第7話 ゆきと夕さんの二人だけのはなし
次の約束は、
ロールキャベツの美味しい洋食屋さんにならなかった…。
白い天井を見上げて、掛け布団を口元までしっかりと掛けて、昨日の渡川さんの台詞を頭の中で繰り返す度に、私は何度でも喉元まで込み上げる暖かい血液を感じて、得たいの知れない高揚感に襲われ、胸の中をくすぐられる感覚に飲み込まれる。
嬉しい?
それはもちろん嬉しい。
自分を女性として評価してもらえる。しかも誰もが憧れるような人に。
嬉しく思わないはずがない。
ただどうしても、喜びに浸りきれない。
私は、
特急電車に乗ってしまった…。
本当は各駅停車に乗りたかったんだ。
目的地は、確かに同じなんだけれど、旅の途中におやつを食べたり、ゆっくりお茶を飲みながら他愛のない話をして、これから行く場所へ思いを馳せて、私はそうして旅をしたいタイプ。
そうして着いた目的地だからこそ、景色は何倍も綺麗に見えて、食べ物は美味しくて、空気すら美味しく、愛しく思えて、お土産物なんかも無駄に買ってしまったり、写真をいっぱい撮って、思い出を深く心に刻もうと思うんだ。
気が付かずに乗った電車が、出発したら、駅を何駅も猛スピードでとばして、用意したおやつも開けられないままに目的地に着いてしまったら、これは早く着いたことを喜ぶべきなのか、到着に至るまでのワクワクとした行程をはしょられた事を悲しむべきなのか、困惑する人は少なくないはず。
私は、明らかに後者で、意図せず特急電車に乗ってしまったことに困惑している。
けれども、誰かにとられるくらいなら私の側にいてくれたら、
そんなことも頭をよぎり、
いや、渡川さんは飾り物でも、私の欲求を満たしてくれる道具でもない。
と思い直し、自己嫌悪に陥る。
学生の頃から一度だって、好きで好きで、自分がどうにかなってしまいそうなほどの片想いをして、ようやく結ばれてお付き合いを始めた、何て経験をしたことが無い。
知らず知らず思われていて、いや、思ってもらっていて、相手の思いが膨らんで突然爆風に巻き込まれ、気が付いたら内側にいる。そんな恋愛が多い。
そして後悔もした。
では今回も同じか?
と自問すると、
それも違う。
あまりに住む世界が違う人だと思い込み、自分で恋愛対象から除外しようとしていた。
好きではなかったのではなくて、傷つきたくなくて、好きになら無いようにしていたんだ。
だから、人としての憧れの気持ちもある、社会人としての尊敬の気持ちもある。
男性としての振る舞い、髪型、ファッションだって好み。
それはすごく好きなんでしょ、と言われれば、「はいそうです。」と簡単に認められるぐらい気になって仕方がなかった。
気に入られようと努力もした。
でも、、、
だけど、
やっぱり各駅停車でたどり着いた場所とは思えない。
何が足りないの?
こんなに幸せなのに。
私は、これ以上何がほしいの?
わからないよ。
お酒が少しは残っていて、頭の中はまだまだふわふわしていた。
頭上で短いバイブレーションが3回。
メールだな。体を少しも動かさずに、頭だけが働いている。
土曜の朝、メール…。
渡川さんかな。
昨晩、別れ際の渡川さんはどこまでも紳士だった。
お店から近い駅まで送ってくれ、回札前で立ち止まる。
「ご自宅までお送りしたいけれど、それはさすがに鬱陶しいでしょうから。」
「柳井さんごめんなさい、本当にごめん。お酒の力を借りて言うことでは無かったですね。柳井さんだって今言われても、断れないでしょうし。本当にごめんなさい。」
どうしてこんなに完璧なんだろう。
これで俺様だったら、
俺に言われて断る女なんていないだろうぐらいな態度だったら、思っていた人と違う!って、反抗することもできたかもしれないのに。
「明日か明後日はお時間ありますか?ランチでもいかがですか?」
できるだけ明るい声で言ってみた。
私も必死だった。
罪悪感を持たせ過ぎず、私に気持ちは繋ぎ止めながら、でももう少し待ってほしいと、遠回しに伝えたかった。
結果延ばせたのは1日。
貴重な1日だと思ったけれど…何もまとまらずもうすぐタイムリミットは来る。
そしてまた、私は流れに身を任せて流されていくんだ。
そう思いながらも、求められる充足感に、心は満たされて、すごく価値のある自分であるように思えることが心地良い。
渡川さんの真剣な顔を思い出しては、王子さまに求婚されたシンデレラ(昨日までは灰を被っていたようなもんだから)のような気持ちにさえなれた。
アドレスの交換は私が提案した。
渡川さんはあまりにも申し訳なさそうに、しゅんとした顔で謝るから、できる限りの明るい笑顔で携帯を差し出し、
「渡川さんの個人携帯のメールアドレスを、よかったら私に教えてください!」
と私の携帯を渡した。
心から信頼しています、と伝えたかった。
渡川さんは眉を下げながら優しく微笑み、
「喜んで。」
と言いながら、また見とれてしまうような仕草で私の携帯を操作して、自分のアドレスと電話番号を登録してくれた。
【柳井です
今日はとても楽しい時間を
ありがとうございました。
ご連絡お待ちしています。】
渡川さんの目の前で、すぐにメールを送る。
「登録、お願いします。」
と言いながらニコッと笑う。
渡川さんはトレンチコートのポケットから自分の携帯を取りだし、ささっと操作すると、数秒後に私の携帯にメールが入る。
【渡川 夕
私の方が楽しかったと、
胸を張って言えますよ。
明日のランチはいかがですか?
