この香りの自分で過ごして、心臓は持つだろうか!?
バスルームの換気を付けて、髪の毛が落ちていないか、汚していないかしっかりチェックして、もう少し大雑把にしていてくれたらいいのにーと思ったりする。
タオルはきれいにたたみ直して洗濯機の上の洗濯カゴに入れる。
昨晩着てきた薄手のニットとスカートを着て、素足のままで髪をおろしてリビングに戻る。
「お帰り、寒くない?」
またまた、ため息の出る光景。
淹れたてのコーヒー、ベーコンエッグとベビーリーフ、マフィンが並べられていて、
窓からは明るくなり始めた空の青さがキレイで、自分の体からは夕さんの香りがして。
「夕さん、どおして私を選んでくれたの?」
「どうしたの?突然。」
「昨日から思っていたんだけど、リビングもバスルームも、夕飯も朝食も、整い方がドラマみたいよ。完璧すぎる。私にはもったいないよ…。」
「夏に引っ越してきたばかりなんだよ。ようやく実家から自立したから、一から揃えたんだ。物が新しくて少ないってだけのことだよ。朝食なんて、焼いただけのものしか出してないだろ?それまで実家にお世話になってたってあたりから、まず大人としてマズイよね。」
机を挟んで向に座りながら夕さんは穏やかに話す。
「じゃあなんでゆきなのかと言うと、きっかけは白菜鍋のお店で話した、チーフのイチャモンへの対応だったんだけど。」
「引かないで聞いてよ。」
「聞きたいよ。」
「異動願いを出したんだ。今のチームに自分から。どうしても一緒に働きたくて、前任の葛西さん引き抜きで辞表出したって聞いてすぐ、今しかないと思った。」
「えっ?私がいるからってこと?」
「そうです。」
「丁寧語になってる…。」
「引かれたらどうしようかと思って緊張してます…。」
「いつも言うけれど、その意志のしっかりとした、媚をうらない横顔に一目惚れだった。でも社内でゆきに目がいくことが多くなって、そうしたら、誰とでも割りと親しげに、どちらかと言えば相手に話題を合わせながら話しているところを良く見かけて。」
「自己評価は後者かな…。意思は弱くて八方美人タイプと言われることが多いけれど。」
「そうか、マイナスにとるとそうなるのか?でも、自分に流されない確固たる意思はちゃんとあって、それでいて周囲との調和を考えているんだと思った。話を合わせていても、目が真っ直ぐだった。決して媚びてない。好かれたいと思って合わせているわけではないんだろ?」
「あまり深く考えていなかった。私次女なの。相手に嫌な思いをさせず立ち回るのは私の中では当然で、でも私のこと嫌いならそれはそれで構わないと、確かに思ってる。」
「おまけに気遣いがすごい。感動のレベル。」
「気遣い?」
「そう、ここからは今のチームに異動してきてわかったこと。まず飲み物を必ずPCから遠くに置いてくれる。それも静かに、でも分かりやすく。1回目に使わなかった砂糖は次には出さない。私は要らないとは言わなかったはずだから、確認してくれていたんだよね。空気読めない系の女子にもコメントが優しいし、上司にも男性にも女性にもフラットな態度。頼まれなければ余計なお世話で媚ないし、でも頼まれればなんでも気持ちよく引き受けてくれる。そんな女性に始めて出会ったと思う。」
「夕さん、誉めすぎだよ。女子力としては少しぐらい媚が売れた方がいいんだろうし、仕事断らないのは、何の役にも立っていない後ろめたさからだし、華江ちゃんのことは心の中で何度もコノヤローって思ってるよ。」
「それでいいの。そんなゆきで、だから大好きなんです。」
「昨日のゆきも、自分にはもったいないと思えるほどきれいだった。ゆきも早く私のこと、大好きになってね。」
「もー!!!」
きっと顔が真っ赤になっている。
一気に血液が上昇した感覚。
両手で顔を隠して下を向く。
「あはははは!」
夕さんは本当に面白そうに笑い、手を伸ばして頭を撫でてくれる。
「もうなってる!」
うつむいたまま大きな声で叫ぶと、
「光栄です。」
と、とても落ち着いた声で返してきたりするから、無性にに腹が立った。
やっぱり夕さんは余裕で、私のことからかってるんだ~!
「ひどい~」
「なんで?」
「面白がってるでしょ…。」
「そうだね、一緒にいる時間もゆきとの会話も、楽しくて仕方ない。けっこう我慢したもの。」
ずるい。
ささやくように話す声が、
あまくあまく胸にとどまる。
「さあ、急いで食べて出発しよう。ゆきの家は会社から近いけれど、一度着替えるとなるとギリギリだよ。」
「うん。いただきます。」
「引かなかった?」
「深くめり込んだ。」
「やっぱりゆきと話すのは楽しい!」
はははと気持ちよく笑いながらコーヒーをすする夕さんの目が優しくて、
こんなに私のことを理解して評価してくれる人がいると言うことの幸せで胸が痛いぐらいで、涙が出そうになるのをこらえながら飲んだコーヒーは調度いい甘さで、
何だかんだ言っても夕さんだって、私がどのくらい砂糖をいれているか見ていてくれたんだと気がつくと、ついにたまっていた涙が一粒あふれてしまった。
夕さんは「ゆき?」
と優しく呼んでから、わかっていたように、「調度いい甘さだったでしょ?」て笑う。
「うん。大好き。」
「もう、大好きだよ。」
「ありがとうと。ちゃんと伝わってるよ。」
て、やさしくささやく。
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