午前中にメールします。】
「目の前にいるのにメール、面白いですね。了解です。」
渡川さんがそっと手を差し出す。綺麗な仕草で。
私は何も考えずに、その大きな手の指先に軽く触れた。
とても満足そうに私の指先を軽く握り、
「おやすみなさい。」
と笑う。
そして、私の肩をもってくるっと私を回す。自分に背を向けさせ、背中をトンっと軽く押す。
「さあ、電車に乗ってください。あなたに先に背を向けるなんて、私はできませんからね。」
イタズラっぽい声で言うから、私はクスクス笑いながら、
「おやすみなさい。」
と腰から上だけをひねって渡川さんに目線を合わせて伝える。
「はい。」
見られていることを恥ずかしく思いながらも、振り返らずに改札を通りホームに降りた。
甘い。甘すぎる。渡川さん、女性にそんなに甘いの?
今まではどんな人と付き合ってきたの?
私なんかで務まるの?
電車にうつる自分の顔を、妙に好きだと思えた帰り道だった。
そして今、ようやく体を動かして、頭の上の携帯を手に取る。
ディスプレーにメール受信のマーク。
受信箱を開く
【渡川 夕 】
の文字。
【おはようございます
昨日はありがとうございました。
体調はどうですか。
本日12:30恵比寿待ち合わせで
いかがですか?】
何だかとても淡泊なメールで拍子抜け。
もしかして渡川さん、昨晩すごく酔っていたのかも。
私に言ったことも、あった出来事も覚えていなかったらどうしよう…
私だけ勘違い女…?
でも、こうして約束した事は覚えているし、メールもくれたのだし、、、
しかし恵比寿って、
どこにランチに行くの!?
今日会って、昨晩のことを無かったことにされたら、
嫌だな。
自分のことなのに、他人事のように確認しながら返信メールを作る。
できるだけいつも通り。いや、メールアドレスを教えてもらったのが昨日なのに、いつも通りもないか。
【RE おはようございます
承知しました。
回札前で良いですか?
体調はバツチリです。
渡川さんはいかがですか?】
送ったメールにドキドキしながら返信をまったり、相手のメールに一喜一憂したり、
やっぱりこの人私のことを好きなんじゃないのー!?って思ってみたりしながら進んでいくのが楽しい。
なんて思うのは私が年より幼いのでしょうか。
今からでもそんな気持ちを味わいたいと、素直に伝えたら引かれるだろうか…?
いや、もう無理だよね。
というよりここまで自分勝手に考えて、「昨日のことは無かったことに。」なんて言われるオチだって無い訳じゃない。
まずはランチに行くしかない。
短いバイブレーション3回
【RE2 おはようございます
体調バッチリ素晴らしい!
私もまずまずです。
少し残っているかな?
回札前でお願いします。』
「ふふ、返信が早い」
一人で呟いてから、顔がにやけていることに気が付く。
やっぱり好きなのかな。
*
淡いピンクのVネックニット、ベージュのフレアスカートに太めのベルト、濃紺のスリムなニットジャケット、小花柄のストール。
ピンクのニットと小花柄のストールだけでも十分迷った。
いつものお仕事着と同じ過ぎず、いつもと違いすぎない。
だって、プライベートで会うのは始めてだから、渡川さんがどんな格好で来るかもわからない!
いつもはスリムスーツに少しおしゃれなワイシャツ、あの雰囲気ならカジュアル過ぎはダメでしょ!?可愛すぎもきっとイメージじゃないはず。
あれこれ迷ってここに落ち着いた。
髪は耳の上ですくってヘアクリップでとめる。前髪に軽くワックスを付けてふんわり左に長す。ちょっとは知的に見えるだろうか…
鏡の前で、真剣な顔で悩んだ後、気合い入れすぎて残念な結果になったら嫌だから、無難に行こうと思い直した。
家の扉を開けると、正午前の明るい光と冷たい空気がようやくお酒の抜けた頬に気持ちよい。
電車に乗り恵比寿に向かう。
待ち合せ10分前。もういるだろうか。私が先かな?
どんな格好で、どんな風に待っているか、もしくはまだいないか…気になって仕方がないけれど、そんなソワソワは見せないように、肩から掛けたショルダーバックの紐を両手で握って、しゃんと前を向いて歩く。
改札外、見慣れないカジュアルな格好でもすぐに渡川さんだとわかる。
あー、この人は、どうすれば自分がかっこよく見えるかわかってるんだ。
ほんの少しの嫌味も含み、そんな風に思った。
でもそれがしっくりと、様になっているから、もうお手上げです。文句のつけどころがありません。
「渡川さん、お待たせしました。」
目を落としていた携帯ディスプレーからすぐに私に目を会わせる。
嬉しそうに微笑んで、
「こんにちは。」
と言い、すぐに携帯を閉じて斜めがけにしているレザーバッグの中にしまう。
携帯画面はおそらく電子書籍っぽかった。
どこまでも嫌味だな。ゲームとかやっていてくれた方が親近感がわいたのに。
なんて、私はくだらないことを考えているのに、渡川さんはオフな感じの優しい声色で話す。
「来てくれてありがとうございます。カフェ、とかでよいかな?」
「よかった!恵比寿で待ち合わせとか言うから、高級レストランだったらどうしようかと思いました。カフェ大賛成です。」
本当に安堵して素直に伝えると、渡川さんはいつも通りに、ははは、と笑い、
「柳井さんのそういう素直なところが良いですね。」
とさらりと言う。
昨日のことは、
ちゃんと覚えてる?
この「いいですね」は深い意味があるの?無いの?
「好きですよ」と言われていたら、答えは出るのに。いや、余計モヤモヤするか。
この人の全てが計算だったら怖い。
そんな様子は全くないけれど。
濃紺、深めの丸首に白の縁取りが可愛い薄手のウールシャツ、チャコールグレーのスリムパンツ、ベージュのコットントレンチコートのベルトをカジュアルに後で結んでいる。
小ぶりのレザーバッグを斜めがけにして、長身の渡川さんは壁に少しだけもたれかかり、足をきれいに揃えて立っていた。
メガネの奥の目はいつもの仕事をしているときの冷静な渡川さんの目で、私はわけもなくドキドキした。
この人が自分の恋人になるだなんてあり得るのだろうかと、ドキドキしながら考えて、さらに胸をぐっと押し込まれる。今さら相手と自分の身分の差を感じる。私が隣に立っても似合わないんじゃないだろうか。
でも、
今迫られているのは私のはず…。
不思議でならない。
不思議なまま隣に並んで歩く。
「柳井さん、昨日はありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
自然に車道側を歩いてくれる渡川さんを、見上げて、伝える。
渡川さんも私に視線を合わせながら話す。
「昨日のこと、ちゃんと覚えています。勢いでもなんでもないんです。本当の気持ちなんです。」
「あー、、、でも、今言うことでは無いですよね。だめですね、昨日から私、柳井さんに早くこの事を伝えなければと、お酒の勢いや、冗談ではないんだと、とにかく伝えたくて、タイミングや間が、最悪ですね…。」
「あの、私は今日、無かったことに、と言われるのかと思って来ました。」
「そう思っているかと思ったんです。あなたのことだから、笑い飛ばして、どうせ酔っているんでしょ、で終わりにされてしまうのではないかと。」
「そうしようかと思ってたんです。だって誰が見たって私と渡川さんでは不釣り合いだし、どっきりか何かの賭けのネタなんじゃないかって、今でも不安です。」
「私があなたに相応ではないのはわかってますが…」
「え!?何言ってるんですか?逆です!私が、渡川さんの横を歩くのが似合わないんです。」
「何でですか?」
「見た目も、仕事も、性格も、渡川さんはなんでも完璧で、私は総て中途半端です…。」
言い終わる前に目線を外す。
本心だけど、言っていて自分が情けなくなってきてしまった。何てひがみっぽいんだろう。
こんなんじゃ本当に釣り合わない。
泣きそうな顔になっていたかもしれない。
突然
渡川さんはわりと強めに私の手を引き、立ち止まる。
驚いて見上げる。
強く握られた手の、触れている部分だけが異様に熱く感じて、自分の心拍数のすごさが経験したことのない感じで、私の血液がそのまま渡川さんに流れてしまうのではないかとさえ思えてしまう。
「柳井さん、あなたはとても魅力的です。今日だってあなたの姿を見た時、これからこの人の時間は少しだけでも僕のものになると思っただけで、言い知れない気持ちになりました。」
渡川さんの真剣な目。
仕事の時とは少し違うその声は、安定剤のように安堵感をくれて、心地のよい緊張感を残す。
この人の側にいる人が何となく幸せそうなのは、こうして相手のよいところを、当たり前のことのように、自然に評価してくれるからなのだろうか。
「柳井さんの伝える言葉の柔らかさ、温かさ、面白さも、二人でいつまででも話していたいと思った女性は、柳井さんが始めてです。信じて下さい。」
もうどんなことになっても、例え騙されていたとしても、今この雰囲気に流されない女子なんていない。(しつこいようだけど女子ではないか。)
「昨日から私、変なんです。どうしたらよいかわからなくて、言葉も上手に選べないんです。」
「昨日のことを、無かったことにしようと言われたらすごく嫌だったんです。今こうして会うまでの時間も、ドキドキして仕方なかったし、渡川さんのことばかり考えていたんです。」
「でも今、すごく好きかどうか、私はちゃんとはわからないんです。ただドキドキがとまらなくて、側にいてほしいと思うんです。それだけでもいいんでしょうか?」
そのままの気持ちを、そのまま伝えなくてはと思った。
渡川さんが、今までに見たこともないほど真剣な目で、私をまっすぐ見ているから。
「柳井さん」
「はい」
「今、抱き締めてもいい場面ですか?」
肩に軽く触れた手が大きくて、優しくて、とても安心できた。
渡川さんの目をまっすぐに見つめ返す。メガネの中の瞳の真剣さに不安だった気持ちがふいに緩み、きっと私は笑いながらうつむいた。
そして、気付くと無意識に、自分で渡川さんの腕に触れた。
渡川さんは私の肩を、優しく、包むように触れる。
「柳井さん、お願い、私の彼女になってください。」
「はい。」
突然、
勢い良く体を離され、驚いた目で私を見る。
「本当にいいんですか?」
「は、はい。」
数秒の間があって、
「あー、もう、飛び上がりたい。」
眉を上げて、目を細める。口元を手で隠しながら渡川さんは下を向いて笑う。
さて、目の前にいるこの人は本当に私の知っている渡川さんなのか。
たった2日で2人の関係は様変わりし、2人を包む空気まで変わってしまった、と、私は思う。
目の前で下を向いてニヤニヤをこらえているこの人は、いったいどのくらいまでこうなることを想像していたのだろう。
都会の道の真ん中で、週末の真っ昼間、20代半ば過ぎの大人が2人、たった今、お互いの同意で昨日とは別世界に住むことが決まり、よろこびと期待でニヤニヤしていたら、、、
はたから見たら驚くほど滑稽だろうなー、と今の私たちを空の上から観察しているように想像して、
私もつい一緒に笑ってしまった。
そんな私を見て、渡川さんははっとしたように顔をあげて背筋を伸ばして、でも顔は満面の笑顔で、突然手をぎゅっと握り自分の方に私の体を引き寄せる。
「さ!お昼ご飯食べに行きましょ。」
手を繋いだままどんどん歩く。
もちろん私の歩幅に合わせて歩く。
横顔を見上げる。やっぱり、ふんわり前髪も、細フレームの眼鏡も、スリムなトレンチコートも何もかも似合っている。
この人の手にかかれば、
私も少しは似つかわしく様になるのだろうか。
そんな自分を想像して、ちょっと前なら所有されるなんてまっぴらごめんだと思っていたのに、その軽い束縛感すらも心地よく思えて、沈黙も何も気にならず、二人手をつなぎ、恵比寿の町を歩く。
「名前で呼んでもいいですか?」
「はい。」
「ゆき、今日のあなたもこの町の誰よりも可愛いです。」
甘いよ渡川さん!空気がまとわりついてくるみたいだ。
そんなこと言わないでよ。くすぐったすぎて腰が抜けちゃう!!
「私も名前で呼ぶなら、夕さん?呼び慣れないと変ですね。今日のあなただって、駅で一際目立っていました。」
「バカップルだね。」
うつむきながら、ふふふ、とご機嫌に笑う渡川さんを見上げ、「カップル」という単語を頭の中でヘビーローテーションさせる。
時間が、とけてなくなってしまうのではないかと思ったのは始めてだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます